第十一回 「雨、歴史、そして微笑み」
          
(カンボジア編)

Cambodia


カンボジア旅の期間:2002年8月13日~8月18日 8日間

訪問地:プノンペン、プレイベン、シエムリアプ

一日目:プノンペン到着

二日目:プノンペン散策

三日目:カンボジア日本友好学園へ

四日目:友好学園で教師体験

五日目:アンコール・ワット 前編

六日目:アンコール・ワット 後編




一日目:プノンペン到着


 窓の外からメコンの支流に囲まれた街が見えてきた。街いっぱいに緑が生い茂り、あちこちに溜池のような水溜りが点在する。これら緑と水の間を縫うように豆粒のような車が右往左往している。乾季に一度訪れたことのある人から見れば信じられない光景のようで、機内のあちこちから英語やフランス語、韓国語や日本語で感嘆の声が聞こえてくる。この風景があと数ヶ月で茶色い平地だけの街に変貌すると思えば確かに信じられまい。バンコクから約一時間、まるで国内線のような小さな飛行機はいよいよポチェントン空港に着陸。極めて庶民的な顔立ちをしたスチュワーデスに紫色の花を渡されてタラップを降りる。周りを見渡せば、花をもらっていたのは女性だけのようだった。なぜ僕まで手渡されたのか疑問を抱くヒマも無く、一行はビザカウンターへ。現地空港でビザを取得するというのも初体験。申請用紙と顔写真、そしてパスポートを審査官に渡し、長いカウンターの最後尾で待つ。カウンターには役人が10人程横一列に座り、ビザ発給の作業をベルトコンベア式に行っている。細かく役割分担されているのか、一人の審査官が申請者の書類上に何かチョコッと書き込んではそれを隣に放り投げ、次の審査官がまたチョコッと書き込んでは隣に放り投げるといった具合に色とりどりのパスポートは右から左へと流されて行く。そして最後尾の審査官がシール式のビザの貼られたパスポートを開き、持ち主の名前を呼ぶ。呼ばれた人はビザ代20ドルと引換えにパスポートを受け取り、晴れて入国ができるのだ。

 

ピカピカの床、そして新築の香りがまだ残る壁。小さいが東南アジアのどこの空港よりもきれいなポチェントン空港。無料で配布されている日本語の観光案内冊子をパラパラめくりながらコンベアに流されてくる手荷物を受け取り、メンバーと一緒にゲートをくぐる。ついにカンボジアに来てしまった! 初めて訪れた国への第一歩を踏む時の興奮は何歳になっても変わらない。ちょうどスコールが降り出した夕方の首都プノンペン。雨でずぶ濡れになってもウキウキしていた。

 「こんにちは、お疲れ様でした!」

 一足先にプノンペンに着いていた I さん、そして今回の旅をコーディネートしてくれるコン・ボーンさんとその孫ブンティさんが出迎えに来ており、一行は早速ホテルの送迎バスに乗り込んだ。

 

