第十回 「ひと冬の夢」 (フィリピン編)

Philippines




一日目:春節脱出作戦

上海に赴任して二度目の春節(旧正月)。健全な自分を維持すべくガソリンが必要になった。大好きなアジアで、しかも一番世話になってきた中国で連日覆いかぶさる試練の数々。なじめない仕事、複雑な人間関係、そして孤独…。プレッシャーに完全に押し潰される前に自分を少しでも取り戻せれば…。旅立ちを決めたある寒い冬の日のことだった。

 

 一度も訪ねたことの無い国はまだまだ沢山ある。中国から容易に行ける国、一週間程で満喫できそうな国はどこだろう? 今からビザを取ってちゃ間に合わない…。地図を広げ、現在の条件にふさわしい渡航先を絞り込み、希望順位に並べてみる。

 春節休みは旧暦なので期間は毎年異なり、その都度政府の発表に基づいて全国が動く。しかしこの政府発表は毎回遅く、休みの始まる一週間前に発表なんてことも珍しくない。13億人余りが大移動する春節だ。発表を待ってからフライトの手配を始めてもおよそ手後れとなり、せっかくの休みにもかかわらず結局身動き取れなくなるのがよくあるパターンだ。春節に第三国に行く僕などにとって、行けるか行けないかは毎回賭け同然なのである。

 僕は渡航先候補六ヶ国の名前を書いたメモを片手に、ダメもとで上海市内の旅行社に駆け込んだ。計画通りのフライトが存在し、空き席があり、費用もよほど高くなければ即決断するつもりでいた。フライトを調べてくれている旅行社のお姉さんが叩くコンピュータは正にルーレットそのものであった。

 

 結果、僕が手に入れたのはフィリピン行きの航空券。1月23日に上海から香港を経由して夕方にマニラ到着となる。戻りは1月29日で一週間の予定だ。フィリピンか…。いつか行こうとは思っていたが、渡航先候補の順位は正直あまり上の方ではなかった。まずフィリピンの見所はやはりリゾートであり、現地に知人がいない以上、一人旅にはふさわしくないと思っていたからだ。いずれ現地に友人ができるか、一緒に行く人が現れるまでとっておいていたのである。そしてもう一つの問題はフィリピン関係の情報を得ることがここ中国では極めて難しいということ。書店に行っても関係書籍はほとんど無く、インターネットで得られるトピックスはせいぜい国際結婚か、フィリピンパブか、ダイビングか、援助団体関係で情報内容にも偏りがある。その中のいくつかのホームページに名を連ねる経験者達に、もう少し詳しい情報をもらおうとメールを送ったが軒並み返答無し。インターネットでできることはきっとここまでが限界なのだろう。情報が少ないとは言えフィリピン、特にマニラと言えばその治安の悪さだけはよく耳にする。空港に着いてからホテルまでの足を確保しておかないと危険だとさえ聞く。むしろ全く情報の無い中東なんかに行く方がまだ気が楽だとさえ思った。しかし行くと決めたからには、少しでも充実した旅になるよう乏しい情報を組み合わせながら自分でプランを立ててみることにした。

 

とりあえず日本から早急に送ってもらったガイドブックを見て適当なホテルを予約。当日空港への出迎えもお願いした。初日は夕方到着だからマニラで一泊。翌日24日はセブ島に飛び、市内観光。25日午前中はセブで体験ダイビングをやってみたい。ダイビングの免許はまだ無いので三時間程インストラクターと一緒に潜るやつである。午後は隣のボホール島に行って一泊。26日はボホール島にある奇妙な風景として知られる「チョコレート・ヒル」を見に行き、27日にマニラに戻る。夜はマニラから少し離れたタガイタイという町に行き、フィリピン歌謡界の大スターであるフレディ・アギラーのライブハウスに行って生ライブを聞く。28日は一日マニラ観光のツアーに乗っかり、翌朝7時のフライトで上海に戻るというプラン。これだけスケジュールを詰め込んでおけば一人旅でも退屈しないだろう。実は去年の春節、同じく情報の乏しい状況で台湾を旅行し、最初から最後までたった一人のかなり寂しい旅をしてしまった。春節なのでどこに行っても親子連れかカップル連ればかりで、誰かと話しようにも入り込めなかったのだ。せっかくの休み、自分でプランした旅で嫌な思いや寂しい思いをして自信を失ってしまうほどもったい無いことは無い。それは経験を通じてわかっている。だから今回は予定を盛り沢山組み込んでおいた。もちろん旅先で何らか出会いがあればその都度変更すればいい。

