第十回 「ひと冬の夢」 (フィリピン編)
Philippines
フィリピン旅の期間:2001年1月23日~1月29日 6日間
訪問地:マニラ、セブ、ボホール
二日目:ネリーとの出会い
この後僕達はビルお勧めのフィリピン料理店で夕食を摂った。カジキマグロの看板を目印にトロピカルな装飾が施されたおしゃれな店で外国人も多い。ステージではソンブレロとポンチョ姿のトリオ・ロス・パンチョスを思わせる三人組がギターを手にセレナーデを歌っている。
「フィリピン料理はまだシニガンとハロハロだけか? よし、うまいもの注文してやる。」
すべてビルにお任せし、とりあえずサンミゲルで乾杯。まずテーブルに置かれたのは奇妙な葉っぱの天ぷらのような食べ物。その名をカンコンと言うらしい。スナック菓子のようにパリパリした歯触りで、つまみにも合う。マヨネーズのような白いソースに付けて食べるのだが、このソースもまたうまい。続いてやって来たステーキとオニオン・スープに舌鼓を打つ。
「フィリピン料理ってのはいろいろな国の料理の融合だ。だからオレにも君にも合うと思う。」
ビルは言った。確かにその後に出て来たのは豚の角煮にカニコロッケ。ビフーンというのはすなわちビーフン。
「あぁ、お姉さん! シャンハイ・ルンピアも頼むわ。」
ベレンママさんが通りかかったウェイトレスを呼び止める。上海の名がつく料理とは一体何ぞやと上海から来た者にすれば興味津々だった。上海蟹や火鍋を想像していたが、それは意外にもただの春巻。なぜ上海なのかなんてきっとどうでもいいのだろう。日本にも天津丼なんてものがあるし。いずれにせよベースは洋食と中華が入り混じり、ややオリジナルな味付けに仕上げてあるのが全般的な印象だ。最近の日本の食卓に並ぶ料理とも似ていて違和感はさほど感じられない。僕の出身地である吉祥寺にもかつてフィリピン料理店が二軒あったが、激辛エスニック料理ブームの到来で二軒共タイ料理店に変わってしまった。料理にせよ音楽にせよ、フィリピンは大変いいものを持っているのに、欧米文化と見事にブレンドしているその特性からアジアファン、エスニックファンには敬遠されがちなのが残念である。
「腹一杯食べたか。じゃ、勘定して出るとするか。」
今回初めてアメリカ人と行動を共にして感じたのは、金銭の支払いが非常に合理的だということ。このような食事の際は割り勘を徹底している。タクシーに乗る時も、主に僕に関わる用事なら僕が、彼に関わる用事なら彼が、どちらでもなければ割り勘で負担していた。中国や韓国等多くのアジアの国では男性もしくは年長者が全額負担することが半ば常識となっているし、特にインドネシアではとかく支払いについて曖昧にされ、いざ勘定になると金が無いなどと言って逃げられてしまうことが多々あった。割り勘を好む日本人はしばしばアジアで首をかしげられるが、超大国アメリカと同じスタイルだと知れば、まんざらマイナーなやり方ではないのだろう。ただし20%のチップにはどうもなじめない。
食後やって来たのは街の中心にあるロビンソン・モール。昨日マニラで覗いた所と同じフィリピンの大手デパートである。三人は一階のフロアをのんびり見て回った。ショッピングをふまえたデパート散策か。悪くないな。そう思っていた僕だったが、ベレンママさんは異様に嬉しそうな様子。エスカレーターで二階に上がり、左手にカセットテープ屋を見つけた僕が引きつけられるように足を進めたその時だった。
「Ling Mu、そっちじゃなくてこっちだよ!」
ベレンママさんに手を引かれて入ったのは、右手の方の小さなアクセサリー屋だった。
「どぉーも、久しぶりねぇ! 景気はどう?」
ペンダントの並んだ小さなショーケースの後ろに並んだ三人の若い女性店員と軽く挨拶を交わす。
「彼は私の友達で、Ling Muって言うのよ。友達になってあげてね。」
ベレンママさんが知り合いなのは三人のうちの二人で、共に割とかわいい。
「いいかい、Ling Mu。右の子はアンっていうんだけどもう彼氏がいるの。左のネリーって子は今フリーだから狙い目だよ!」
ベレンママさんはそうささやいて僕をひじで突いた。ビルは気を配ってか、店の外に出てサングラスを物色し始めた。
「やぁ、初めまして。」
