第七回 「卒業旅行報告」
(インドネシア・ラオス編)
Indonesia
Laos
インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間
訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ
ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間
訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン
ラオス報告
六日目:旅の終わり
短くちょっと駆け足であった学生最後の旅行、その幕はそろそろ降りようとしている。ビエンチャンを立って30分。ここはバンコクへ向かう飛行機の中。思い起こせば北京留学生活の中での様々な出会いを経て、アジアへの視野は急速に広がった。十代の頃まではパッケージツアー止まりであった僕の旅のスタイルも大きく変わった。友人と一緒の旅、一人旅、そして現地の知人を訪ねる旅。これらの旅では現地人との距離が一層縮まることで異文化を理解する国際性が磨かれると同時に、場面場面で勇気や責任もまた試され、自分を磨く意味でもより有意義かつ忘れられない旅となる。もちろん旅の楽しみ方は人それぞれであるし、どれが良くてどれが悪いということはない。その時その時スタイルを変えてみるのもいいだろう。いずれにせよどのスタイルにも長所と短所は存在する。今回の卒業旅行はインドネシアが一人旅、ラオスが友人と一緒であった。インドネシアでは自分の見たい場所を自由気ままに周れた反面、その感動を誰とも分かち合えず、孤独感にさいなまれた。ラオスではこうした寂しさは無かった反面、日本人同士での行動ということで現地人の懐深くまで飛び込めない何か壁のようなものを感じた。こうした旅の副作用を克服できるのは現地の知人を訪ねる旅のみだろうが、今回これら国々に知人がいたにもかかわらずその人脈を使いこなせなかった。通路を挟んだ隣の席で眠っている田中さん。今回は常に一緒に行動していたので本文中でなかなかそのキャラクターを引き出せなかった自分の力不足を痛感しているが、さすが旅を沢山経験しているだけあって、道中で度々発揮されたその鋭い土地勘、ボッタクリに対する毅然とした態度、そして何よりもユーモア溢れる現地人とのコミュニケーションの仕方等、大変多くのことを学ばせてもらった。もちろん田中さんという人間性、そして彼自身の経験あってこそ身に付いているものもあるわけで、学んだと言ってもこれら技能をすぐに体得できるとは思っていない。ただ今回の反省点を少しずつ克服していくための目標にできればと考えている。同時に自分ならではの技能(この場合中国語は除こう)もまたあるはずなので、それが何かを早く見出し、伸ばしていく努力もしたい。何だか反省ばかりの締めくくりになってしまったが、泣いても笑っても次旅に出るのは社会人になってから。いずれにしても僕がアジアを愛する気持ちは今後も変わらないので、時間的束縛が生じる以外僕の旅に大きな変化は起こるまい。今はそう信じ、とりあえず旅を終えるとしよう。
飛行機はその後間も無くバンコクに到着。翌朝は僕も田中さんも共に早く起き、この空港でお別れする。まだ時間のある田中さんはミャンマーという次のステージへ、そして僕は北京に戻って卒業試験だ。空港近くのホテルにチェックインした僕達、最後のダメもとで今回会うことのできなかったタイ人の元クラスメート、スッティの家に電話をかけた。電話に出たのはタイ語しかわからない女性。慌ててフロントの人に代わって話してもらうと、やがて本人に取り次いでもらえた。春節の旅行からちょうど戻って来たらしく、今晩は会うことができそうだ。ちなみに最初に出た女性は使用人らしい。さすがは華人、例外無く一定の階級を築いている。
「予定が大幅に狂ったんだから、あいつには今晩タイスキでもおごってもらおうぜ!」
そう言って笑う田中さんと一緒にホテルを出る。待ち合わせのそごうデパートに向けて飛ばす二台のバイクタクシーは熱気に満ちたバンコクの喧騒の中に消えて行った。
(完)