第七回 「卒業旅行報告」
         
(インドネシア・ラオス編)

Indonesia

Laos


インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間

訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ

 

ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間

訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン



ラオス報告



四日目:シエンクアン

 翌午前中、僕達は再び市場を散策。奥に入る程道は入り組み、様々な民族が闊歩する空間へと誘う。黒いターバンを頭に巻いたタイ族や中国でミャオ族と呼ばれるモン族等の色彩溢れる様々な衣装がこの狭い道を行き交う。互いに言葉が通じているのか否かすら定かではない。ふと見つけたモン族の店に並ぶテープはジャケットにラオス文字が無い。モン族の言葉は文字が無いので、歌手名や曲名はローマ字で表記されていた。その隣にはラオ族のテープ屋。ラオス・ポップスのテープは先日ビエンチャンで随分買いあさったので珍しくはなかったが、その中で一つだけ、例の石壷の写真だけがジャケットとなっている不思議なテープを見つけた。店員にこれは何かと聞くが、それだけはわからないと首を振る。早速購入してウォークマンで聞いてみれば、長唄のような民謡がただ延々と続く。音楽そのものよりも、こんなテープに出会えたということに価値があるのだろう。エスニックな布が好きな田中さんに誘われて今度は織物ばかりの通りへ。うち一軒の店に寄り、ラオスの生活の様々な場面で使われる織物を一つ一つ手に取って見てみる。どれも濃い色が中心の細かな菱形で構成された刺繍が施されている。もちろん自分で使うわけではないが、中国の友達に買って帰ろうと思いシンと呼ばれる巻きスカートの生地を手にすると、店先に腰をかけて値段交渉。シエンクアンは涼しいねぇ、ビエンチャンは暑かったよぉ、なんて可能な限り世間話を交えながらゆっくり値切っていくのがラオス流。シンというのはシンの状態では通常売っておらず、生地をまず買って、後で寸法に合わせて仕立てる、言わば全品オーダーメイドなのだ。こうして手に入れた生地を新聞紙にくるんでもらった僕達は一旦市場を出て昼食を取った。飯屋に座るとまず出される箸。この国が箸の文化圏にあることは明らかにタイとは異なる。ラオス料理というのも基本的にタイ料理に近いようだが、バンコクでいつも食べていたパッタイ(焼きそば)は見当たらず、代わりにベトナムでポピュラーなフォーと呼ばれる米の麺があった。これにサラダを加えて注文すると、何と料理の上にはおびただしい量のパクチー(中国で香菜、日本でコリアンダーと呼ばれる草の香料)が青々と覆いかぶさっていた。中国料理にも多く使われるが僕はこれが大の苦手。しかしその評価は賛否両論にはっきり分かれ、田中さんはどちらかと言うと大好き派の方であったので、処理はすべてお任せした。勘定後、店の女の子から「ボーサイ、パクチー(パクチーを入れないで)」という言葉を教わった。これだけ知っていればラオスで十分生きていける、と僕は思った。

 

 宿に一旦戻り、先程市場で買った布をシンに仕立ててもらえる場所は無いかご主人に聞いた。彼はすぐ向かいにある店を指差し、そこに持って行けばOKだという。そしてお決まりのようにラオス語はわかるかと聞かれた。彼がそう言い終わる前にノーと首を振ると、ではタイ語は? フランス語は? とこれまたお決まりの順序で聞かれた。ラオス、タイ、フランスとは、この国で通じる言語の順番なのかも知れない。しかし僕達は四番目に来る言葉をもう知っていた。中国語はわかるか? 主人がそう言い終わる前に僕達は待ってましたとばかりに向かいの店へと駆け込んだ。

 「この布をシンに仕立てるのかい? ああ、いいよ。今晩仕上がるから後で取りに来なさい。」

低いテーブルと椅子だけが置かれた、一見何の店だかさっぱりわからない所であったが、この店のおやじは流暢な中国語で応対してくれた。まさかこんな山奥の田舎町にさえも華人がいて、中国語を使えるなんて・・・。東南アジアにおける中国語の強さを改めて実感させられた。