 出発の直前、マスコミはこぞってフィリピンに注目し始めた。98年に圧倒的な人気で当選した元俳優のエストラダ大統領(通称エラップ)が汚職疑惑でその人気が失墜、マニラ市内では辞任を求める抗議デモが連日行われていた。そして1月20日、遂に群衆がマラカニアン宮殿を包囲、エストラダは政権を投げ出し、副大統領のグロリア・マカパガル・アロヨ(通称G.M.A)が大統領に昇格するという形で政権交代が実現した。80年代に独裁者マルコスを追放した市民革命を「ピープル・パワー」と呼ぶことから、今回の政変は「ピープル・パワー 2 」と呼ばれる。何はともあれ、出発する僕自身も、その行く先も正に変動の時ということか。 

 

 1月23日午後6時。懐かしい東南アジア特有の熱気を肌で感じながらニノイ・アキノ空港に到着した。入国審査は長蛇の列。フィリピン人と並んで欧米人が多く目につく。と言うか、フィリピン人と欧米人のカップルが目立つ。広東語を話す香港系の人々の他に、日本人カップルもチラホラ。僕のように一人でやって来た者は見当たらない。ま、僕は僕なりにこの旅を楽しんでみせるつもりだが。

 それにしてもこの国の入国審査のルーズさと来たらひどいものだ。いつまでたっても列が前に進まない。一人に対して一体何十分の時間をかけているのか。ホテルには午後6時にマニラ着と言っておいたが、空港を出る時には既に7時を回っていた。

 「ミスター・Ling Mu、ようこそフィリピンへ。」

空港の出口には予約を入れておいたホテル・チェリー・ブロッサムから来た出迎えが待っていた。とりあえずきちんと出迎えが来てくれたことに安心した。

 「フィリピンは初めてかい? 俺は運転手兼ガイドをやってるワリーだ。宜しくな。」

久しぶりに交わす英語。99年モンゴルで出会ったドイツ人マイクと話をした時以来だと思う。この国ではコミュニケーションの手段はほぼ英語一本ということになる。この一週間は中国語を忘れ、頭の中で言語設定をした。なかなかフレンドリーなこのワリーという男はたまにカタコトの日本語を交えて話す。チェリー・ブロッサム(桜)の名前を持つホテルであるせいか、日本人宿泊者も多いので自分で勉強しているのだという。

 「空港の名前のニノイ・アキノってのは人の名前なの?」

 「ああ、80年代マルコスに殺された民主運動家のベニグノ・アキノのことだ。俺達のヒーローさ。」

すっかり陽が落ちてしまったマニラの街。見えるものといったら列をなす車のライトだけ。反対車線はちょうど帰宅ラッシュだったが、中心部に向かう僕達の車線は至ってスムーズだった。

 「二日程前マニラは随分騒いでたみたいだけど、今は静かだね。」

 「大統領が無事交代したからね。この政変で血が流れなかったのはよかったと思う。この国はもう民主国家だからな。最初のピープル・パワーの時、マルコス軍事政権は自由な言論や活動を一切認めなかったから、多くの人が命を落としたんだよ。」

 「今度の大統領をどう思う?」

 「エストラダよりうまくやってくれることを望んでるよ。」

大通りを抜け、庶民的な細い通りに入ると、きらびやかな車が目立つようになる。フィリピンと言えばこの有名な乗り物、ジプニーだ。これはタクシーではなく、大型のジープを改造したミニバスと考えてよいが、ミニバスという乗り物はまた別にあるようだ。そんなジプニーのわきを縫うように走り回るサイドカーを改造したような乗り物はトライシクル。アジアなら大抵どこにでも存在する庶民向けの輪タクで、バイクタイプのものと自転車タイプのものがある。

