第十回 「ひと冬の夢」 (フィリピン編)

Philippines


フィリピン旅の期間:2001年1月23日~1月29日 6日間

訪問地:マニラ、セブ、ボホール

 




三日目:チョコレート・ヒル訪問

 

 翌朝6時、ロビーに下りてチェックアウトをした後、念の為ボホールで宿泊する予定のホテル・ラ・ロカに電話確認してもらった。レセプションの係員は相手先としばらくタガログ語でやり取りした後、首をかしげながら言った。

 「ラ・ロカは、お客様の今晩の予約を受けていないと言っています。」

全く、ワリーが紹介した旅行社は金だけ取って何も動いていないのか!? しかしその都度高い長距離電話代を払ってマニラに抗議するのもしゃくにさわる。当事者達もどうせ逃げるだろうし。仕方無いのでとりあえず係員に今晩一泊の予約させ、すぐにタクシーで昨日切符を購入した港に向かった。

 7時半。ボホールの中心タグビララン行きの高速船「スーパー・キャット」でほぼ定刻通りセブの港を立つ。いつもこんな感じなのか、甲板に設置された指定席は満席だった。僕の席はちょうど真ん中辺りにあり、左右に人がいて身動き取りにくい上、プラスチック製の椅子は座り心地が悪い。おまけに風除けが一切無いので、海風をそのまま受ける形となる。その寒さと来たら半端無い。一泊二日だと思って長袖を持って来なかったのが失敗だった。皮製のナップザックを抱えて丸くなり、何とか眠ってしのごうとはするものの、船内に設置されたテレビからボリューム調整不可能の音声がガンガン流されていてそれどころではない。テレビ自体は遥か前方にあり、こちらからは何の番組をやっているかさえ判断できないのに、スピーカーだけは各列の天井に設置されており、しかも運悪くそのうち一つがちょうど僕の頭上にあるので、バリバリ、ドッカン、ズギューンという意味のわからぬ効果音が大音量で鼓膜を刺激し続ける。寒さ、窮屈さ、騒々しさに絶えながら一時間が過ぎ、やがてボホールの港が見えてきた。正直ホテルに着いたらすぐに眠りたかったが、時間的にチョコレート・ヒル等を回るなら朝から行動を始めなくてはならない。第一寝るためにここへ来たのではないので、深呼吸を一つして頭をすっきりさせた僕はさっさと船を降りた。

 「ミスター・Ling Mu、お待ちしていました。」

ゲートの向こうに出た時、僕の名前のプレートを手にした若い女性を見つけた。ラ・ロカからの出迎えはフィリピンの国花であるサンパギータで作られたレイを僕の首にかけると、車のいる方に案内してくれた。

 「あのすぐ後、マニラの旅行社からあなたの宿泊の件が確認されました。」

ワゴンに乗り込む時、女性がそう教えてくれたのでちょっとだけ安心したが、支払の話は何も知らされていないという。

 港からホテルへはものの5分で到着した。野外にプールのある白塗りの建物に入り、早速チェックイン。一泊の宿泊費はやはり僕が支払った代金の約二分の一だった。

 「とにかく宿代は既に払い込んでいる。マニラの旅行社にコンタクトしてみてくれ。」

 「大丈夫ですよ、後で確認しますから。Ling Muさんはもちろん支払の必要は無いですよ。」

フロントは特に気にもしていないようだった。あの旅行社にもし煙に巻かれたらどうするのだろう。とにかくマニラに帰ったら即抗議しか無い。しかしこの話で貴重な一日を費やすわけにもいかないので、もうこの辺にしておいてボホール周遊ツアーについて尋ねてみた。

 「ガイド、運転手付きツアーは毎日やっていますが、参加人数によって料金が違ってきます。」

フロント係員が机から出した料金表を見ると、参加者一名の場合だとやはり高い。

 「今日出発のツアーを申し込んでいる方は今現在お客様一人だけなんですよ。」

 「じゃ、他のホテルから申し込んでる人は?」

 「ちょっと確認してみます。」

係員はいくつか近辺のホテルに電話をかけたが、他に参加者はいないようだった。しかし今日一日しか無いのでこの機会を逃すわけにもいくまい。10時にここから出発するというのでとりあえず申し込んだ。 

 

 行きたい所を言うだけで時間ピッタリのコースをアレンジできるというベテランのオバサンガイド、そして昔の西部警察を思わせるレトロなサングラス姿がシブイ運転手が用意した車に早速乗り込み、ボホール一日ツアーに出発。突き刺すような日差し、そして大気汚染のひどい上海では絶対に見られない青空。セブの青空に更に輪をかけたその青くまぶしい空。車の窓越しからさえも太陽を直視できない。一直線に続く道路の両脇から見下ろすように立ち並ぶヤシやバナナの木、そして小さな木造の家々。庭には竹を束ねて作られた二枚の板を合掌作り風に立てかけただけの小さな小屋が置かれ、中に一羽ずつニワトリがいた。どこの家の軒先にも星型の大きな提灯がぶら下げられている。クリスマスのデコレーションに使われたそうだ。今なおこの提灯がほぼすべての家に見られるのは、やはり細かいことを気にしないおおらかな国民性だろう。