 

 午後、僕と田中さんは宿のジープに乗り込み、石壷を求めてジャール平原へと出発した。宿の主人が運転手兼案内人。英語ができるわけではないが、途中爆撃でできたクレーターや戦車の残骸にさしかかるとまめに車を停め、一応ガイドとして案内すべき最低限のポイントは押さえていた。途中主人は運転席を降り、草むらの方へと入って行ったので、てっきり用でも足しに行ったのかと思いきや、何と彼、おもむろに一升瓶大の不発弾を抱えて戻って来た。そしてまるでラグビーボールをこちらにパスするかのようにヒョイとそれを僕に手渡し、写真を撮るよう促した。半分化石化したようなその鉄の塊のずっしりした重さを感じながら僕は一枚だけ写真を撮り、同じように田中さんへパス。二人で十分なぐらい触りまくった後、主人はその不発弾を元の草むらめがけてポイッと放り投げていた。後日僕は、数多く残る不発弾に少し触れただけで爆死する事故がラオスで頻発している実情をニュースで知った。何も知らず無邪気に不発弾を肩に担いでシャッターに収まっていた当時の写真を見ると、今も背筋が冷や汗でいっぱいになるのだ。

 

 遥か地平線もはっきりと見渡せるジャール平原。ベトナム戦争の際に「ホー・チ・ミン・ルート」という北ベトナム軍補給路の一郭を担い、米軍を悩ませた地。旧日本軍の参謀で戦後代議士となった辻正信が突然失踪したとされている地。500キロ爆弾が雨のごとく降りそそいだ跡がかつての戦闘の激しさを静かに語る。目の前に広がる大きな丘のふもとにぽっかり開いた洞穴。足を踏み入れるとほぼ空洞になっているその不思議な内部は、かつてパテト・ラオが司令部として使っていた。丘の頂上に開けられた換気用の穴から入る日光が内部を照らし、食料や燃料を詰め込んで埋めたと思われるドラム缶が地表から頭の部分だけ覗かせている。そんな丘の周囲に無造作に点在する大小様々な石壷群。いずれもラオスの歴史の一コマを刻んできた遺産にもかかわらず全く接点の無い双方が奇妙にもこの寂しい平原で隣り合いながら現在に至っている。宿の主人は僕のノートに1445年という数字を書いた。どうやらこれら壷が14世紀に作られたと言いたいらしい。辺りにはこれら以外に石は見当たらない。石壷は小さくても餅つきのウスぐらい、大きな物は人間がすっぽり入ってしまうぐらいであり、そもそもここで作られたものなのだろうか。完成した石壷は象でここまで運ばれたと主人は絵で説明してくれた。では一体何のために運ばれたのか? なぜここなのか? 20世紀に入りフランス人学者がここを調査した結果、これらは酒を造って貯蔵しておくためのものではないかと発表した。しかし戦後日本の調査隊がここを訪れた際、石壷の真下から人骨が掘り出されたことで、これらは遺体を安置するためのものだという新説が浮かび上がった。この調査において更に数ある石壷の中に一つ変わった壷が発見された。主人に案内されて見せてもらったその石壷の表面には人間らしき彫刻が残っている。この発見により日本の調査隊は葬儀等儀式的な目的で作られたものであると発表した。そう言えばインドネシア・スラウェシ島にあった石柱の家は儀式的な目的による建築であり、周辺に石が無かったためどこかから石柱を水牛で運び込んだと聞いた。もちろんラオスとインドネシアでは地理的にも離れてはいるが、スラウェシ島のトラジャ族は遥か昔に中国から移って来たと言われており、元のルーツをたどれば共に中国南部であったと考えられる。豪族の葬儀に巨石が使われたという風習が一致していても不思議ではないのでは? 無論勝手な裏付けだが、現存知識を組み合わせて当時を連想するのも楽しい。