 上海の職場から帰任して一年、ふとしたことがきっかけでこの国に関わってしまった。99年、国際交流を図る民間団体が紹介されている本をたまたま眺めていた所、アットホームな雰囲気の中でアジアの諸問題について討論するサークルがあるのをふと見つけた。その時は興味があったものの、上海赴任が内定していたので特に何もしなかった。帰任後、改めてそのサークルにコンタクトしてみると、後日連絡窓口のMさんから諸資料と一緒に丁寧な文面でお返事を頂いた。サークルは現在カンボジアを支援するNGO「カンボジア教育支援基金 (CEAF)」の事務局機能として再スタートしたとのこと。フリーマーケット等で資金集めを行っているので、興味があったらご参加下さいと結ばれていた。実は僕、前からフリマをやってみたかったのだ。ちょうど上海からの引越しの直後であり、家の中にはいらない物がたんまり。でも捨てるのはしのびない。フリマに出店すれば家は片付き、不要品は再利用され、しかも現金化できるなんて一石三鳥じゃないかと思っていた矢先であった。しかもNGOとしての出店なら、きっと売ることそのものが何らか人の役に立つのだろう。その後青山通りで初めてフリマの店番をしてハマってしまい、それ以後毎月出店の手伝いをしている。メンバーには主婦や学生、教師が多く、普段仕事上では出会えない人達からいろいろな話を聞けるのも魅力だった。このCEAFは元々戦火のカンボジアから難民として日本に脱出した元共同通信ジャーナリスト、コン・ボーンさんの提唱で結成され、彼の故郷であるプレイベン州の子供達に教育を受けさせるべく学校建設、運営を行っている。現在プレイベンには半官半民という形で「カンボジア・日本友好学園」が設立され、約200人程の生徒がそこで通常教科の他に英語や日本語も勉強している。フリマの収益はその学校の教師の給与に当てられる。なぜ教師かと言うと、この国では教師という職業が不安定だからである。四人家族が暮らしていくのに本来月50ドル位の生活費が最低限であるカンボジアにおいて、国から教師に支給される給与は28ドル。しかも財政難に直面しているため支払の遅れが目立ち、実際の所17ドル程しか支給されていないのが現状である。従って彼等は教師以外に建設現場作業や運転手、商店の店員や農家の手伝い等、副業を持たなければ家族を養っていけない。しかしそれでは副業の状況次第で授業が行えなくなることもあり、その間せっかく生徒が学校に来ても授業を受けられないという事態に陥る。そこでまず教師という職業を安定化させるべく、最低限の生活費のうち足りない分を補填する手段の一つとして、フリマ出店を行っているのだそうだ。

 

 前置き長くなったが、要はこのCEAFが年に二回程スタディ・ツアーとしてカンボジアを訪れ、友好学園の運営状況を確認すると共に生徒達と交流するイベントを行っている。CEAF主催の会議や飲み会に参加する度に学生を中心としたメンバーから現地で数日間教鞭を取った等面白い体験談を聞かされ、これはぜひ参加してみたいと思ったのだ。しかしツアーの開催は旅行代金が比較的安い時期に限られており、通常は雨季の6月頃と乾季の3月頃の二回となっている。ツアー参加者の多くが大学生や予備校生、そして教師中心であることからわかるようにこの時期では会社勤めの人間の参加は難しい。ところが何と奇遇なことにCEAF代表のAさんは、僕が浪人時代通っていた予備校の先生で、僕自身英語を教わっていたのだ。そこで勤め人も休めそうな時期に何とかツアーを開催頂けないものかとかつての教え子からダメもとでお願いしてみた所、後日ちょうど夏休みに当たる8月にツアー開催が決定されたとの知らせをMさんから聞いた。その日はちょうどフリマ出店の日だったのだが、思わずお客さんそっちのけで狂喜乱舞。興奮してフリマどころではなかったことは言う間でもない。以上が今回のカンボジア訪問までのいきさつである。さて、話を戻すとしよう。

 

 今回のスタディ・ツアーのメンバーは何と僕以外全員女性であった。通常は代表のAさんがツアーリーダーを務めているが、今回は若手のリーダー格でしっかり姉さんのEさん。大学生活と両立させながらこの活動に深く関わる中堅メンバーの I さん。ベテラン勢ではフリマ参加当時からお世話になっている事務局のMさん、そしてフリマでは威勢のいい母ちゃん役としていつも皆に元気を与えてくれるKさん。以上の4人はフリマを通じて既に面識がある。それに今回アジアが初体験というTさん、この他スタディ・ツアー二回目という二人の女子大生組が加わった計8人が今回の旅に同行する。いわゆるパッケージツアーとは性格が異なるが、団体による旅は89年のパキスタン旅行以来13年ぶりなので、いろいろ面倒をかけてしまわないかちょっと心配でもあった。スタディ・ツアーと言うと何だか人の役に立つための勉強をする旅というやや硬派なイメージがついて回るが、旅人の視点から見てみればパック旅行ではできないディープな体験と、一人旅ではできない楽ちんな移動が保証されており、なかなかお得な気分を味わえるスタイルなのだ。などと下心がちょっと出てしまったが、あまり背伸びせずに自分のペースで現状を見ることが大事なのだと思う。