 「ところでLing Mu、今回はフィリピンのどこを回るんだい?」

 「明日セブ島に行って、ボホール島を回ってからマニラに戻るんだ。」

 「マニラに戻るのはいつ?」

 「27日の予定だ。ただ27日夜にはタガイタイにあるフレディ・アギラーのライブハウスに行きたい。」

 「ホビット・ハウスか、俺もフレディは好きだ。ライブ日程を確認しよう。それからうちのホテルの近所に提携してる旅行社があるから、今晩でも担当者に電話して、明日の朝早速手配しよう。とりあえずホテルに着いたらプランについて相談するか。」

 「わかった。そうしよう。」

ホテルはマニラの大手デパートの一つ、ロビンソン・モールの向かいにあった。早速チェックインを済ませ、部屋に案内された。なかなか大きい部屋で悪くない。テレビもローカル放送始めアメリカ、日本、スペイン、中国、インド、アラブとあらゆる国々の番組を見ることができる。荷物を置いた僕は早速ワリーと旅のプランについて相談することにした。予定上明日にはセブに行きたい僕にとって、とにかく早く手を打っておく必要があった。まずネックになるのは27日のフレディのライブである。インターネットを通じて得た情報では金曜日と土曜日の夜にライブがあるそうだ。だとすると27日にはセブからマニラに戻り、タガイタイに直行する形になる。しかしライブがあるかどうか次第では、もう少しセブかボホールに滞在したい。ワリーは早速部屋から旅行社に電話をかけ、僕のプランについて話してくれた。

 「旅行社は明日10時には開くから、その頃に出向くとしよう。フレディの件は明日の朝確認してあなたに連絡しよう。9時半にまた来るよ。」

 「そうだね。じゃ、また明日。」

こうしてワリーは帰って行った。協力的な彼のおかげで僕のわがままプランもスムーズに実現できそうだ。詳しい事は明日また考えることにして、食事をしに行くとするか。

 

 一階では美人フロント嬢が、日本人のオッサン連中のチェックインに四苦八苦していた。彼等は誰も英語を話せず、通じるはずもない日本語で押し通し、スマイルのきれいなこのお姉さんもさすがに困り果てていた様子だったので、僕は見かねて通訳を買って出た。無事手続を終えたオッサン達は礼も言わずにそそくさと上に上がって行ってしまった。先程もワリーから聞いていたが、マニラには安いゴルフ場が多いので中年のゴルフ客がよく来るらしい。しかし安いとは言え、わざわざ外国までゴルフをしに来るような身分の人がこんな安宿に泊まるのには何か理由があるのだろうか?

 「この近くにレストランはある?」

僕は一仕事終えたフロント嬢に早速聞いてみた。

 「すぐ隣のロビンソン・モールにいっぱいあるわよ。」

 「フィリピン料理を食べたいんだけど、代表的な料理を教えてよ。」

 「そうねえ、シニガンはどうかしら。」

 「シニガン?」

 

 ロビンソン・モールの入口をくぐると、その強い冷房で一瞬鳥肌が立った。地元ブランドのデパートなのか外資系なのかはよくわからなかったが、これまた壮大な規模。この時間はやはりカップルを中心とした若者がほとんどだった。すれ違う人々の顔は当然のことながら、色黒で濃い顔をした東南アジア系。白い肌の日本人がそれとなく歩くと何か浮き上がってしまうほど異なる容姿をしている。他の東南アジアの人々と同様、背丈はさほど高い方ではないが、美男・美女が多い。特に女性は顔、スタイル共に美しく、思わず振り返ってしまうような人は至る所で見かける。さすがは混血文化の国。