 

 奇妙な石壷が放置された平原を後にした僕達は次の石壷のポイントへ。そこはガラっと雰囲気が変わり、緑の生い茂る山の中。ここから先は車ではムリだ。私はここで待っているので、あの子供達について行ってくれ。主人は僕達を車から降ろすと、身振りとカタコトの英単語を並べてそう言った。そして近くで遊ぶ五、六人の小さな子供達を呼び集め、この二人を石壷の所まで案内しろとラオス語で頼んだ。子供達はまるでいつものことだよと言わんばかりにヒョイヒョイと丘を登り始めたので僕達もその後について林を抜けて行くと、視界が開けた所にちょうど例の石壷が約十個程姿を見せた。ここの石壷は平原のそれに比べてどれも大型。最大のものは小型車ぐらいもあり、僕と田中さんはおろか、案内してくれている子供全員さえも上に乗ることができた。

 「林を抜けた所に石壷か。こんな風景をバックに歌手がCDのジャケット作ったらいいだろうな。」

 「ついでにこの子供達も歌手の周りに立たせればいい絵になりそうだね。」

こんなどうでもいいような会話を皮切りに、僕達はCDジャケット写真の撮影大会を始めてしまった。歌手はいないので僕達が代行し、この石壷の上や周囲で子供達も動員してポーズを取り、二人で代わる代わる奇妙な写真を撮った。当初シャイだった子供達も次第に積極的にポーズを取って協力的になってくれたこともあり、僕達は石壷を単なる遊び道具にしてしばらくはしゃいでしまった。子供達はおとなしいけどイヤな顔一つせず、言葉も通じないのに僕達のワガママにきちんと応じてくれたが、なぜか手をつないだり、握手をしたりする行為は拒むのだった。大人の習慣である握手に違和感を持っているか、連れて行かれてしまうと思っているためのようだった。

 

 石壷と自然、そして子供とのちょっとしたふれ合いを堪能した僕達はジープへと戻る。帰りは少し疲れてウトウトしていたが、途中急に重力が逆さまになるような感覚を覚えて目を覚ますと、何とジープは傾斜の激しい岩山を登っていた。更にこの主人、山の中に横たわる流れの早い川さえもものともせずに鼻歌混じりで渡って行く。他では体験できないワイルドなドライブにしばし興奮していると、やがてたどり着いたのは巨大な滝であった。滝と言うか、一本の太い川が山の上から岩の階段を下りるかのようにゆっくりと流れていた。僕達は滑らないように石の上を飛び移り、自分の指紋さえはっきり見えるぐらい透き通ったその冷たい水をすくい、山でつけた手足の赤土を洗い落としていた。その間主人はと言うと、滝の片隅で一人草取りに夢中。どうやら彼は僕達を滝の岩山に案内したのではなく、単に夕飯のおかずを取りに来ただけのようであった。

 

 夕方、シンの出来栄えを見に行った。きちんとホックが付けられ、エキゾチックなグリーンのスカートの完成にすっかり満足。何とこの店、本業は仕立屋ではなく飯屋だったので早速近くの小椅子に腰掛けて夕飯を食べることに。隣で食事をしていた二人の客は何と中国人で、僕達が中国語を使っていたのを聞き話しかけてきた。二人共雲南省昆明の出身で、ここへは木材の買い付けに来たのだとか。特に産業の無いラオスはこの豊かな自然の一部を売却して外貨を獲得しているらしい。この時飯屋のおやじさんが古くて大きなテレビのスイッチを入れると、ジャッキー・チェンのカンフー映画が始まった。それに合わせゲストハウスの子供始め近所のガキ共がキャーキャーと集まって来て、店はちょっとした映画館状態。一世代前の日本人がテレビを持つ家に集まっていた頃って、きっとこんな雰囲気だったのかも。興奮したガキのパンチを受けながらしみじみ思う。