 

 雨の中、メンバーを乗せた送迎バスは中国と同じ右側通行の直線道路をつき進む。日本車が目立つが、ハンドルの位置は車によって右だったり左だったりで、かなりアバウトである。バンコクやジャカルタなら大渋滞になっていてもいい時間帯だが、流れは案外スムーズだ。しかし人が少ないわけではなく、車と車の隙間をくぐり抜けるバイクや歩行者の流れは途切れることが無い。雨なんてすぐに止むから必要無いと思っているのか、傘をさしている者はほとんどいない。バイクは自転車同然と思われていて、多くが無免許運転らしい。見る限り街を流しているタクシーは無く、移動の手段はモトと呼ばれるバイクタクシーか、シクロという自転車を改造した輪タクのみのようだ。僕達よりも一足先に到着していた I さんは、友好学園の校庭に将来栽培する予定のコショウの苗木を買うため、今日はモトにまたがって市内を駆け回っていたのだそうだ。 商店や食堂と隣り合う建物の一階に「天宮大酒店」と中国語の看板が下がったパラダイス・ホテルに到着。外見からはホテルであることに気付かなかったが、フロントはきちんと英語が通じて感じは良い。ロビーには木製のゆったりした大きな椅子が沢山置かれ、約10人いる僕達メンバーでもちょっとした打合せができる。まずは大きな荷物を担いでエレベーターに乗り込んだ。荷物の中のほとんどは学校訪問の際使うため、事前にみんなで分担してきた小道具の数々。習字セット一式にA4コピー紙500枚セット、クレヨン五箱に自炊で使うカレー・ルー等々。プレイベンに着くまでの辛抱と我慢して担いで来た。今晩僕達が泊まる部屋はすべて六階。エレベーターが六階に着いて扉が開く時、なぜか七階部分の表示灯が点滅していた。変なエレベーターだなと首をかしげながら降りようとすると、五センチ以上もある床との段差につまずく。しかもここでモタモタしているとドアに挟まれてしまう。荷物等が一度挟まれたらこのエレベーター、絶対に放してはくれないので無理にでも引っ張って脱出するしか無い。手でも挟まれたらどうなるんだろうと想像するだけでも怖い。もう一つ困ったのは六階までついて来た初老のボーイさん。メンバーの中で唯一男性であることもあってか、他の人のことは気にも止めずになぜか僕だけの荷物を担ぎ、部屋の鍵を開けた。そして中に入るやテレビのスイッチを入れ、日本の放送をやっていないかとリモコン片手に一生懸命チャンネルを回し始める。チップをもらいたい一心からやっていることは見え見えだったが、変な癖を持たせてしまっては今後も続くスタディ・ツアーの人達が迷惑するので相手にしなかった。荷物を置くとすぐに洗面所に入って手を洗い、ついでにトイレで用を済ませた。その間約三分。普通のボーイなら当然出て行ってしかるべき時間が経っているにもかかわらず、彼は僕が洗面所から出て来た後も、なおテレビの前に仁王立ちしてリモコンをガチャガチャいじくっている。

 「何かテレビに問題があるんですか?」

たまりかねた僕は一応丁寧な調子で彼に聞いた。

 「いや、日本語のチャンネルを・・・。」

 「別に構いませんよ。自分でできますから。」

僕はそう言ってテレビのリモコンを彼から取り返すように受け取り、彼に対してあくまで丁寧に、しかし半ば強引に帰って頂いた。もちろんチップは渡していないし、渡す必要も無い。

 

 さて、こうしてはいられない。ロビーではコン・ボーンさんとブンティさんが待っているので、カメラだけ肩に下げてすぐに下へ降りた。今晩の食事はどこにしようか、ここまで来る飛行機の中でEさん達と相談した結果、カンボジア料理店「カルメッテ」か、中華料理店「北京餃子館」のいずれかにしぼられていた。今日はあいにくの天気なので、ホテルから徒歩三分の北京餃子館に決まった。