 二階から三階にかけて全フロアを敷き詰めるように軽食の店が並んでいる。ジャンルもKFCのようなファーストフードからステーキ屋、日本料理、ベトナム料理、中華料理と多種多様。とにかくフィリピン入りした第一日目だ。フィリピン料理を食べない手は無い。それらしき出店を一つ一つ回ってみる。すると「カレカレ」という札が目に入った。要するにフィリピン風にアレンジされたカレーのこと。カレー好きの僕としてはどんなものか興味があった。

 「カレカレ、下さい。」

 「すみません、今品切れです。」

 「あ、そう。えーっと、シニー…、そう、シニガンはある?」

 「はい、ありますよ。中に何を入れますか?」

 「中に? 例えば?」

 「例えばシーフードとか、野菜、肉とか。」

 「じゃ、肉お願い。」

ホテルのフロント嬢が言っていたシニガンとはどうやらスープのようだった。スープだけではふくれそうもないのでご飯も一皿注文。更に隣の店でハロハロというかき氷を買い、トレーに乗せて近くのテーブルに腰を下ろした。まずはシニガンをスプーンにすくって一口。中身はブタ肉とタマネギ、それに何か緑色野菜の茎らしき物のみのシンプルな内容。しかしこれがまた酸っぱい。タイのトムヤムのように辛さも伴った酸っぱさならOKだが、ただ酸っぱいだけのものはちょっと苦手だったので結局二、三口であきらめてしまった。ご飯はインディカ米というのか、日本とは違う長細いパサパサしたもの。ま、初めてではないのでこちらは平らげた。しかし何より驚いたのはフィリピンのかき氷、ハロハロである。タガログ語でごちゃまぜという意味を持つこのデザート、一応フィリピン料理初心者の僕でも耳にしたことがあったので注文してみた。色とりどりのアイスクリームが乗っかったこのハロハロ、ちょっと男一人で食べるのには勇気がいったが、とにかくあらゆるものが本当にごちゃまぜに入っているのだ。上がアイスで下がかき氷なのだろうという程度にしか思っていなかったがそれは大間違い。アンミツにナタデココ、コーンフレークにマンゴー、そしてドリアン。なぜかあんこのかたまりや、トウモロコシまで入っている。とにかくすごいボリュームなので一人では食べきれなかった。これは女性と二人で食べる物なのかも知れない。あるいはシニガンもご飯もやめてこれだけで晩メシにしてちょうどよかったかも知れない。いや、それは太るし、お腹も壊しそうだからやめた方がいいだろう。結局三分の一は残して僕はロビンソンを後にした。

 夜、テレビのチャンネルをいろいろ回していると、タガログ語のローカルチャンネルでエストラダ退陣に至るまでの特集番組が放送されていた。死者が出なかったとは言え、エストラダ支持派と反対派の衝突の映像は凄まじいものがあった。G.M.Aというイニシャルで俗に呼ばれるアロヨ新大統領は53歳だそうだが五十代にはとても見えないぐらい若くて美人である。フィリピンの人気女優であり歌手でもあるノラ・オーノルに似ている。選挙ではエストラダをしのぐ得票で副大統領に当選し、唯一の野党出身の閣僚だった。フィリピン第五代大統領マカパガルの娘で、アメリカで経済を学んでいたエリートだという。

 テレビではエストラダがマラカニアン宮殿を去った後の群衆の動きが流されていた。新大統領アロヨを囲んで雄たけびを上げ、愛国歌「バヤンコ」を合唱する人々。センチメンタルな前半、そして希望に満ちあふれた雰囲気の後半のメロディーが共に美しいこの歌はフレディ・アギラーの持ち歌でもあり、僕も大好きである。

 しかし選挙当時はあれほどまでに支持されてきたエストラダ大統領が汚職によって信頼が失墜し、最後は市民によって倒されてしまうということに、フィリピンの人々の政治への関心の強さと権力への毅然とした態度が感じられる。国民の8%しか支持していないにもかかわらず、首相がどんなにバカな発言をしようが、国民を侮辱した態度を取ろうが、国際社会からひんしゅくを買おうが、直接的抗議行動を示さない日本人はきっとフィリピンの人には理解できないだろう。ましてやどんなに腐敗していても結果的に与党が勝つ選挙などを知ったら、日本の民主化成熟度は自分達のレベルにもまだ及んでいないのではないかと思うに違い無い。

