第七回 「卒業旅行報告」
(インドネシア・ラオス編)
Indonesia
Laos
インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間
訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ
ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間
訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン
インドネシア報告
一日目:ジャカルタ
青い空と対照的なオレンジ色の屋根の家々が並ぶ南国の街、ジャカルタ。この国の表玄関、スカルノ・ハッタ空港に一人降り立つ。もっとも正確には僕の他に数人のビジネスマンがいたわけだが、こぼれ落ちんばかりにあれだけ乗っていた学生風の旅行者達は皆あの飛行機を降りずにそのままバリ島に行ってしまった。入国手続を済ませた僕は予約していたハイヤーで一路プレジデント・ホテルへ。何だか自分でも想像つかなかった不似合いな出だしにかえって緊張を覚える。本当は友達に会いたかった。かつて北京の同じキャンパスで学んだ仲間がここジャカルタにも一人いたのだが、連絡がつかないまま出発日を迎えてしまった。一ヶ月前に手紙を出し、僕のインドネシア行きを知らせ、電話もしくは電報で折り返し連絡をくれるよう頼んだのだが一向に返事は無かった。北京留学を終えて就職したので寮にでも移ったか、結婚したかで僕の知っている住所にはもう住んでいないのかも知れない。ジャカルタに着いてから電報を打つという手も無くはないが、今回のプランでジャカルタにいるのはたった二日。時間的余裕も無いので今回はあきらめるより他あるまい。そんなわけで右も左もわからずに一人で乗り込んで来た僕は、とりあえず初日だけは安全な方法で滞在先を確保したのである。
空港を出たのは夕方の5時。市内に入って早々目にしたのは噂の大渋滞であった。赤と白の二色旗であるインドネシア国旗と共にヤシの木々が並行に並ぶメインストリートを埋め尽くさんばかりの車の大洪水。そして渋滞のひどい一郭に決まって現れるのは新聞やミネラルウォーターを売る少年達。中にはまだ熟れてもいない果物の実やおいしくなさそうな菓子、三十センチ以上もある木彫りの馬の置物等、一体誰が買うのだろうと思うようなものまでが車と車の間を縫うように行き来する。そんな彼等と行動を共にしながらうまく物乞いをしている者もいた。冷房の効いた車の中から外の雑踏を眺める一方で、日本のビジネスマンをよく相手にしているという人懐っこいハイヤーの運転手との会話もはずみ、たった一人でジャカルタ入りした緊張感は少し和らいだ。
「しかし、今回何でバリ島に行かないんだい?」
流暢な英語を操る運転手は不思議そうに聞く。中国が長い僕はバリ島についてそれほど情報を持っていたわけではないが、日本人観光客がウジャウジャいて商業主義の嵐が吹き荒れるイメージ漂うその島に対し、他の日本人が抱くほど特別な魅力は感じていなかった。どこに行ってもしつこい物売りがいて観光客を数十人で取り囲むとか、買わずに相手にしないと日本語で罵り言葉を浴びせられる等聞いたことがある。のんびり休みを過ごすのにわざわざ不愉快な思いをしたくはない。そこで今回、神秘的な習慣を持つと言われるトラジャ族の住むスラウェシ島を選んでみたのだ。