 「コンバンワー、ドコイキマスカー?」

ホテルの入口でたむろする2, 3人のモト・ドライバーがカタコトの日本語で声をかけてくる。レストラーン、と言って僕達が通りの向かいを指差すと、行き先がすぐそこの飲食店街であることをみんな理解したらしく、それ以上言い寄っては来なかった。信号を渡って飲食店街を歩くとまず目につくのが低所得層向けの飯屋。夜だというのに何の照明も無く、そしてテーブルも無く、路上に並べられたプラスチック製の小さな椅子に座り、その薄汚れた服を雨でズブ濡れにしながら皿一杯の飯にかじりついている人々が細い道を埋め尽くしていた。出発前に僕の周りのカンボジア経験者からは夜のプノンペンは危ないから歩かない方がいいと何度も忠告されてきた。内戦終結により使われなくなった小型武器が市場で安く出回るようになった上、拳銃所持に関する法的規制がまだ整備されていないため、治安は極めて悪いと聞く。目的地の食堂は目と鼻の先。僕達は少しでも明るい方へと足を速めた。

 「いらっしゃい、何人ですか?」

 「10人です。」

北京餃子館の従業員は想像通り華僑系で、僕の中国語が通じた。この店の並びの飯屋も皆「東北風味」や「川菜(四川料理)」等の看板を下げており、まるで北京や上海の小道とほぼ同じ雰囲気を持つ言わば「ミニ中華街」であった。言葉の通じる住み慣れた文化圏に入り、少しホッとする僕。一番奥の部屋に通され、テーブル二つをつなげて全員席についた。中国語のメニューを渡された僕は名物の餃子の他、うまそうな料理を何品か注文した。各席のコップに地元銘柄のアンコール・ビールが注がれ、コン・ボーンさんの号令で乾杯。ガイドブックでも紹介されている有名な店らしく、近くのテーブルからも日本語が聞こえてくる中、早速中国時代によく食べたおなじみの料理が次々と運ばれてきた。

 「コン・ボーンさん、お久しぶりですね。お体の調子はいかがですか?」

Mさんの問いにコン・ボーンさんは穏やかな笑顔を浮かべた。

 「ええ、気持ち的には元気なんですが、ここ最近ちょっと疲れが来たのか、少しめまいがしますね。以前のようにあまり長く車を運転することは控えています。」

彼は日本在住中覚えた日常会話程度の日本語も交えてそう話してくれた。今回プレイベンの学校を訪問する際、コン・ボーンさん達も同行する予定であるが、体調が良くないため当日まで少し様子を見る必要があるとのことだった。僕も今回初対面だったのだが、ここでCEAF創設者であるコン・ボーンさんについて簡単に紹介しておこう。70年代までジャーナリストとして共同通信社プノンペン駐在事務所に勤めていた彼は、後のポル・ポト政権下で知識人として逮捕される。他の多くのジャーナリスト達と共に人里離れたジャングルに連行され、死刑宣告も無いまま一人一人その場で処刑が行われていく最中、自分の番が回ってきた瞬間、兵士に体当たりして命からがら脱出に成功。身包みはがされながらも親類・知人の住む村を転々として何とか生き延び、行き着いたタイの難民キャンプで知り合った日本人ボランティアの助けあって、かつての上司のいる日本へ辿り着いたという壮絶な経歴の持ち主である。祖国が虐殺の現場となったのは教育が全面否定された結果であり、国を再び立ち上げるにはまず教育を復活させなくてはならない、来日後コン・ボーンさんの提唱でCEAFが設立された。ここまでに至る話は彼自身の著書である「殺戮荒野からの生還」で詳細に記されている。僕も事前にそれを読んでいたが、正に昔見た映画「キリング・フィールド」そのもの。何の罪も無い人々が虫ケラのように殺されていくあの暗黒の時代を生き延びた人が勇気を出して世に出した実話の記録であった。ポル・ポト政権時代、命を狙われる立場にあったコン・ボーンさんが逃避行の中で見せる優れた気転や判断力、勇気そして人々からの信頼のお陰で、死の恐怖から間一髪で逃れられるその場面場面に読んでいる僕自身も一緒に冷や汗を流し、あっと言う間に読み終えてしまった。殺されるとわかっていながらも自分を持ち続け、そして生き続けることを絶対にあきらめなかった彼の半生はとにかくすごい。そんなコン・ボーンさんも現在御年60歳。少し体の調子が悪いとは言っても、若々しいバイタリティが強く感じられる。しかもあの壮絶な時代を生き抜いた人とは思えないぐらい、笑顔を絶やさない穏やかな人柄で僕達8人を優しく包み込んでくれていた。