こんな展開になるとは思いもよらず、少し戸惑ってしまったが、女の子達も天真爛漫な笑顔を見せているのでとりあえずご挨拶。
「Ling Muっていうんだ、どこから来たの?」
「えっと、上海から。」
「じゃあ、中国人?」
「いや、違うよ。」
「どこの国の人なの?」
「イラクさ。」
「アハッ、まさかぁ!」
「おっと、間違えた。日本だった。最近物忘れ激しくてね。」
などとバカを言いながらメモ張に名前を書いてもらう。このネリーって子、鼻が小さいのとその下のホクロが玉に傷だが、パッチリした目がきれいで、少しはにかんだ笑顔で話すのがかわいらしい。しばらくこんな調子でおしゃべりをしていると、ベレンママさんが割って入ってきて、タガログ語、と言うかビサヤン方言で何か二、三言葉を交わした。もちろん何を話したのかはわからない。
「じゃ、行くよ、Ling Mu。ホラッ、ビルも!」
何だかよくわからないままに女の子達に別れを告げ、僕達はロビンソンを後にした。後にこの場所が僕の行動の重要拠点になることなど現時点では知る余地も無かった。
「Ling Mu、今晩は遅くなるよ。いいね。」
ホテルに向かうタクシーの中、ベレンママさんは僕のマネージャーかのように得意気に言った。
「一旦ホテルに帰ってシャワー浴びたら、みんなでトップスに行くからね。」
「トップスって、ビルの好きなカラオケスナック?」
ビルは笑いながら首を振った。
「いや、残念ながら違う。セブの観光スポットの一つだ。」
「ふーん、しかし何でまた今日?」
「鈍いねぇ、来るんだよ。ネリーが! 仕事終わった後にね!」
なるほど、ベレンママさんはさっき彼女との別れ際に現地語でアポイントを取っていたのか。
「Ling Mu、ビサヤン方言を教えておくから後で使ってみな。」
フィリピン常連のビルは最低限のビサヤン方言ができるらしい。フィリピンの国語はタガログ語だが、無数の島が存在するこの国では当然無数の言葉が話されている。普通フィリピン人は現地語とタガログ語、そして英語の三つの言葉を使いこなす。マニラ等ルソン島を中心とした多数派タガログ族の言葉が国語として共通語になってはいるものの、セブ島を中心とするビサヤン諸島からミンダナオ島北部に住む地方民族セブアノ族の間ではビサヤン方言(セブアノ語ともいう)が日常的に使われている。ビサヤン方言とタガログ語の関係は、方言と呼ぶには遠過ぎ、別言語と呼ぶには近過ぎるのだそうだ。しかしビル、期待とは裏腹に教えてくれたのはたったの一単語だけだった。
「グァパ。それだけで十分だ。」
「きれいだ」という女性への誉め言葉。セブ通の彼が言うのだ。きっとこの一言だけ知っていればセブでは生きていかれるのだろう。
シャワーを浴び、約束通り夜8時にホテルのロビーに下りると、間も無く入口から今日空港まで迎えに来てくれた赤い車が現れた。ビルが助手席から窓を開け、後ろに乗るよう合図する。運転していたのは出迎えの時と同じジョアンという子。ベレンママさんと交代しての登場である。そして後ろには赤いタンクトップにGパン姿のネリーと、職場の同僚で、確か既に彼氏がいると言っていたアンが乗っていた。誘ったのはネリーだけのはずだったが、やはりここはアジア。初めての人とのデートに誘われた時、友達も一緒に連れてくる子って結構多いのだ。相手のことをまだ知らなくて不安だから、第三者を連れて来て客観的にどんな人なのか見てもらうためという理由もあるし、まだ付き合ってもいないのに、男性と二人でいる姿を知人等に見られるのが嫌だからという理由もある。誘った男性からすれば、デートだって言うのに二人きりになれる時間が無い上、食事の時は二人分ご馳走しなくちゃならないので基本的に望み通りのデートにはならない。一方連れて来られた女の子にしてみてもちょっと退屈に違いない。デートに友達を連れて来た張本人を責めるつもりは無きにせよ、こんな展開になってしまったら何か別の楽しみ方を考えるしか無い。ま、しかし考えてみれば今回はデートってわけではなく皆で遊びに行くだけなんだよな。
時々サント・ニーニョの神輿を担いだ人々が松明を手にゆっくりと列をなして歩いて来る。
「あれ、フィエスタよ。」
ちょっとシャイなネリーは僕に小さな声で教えてくれた。
「彼等はこれからどこへ行くの?」
「そりゃ、教会に行って宴会さ。タダ飯にありつけるから皆嬉しそうだろ。」