 

 翌朝8時半、僕は目覚まし時計に起こされた。フィリピンは中国との時差が無く、時計をいじくる必要が無いので楽だ。一階でサンドイッチとホットケーキ、そしてコーヒーという極めてアメリカンな朝食を取り、部屋に戻ってしばらく荷物の整理をしていると、やがてワリーがやって来た。

 「おはよう、ワリー。」

 「やあ、おはよう。フレディのライブの件、調べたよ。」

 「それで、どうだった?」

 「ライブは土曜日夜9時だ。ただホビットハウスは場所が移転したようだね。」

 「タガイタイじゃないの?」

 「うん。アンティポロっていう街に移ったそうだ。マニラから車で3時間ぐらいの所かな。」

僕は今日セブに立ち、27日にマニラに戻ることにした。そしてマニラ到着時にワリーに空港に来てもらい、そのままアンティポロに行ってライブを見る。その晩は一泊して翌朝にはマニラに戻り、午後からシティツアーに乗っかろう。

 「じゃ、旅行社に行くとするか。」

僕とワリーは一階に降りた。するとフロントの前には女性が一人待っていた。

 「こんにちは、あなたがLing Muさんですか。では、旅のプランについて話しましょう。」

 よく見るとフロントのすぐ隣に小さな椅子とテーブルがあり、そのテーブルにはトラベル・オフィスという札が下げてあった。旅行社の人間がこちらに出向いて来たようだ。僕はワリーと一緒に席に座り、ざっとプランを書き記したノートを彼女に見せた。

 「セブとボホールですか。今春節のシーズンで、香港や台湾の旅行者が多いので、ホテルがかなり厳しい状態です。向こうに行ってから宿泊先が無いとなると面倒だし、安全を考えて今ホテルを予約しておいた方がいいですね。」

またまた春節の問題か。華僑も少しはいるようだがキリスト教圏であるフィリピンにはその問題は絶対無いと思い込んでいた。ま、空港でのピックアップもふまえ、確かにホテルは予約しておいた方が安全に違い無い。

 ワリーが横から付け加えるように言った。

 「ボホール島辺りに最近アブ・サヤフ(イスラム原理主義過激派)の活動拠点ができたんじゃないかって聞いたことがあるから、安全には気をつけてな。君は一人だから観光する時はなるべくガイドと一緒に行動した方がいい。」

そして旅行社の女性は続けた。

 「ワリーの言う通り。それにあなたは個人旅行だから、現地に着いてからその都度交通費や宿泊費を払うより、始めからパッケージにしてしまった方が安いですよ。」

 「パッケージか。マニラからセブ、ボホールへの交通と宿泊を一まとめにするってことかい?」

 「そうです。今、空いているホテルをチェックしますね。」

彼女はいくつかのホテルに電話をかけ、メモ帳にその金額を書いた。

 「まずマニラ・セブの往復便が5,253ペソ(約12,000円)、セブのホテル・センター・ポイントが一泊1,500ペソなので二泊分で3,000ペソ(約6,900円)。ボホールのホテル・ラ・ロカが一泊1,800ペソ(約4,100円)、それにセブでの車のピックアップ300ペソ(約700円)なので、合計10,353ペソ(約24,000円)になります。」

 「少しディスカウントしてよ。」

 「じゃ、10,000ペソ(約23,000円)でいいですよ。」

 「するとセブやボホールでの市内観光や体験ダイビングは個人的に手配するってことだね?」

 「そうですね。セブのホテルにも旅行案内所があるから大丈夫ですよ。」

やはり高いな。しかし春節ラッシュで宿泊料がつり上がることはありうるし、何しろ今日セブに立つ僕にはもう時間が無い。安全面も考えて僕はこのプランに決めることにした。