 「では、コン・ボーンさん。早速ですが今の学校の状況について教えて頂けますか?」

Eさんの司会進行で友好学園の状況報告が始まった。コン・ボーンさんは自分の前に置かれた福建風焼きそばを周囲の人に勧めると、孫のブンティさんの通訳を通して話を始めた。

 「今月19日から8年生(中学3年生)の高校受験が始まります。まだ混乱を抱えるこの国ではやはり皆豊かになって現状から抜け出したいという願望が強いので、競争は年々激しくなっています。合格枠というのは無く、一定点数に達しない人は全員不合格となります。試験問題も難しく、何より制限時間が大変短いので、受験生の努力も並大抵のものではありません。最近よく見られるのは、受験生がクロマー(カンボジア人が首に巻いている手ぬぐい)の端を机の近くにくくりつけて勉強する光景です。居眠りして体勢を崩そうものならたちまち自分の首が絞まるのですが、そんな仕掛けをわざわざ自分で作る程、徹底的に勉強に打ち込んでいるのです。中にはまるで日本の受験生のように精神的に参ってしまう子すらいます。」

 「子供達の親御さんもやはり教育熱心になるんですか?」

Kさんが聞いた。

 「そうですね。熱心になるあまり替え玉受験が当然のように行われたり、親が試験場の窓めがけてカンニングペーパーを投げ込む等、悪い傾向もよく見られます。上層部から末端まで腐敗が横行しているのが現状です。」

コン・ボーンさんはちょっと溜息をもらして続けた。

 「友好学園ももうじき新たな生徒を募集しますが、この時期になる度に我々関係者は頭の痛い事態に直面します。試験に受からなかった受験生の父兄が連日私や校長を訪ねて来るのです。なぜ受からなかったのかとしつこく問い詰めてくる人もいれば、何とかしてくれと土下座して泣きついてくる人もいます。ことに目立つのは不合格した息子を持つ地方官僚です。彼等に当たってしまった日にはそれなりの脅しを受けることもあり、中にはそれに屈して合格にしてしまう教師もいます。現在はこうした試験結果の歪曲を防ぐため、他地区の学校教師に試験監督を依頼したり、答案用紙をプノンペンの専門業者に添削してもらう等制度が改正されました。これによってかなり公正に合否が決まるようになりましたが、依然我々を訪ねて来る人は後を絶ちません。できる限り彼等の気を静め、現状を話して何とかお引取り頂くことに神経を削る日々が続いています。」

こんな状態を続けて体がおかしくならない方がおかしいと思った。僕達があさってプレイベンの学校を訪れて体験するのはあくまで「陽」の部分。しかしその裏には「陰」の部分もあることをコン・ボーンさんは事前に包み隠さず教えてくれた。教育復活への道はまだまだ険しいということだ。

 

 食後、コン・ボーンさんは休息のため一足先に車で帰り、僕達八人とブンティさんはホテルのロビーで明日のプノンペン観光の打合せをした。今回のツアーには初心者とリピーターが混在しており、明日は二手に分かれて行動することになる。僕とMさん、KさんそしてTさんは初めてのスタディ・ツアーなので、ブンティさんの同行で市内観光の一般コースを回り、リピーターである残りのメンバーはロシアン・マーケットと呼ばれる蚤の市を中心に気ままに市内を散策するのだそうだ。とりあえず明日の朝9時に再びロビー集合ということになった。