ビルが言った。日本のお祭りで山車を引くとお菓子がもらえるのに似ている。
その後約20分程で車は細く暗い山道を登り始めた。アブ・サヤフかNPA(新人民軍…共産ゲリラ)が出て来るぞと言うと車内はどっとウケたが、言っている本人が実は内心一番怖がっていた。
やがて山道を抜けると駐車場が現れ、正面に公園のゲートが見えた。
「さ、トップスに着いたよ。」
ジョアンの声で全員車から降りる。僕とビルで入場チケットを買ってゲートをくぐった当初は暗くて何があるのかよく見えなかったが、皆と一緒に前の方まで歩くとそこは文字通り山の頂上だった。目の前に広がるセブ・シティの夜景を友人や恋人と楽しむ若者の遊びスポットだとのこと。地元の学生達が思い思いにギターを弾いたり、おしゃべりしたりしながら楽しい時を過ごしている。僕達は早速一番見晴らしの良い場所を陣取り、周囲に習って夜景と歓談を楽しんだ。ビルとジョアンの二人は僕等に気を使ってか少し離れた場所に移って話をし始めた。ネリー達二人はまだ食事をしていないとのこと。どこかに食べ物屋は無いか、僕は二人を連れて周囲を探してみることにした。ちょうど夜景の見える場所を馬蹄形に囲むように、岩を削ったトンネルのようなスペースが設けられており、その中にいくつか並ぶフードコーナーを覗いてみた。ふと見つけたバーベキュー屋では日本の焼き鳥に近い物が売られていたので、とりあえずネリー達に好みを聞きながらその焼き鳥やウインナー等をいくつか選び、それにスナック菓子と飲み物を加えて腹ごしらえしてもらった。
先程陣取った場所に戻り、街の灯と満天の星が作る銀色のイルミネーションに囲まれながらお弁当気分でバーベキューをつまむ。
「ねぇ、写真撮ろうよ。」
僕達はまず写真撮影から始めた。始めはネリーとアンの二人を撮り、それからネリーと二人の写真をアンに撮ってもらう。しばらく話していると、別の場所でビルと話していたジョアンが現れ、一緒に話しようと言ってアンを誘い、ビルのいる方へ連れて行った。かくしてネリーと二人になった僕はできる限りの英語力で自分のことから簡単に話をした。ビルと同じぐらいの早さで流暢な英語を話すジョアンやベレンママさんと違い、ネリーの話しぶりはまるで英会話学校で日本人の生徒同士が会話練習する時みたいにゆっくりしていて僕にはそれがかえって話し易かった。
「ネリーはずっとロビンソンで仕事してたの?」
「ううん、実は三週間程前に始めたばっかり。その前は洋服屋さんで、その前はカセット屋さんで働いてたの。」
「随分いろいろ仕事を変えてるんだね。」
「両親や五人の兄弟に仕送りしなきゃいけないし、生活もしなくちゃいけないから。今回の職場は厳しいけど、収入が割といいのよ。」
ネリーはそう言うと少し寒そうにその細い腕をさすった。ひとまず夜景の見える所から離れ、岩のトンネルの方に場所を移した。
「次はいつ会えるの? 一緒にビーチへ泳ぎに行こうよ。」
「新しい職場に移ったばかりでまだ休暇が取れないんだけど、この時間なら平気だと思う。」
「じゃ、ボホールから帰ったあさって、又連絡するよ。」
「うん、待ってる。」
彼女はサラサラの長い髪をたくし上げ、その大きな瞳で僕を見るので、思わず使ってしまった。
「イカウ、グァパ(君、きれいだね)。」
「アハッ、それ、どこで覚えたの?」
「そりゃ、僕の大先生からさ。」
僕達はノートを取り出し、住所と電話番号の交換をしながらその後もゆっくりおしゃべりしていた。彼女が真面目で純粋な子だからか、多くを語らなくても何か通じ合えるものを感じ、不思議と心が落ち着いていくのだった。
「Ling Mu達、なかなか楽しんでるな。そろそろ出るぞ。」
大先生達がやって来たので今晩はひとまず市内に戻ることにした。確かにまだフィリピンに来て二日目。今日一日でいろんな人と出会い、あちこち動いたので少し疲れていた。大きな体でタフそうなビルさえもさすがにジャスミン・ホテルまで戻るとすぐに車を降りた。
「カラオケスナックは残念だが後日ってことにしよう。今日は休ませてくれ。」
そっちの方は特に残念に思わなかったが、とりあえずボホールから戻った後、また彼と連絡を取り合うことにした。今日はひとまず解散して、明朝に備えて寝るとするか。そう思った矢先だった。
「Ling Mu~、もちろん今夜は踊り明かすんだよねぇ!」
ビルを降ろした車が再び動き出した時、運転席に座るジョアンがこちらを振り向いて言った。まだ疲れていなさそうなご様子。
「おいおい、明日早いんだからもう帰って寝るよ。」
「そんなのつまんないよー。みんなでディスコ行こうよ。」
ビルがいた時は比較的おとなしくしていたが、突然口数が多くなった。
「そんな事言ったって、行かないよ。理由は三つ!」
「三つって?」
「一、疲れた! 二、踊れない!! 三、金が無い!!!」
「大丈夫よォー、今日はレディースデイで、女の子みんなタダなんだからぁ。」
「じゃ、女性の服持ってきて。女に化けるから。」
「女装したらホントに行ってくれる?」
「行くわけないだろっ!」
車の中ではしばらくこんなやり取りが続いていた。ジョアンの隣に座るアンもレディースデイと聞いたら乗り気になってきた。シャイなネリーはどちらでもいいと言っていたが、少し疲れているようだし、ここはとにかく解散した方がいいと思った。
「じゃ、どこかライブやってるバーで飲もうよ! あたしレゲエ好きなんだ。」
「わかったから、ちゃんと前見て運転しろって。」
ボブ・マーリーの歌を口ずさみながら体をくねらせるジョアンを慌てて制止する。
「ねぇ、一時間ぐらい付き合ってよ。どこならいいの?」
「僕は踊れないから、カラオケボックスならいいよ。」
「いいけど、あたし場所知らないんだよなぁ。」
「こっちでは友達同士で歌いに行く所は無いの?」
「うーん、聞いたこと無い。カラオケってお酒飲みながら女の子と歌う所だから。」
そうか、日本のようなカラオケボックスの文化はこちらには無いのか。
「じゃあ、どこかのホテルで夜までやってるプールなんか無いの? 一泳ぎしようか。」
「ウォーター・フロントならまだやってるかも知れないね。いいわよ。」
この近くにある高級ホテルらしい。ジョアン、なかなか素直じゃないか。プールならこの時間人もいなさそうだからゆっくりできるし、ちょっと泳いで寝る前の軽い運動にもなる。しかも美女三人に囲まれてだ。ホテルなら水着ぐらい貸し出しているはずだし、彼女等にまぶしいのを選んでやるか…。
などと一人考えているうちにたどり着いたその場所、さすがはリゾート地のホテルだけあって豪華絢爛。既に12時を過ぎているがカジノはまだ賑わっており、着飾った金持ち夫婦らしき欧米人や日本人が出入りしている。僕達は早速フィットネスセンターに行ってみたが、照明が暗い所を見るとやはり期待は薄そうだ。アンが通りがかりのボーイに尋ねてみると、案の定プールは10時でクローズしてしまったとの事。辛うじてシャワーがまだ開いているそうなので、ネリーとアンは早速シャワールームへと向かい、僕とジョアンは入口のロビーで二人を待つことにした。
「Ling Mu~、何であたしがここに来たと思う?」
ジョアンがいたずらっぽく笑って聞いてきた。
「実はこのホテルの向かいにディスコがあるんだぁ。」
こいつ、またディスコか。疲れがドッと出てきたが、平静を装いながら説き伏せるように言った。
「明日は朝早くからボホールに行くんだから、今日は勘弁してくれよ、な。」
「いいじゃ~ん、今日はレディースデイなんだからさぁ!」
強引なジョアンに押されまくっていたその時、シャワーを終えたネリーとアンが戻ってきた。この二人も行きたいと騒ぎ始めるなら僕はもう降伏するしか無いと思った。が、意外にもアンがこう言った。
「ジョアン、ネリーが疲れて具合悪いようなんだけど、今日はそろそろお開きにしない?」
「二人がそう言うならしょうがないなぁ。残念。」
ジョアンはしぶしぶ要求を取り下げ、僕達は車に乗り込んだ。ジョアンと他の二人は今日が初対面だったので、あまりムリは押し通せない様子だった。もっとも僕だってジョアンとは今日知り合ったばかりなのだが。
「ネリー、大丈夫か?」
「うん、ちょっと疲れただけ。」
「ボホールから帰ったら、また遊ぼうね。」
「うん。電話して。」
石造りの古い教会にさしかかり、まずネリーが降りて行った。アンはジョアンの家に近い方に住んでいたので、先にホテルまで送ってもらった僕は、部屋に戻るや猛スピードで明日のための荷物をまとめ、ほんのちょっとの間だけネリーの清純な笑顔を思い出し、そしてすぐに深い眠りに就いた。