 時々道路右手の家や木々が途切れ、青く透き通った海が姿を見せる。水平線まで浅瀬のようで、無数のマングローブが人の手によって植えられている。

 「実はこれ、昔イメルダ夫人が提唱して始められたものなんですよ。」

ガイドの口からは意外な人物の名前が出てきた。マルコス政権時、副大統領だったイメルダ夫人は「緑の革命」と称して地方の緑化や自然保護を進めたことがあり、特にボホールにおいては大きな成果をもたらしたという。軍部中心の強権政治を行ったマルコスも、私利私欲をひたすら追い求めたイメルダも総合的な国民評価はもちろん悪い。しかしどんなに悪い指導者でも少しはいいこともしている、とガイドはコメントしていた。

 

 島を縫うように流れるロボック川近くにある保護施設で初めてメガネザルを見た。名前はよく聞くが今や希少動物で、かつては沢山いたボホールでもこの保護施設以外ではあまり見られなくなったという。保護施設という呼び名は必ずしも適当ではないが、ここでは小学校の動物飼育用に使うぐらいのオリに二十匹程のメガネザルを保護し、観光客に見せて収入を得ている。土産売りを兼ねている飼育係がオリを少し開けると、光を嫌うサル達が一斉にすみっこの暗がりに集まり、そのまま固まってしまう姿はネズミかコウモリとほぼ変わらない。飼育係がその中から二匹程つかまえて一匹を僕の肩に、もう一匹を腕の上に乗せ、写真を撮るよう促す。どのサルも体長はせいぜい十五センチぐらいしか無く、手足はカエルのように吸盤になっていて、爪は無い。文字通りの丸くて大きな目、そして360度回転できる奇妙な首はフクロウにも似ている。地球最初の哺乳類と言われるネズミがサルに進化していく過程を考えると、最も原始的なサルなのだろう。一匹内緒で持って帰りたかったが、このサル、環境が著しく変わるとストレスですぐ病気になるらしい。職場環境が変わりストレスが倍増した僕は何となくその気持ちを理解できたので今回はあきらめた。代わりにぬいぐるみはどうですかと、飼育係が急に土産物屋に変身する。ここに来るツアー客は言い値で買ってしまう太っ腹が多いのか、いくら値切っても全く負けてくれない彼等の商魂に僕の方がかえってストレスを感じたので、こちらもあきらめることにした。

 メガネザルとの記念撮影後、車を降りた僕は観光イカダでロボック川をクルーズしながら昼食を取った。イカダとは言え、ちゃんと手すりも屋根もついており、モータのついたボートが後部に連結され、このイカダを押して進むしくみになっている。乗組員は皆兄弟らしく、前方で竹竿を片手に方向を調整する船頭の少年、後部のボートを操縦する青年、そして食事や飲み物を運ぶ女性の計三人。川の流れはさほど激しくはなく、川幅は出発して百メートルも進まぬうちに広くなったり、狭くなったり、様々な表情を見せる。生い茂る草木の原色に近いその緑で目を休めていると、時々すれ違う欧米人や日本人をぎっしり乗せた観光イカダがその安堵感をさえぎる。やがて正面には山から流れ落ちる大小の滝が現れ、上流にたどり着いたことを知らせる。船頭の少年が近くの岩の上に飛び移り、竹竿一本で器用にイカダの向きをターンさせて折り返した。元来た川を逆方向に進み始めると、まぶしいほどの青空から一転。いきなり現れた黒雲に空が覆われたかと思うと突然のスコールが激しく水面を叩く。日本ならジトジト一日降り続ける所だろうが、さすが熱帯雨林、出発地点まで戻る頃には雨はすっかり上がっていた。

 

 再び車に乗り込み、チョコレート・ヒルのあるカルメン地区まで行く途中、縦穴式の珍しい鍾乳洞、と言うより地下水源を見た。入口はマンホールのように狭く、滑り易い湿った石段をゆっくり下りて行くと急に直径三十メートル程の池に遭遇する。足元を照らす程度のほんのわずかな照明がある以外真っ暗で、池がどのぐらい深いのかよくわからない。ガイドに聞くとプールと大体同じぐらいとのアバウトな回答。しかもこの池で泳ぐこともできるとのこと。こんな真っ暗な所で、しかも地上では土産物屋が軒を連ね、観光客が時々下りて来るような場所で泳ぎを楽しむ人がいるのだろうか? しかし時間帯を決めて天然プールにしてしまうというのもなかなかいいアイディアだ。ほんのわずかなライトだけに照らされながらネリーと二人きりで泳ぐのもまた雰囲気が出ていていいかも。

 

 などとくだらぬことを考えているうちに車は一面畑が広がるのどかなカルメン地区に入っていった。

 「あれを見て下さい。山がありますよね?」

ガイドがこの時ふと右手の山を指差して言った。確かにそこには緑に包まれたかまくら風の丸い山がそびえていた。しかし車がその山を通り過ぎようとした時、山の後ろからもう一つ、全く同じ形をした別の山が出現。しかもよく見ると後方から現れた山は二つ並んでいる。これら二つの山もまた同じ半球型をしているのだ。高さまでほぼ同じ。思わず左側を振り返るとやはりそこにも同じ形の山々が間隔を置きながらあちこちに並んでいた。数あるフィリピンの島々の中でもこの島だけ、しかもこの島のこの地区だけに見られる不思議な風景。同じ形、同じ高さの山々が同じ場所に点在している。キスチョコレートを無造作に並べた感じにその姿が似ていることから、チョコレート・ヒルと呼ばれている。長い年月を経た今だからこそ緑の木々の茂った「山」の姿をしているが、実はその昔、火山の噴火により流れ出た溶岩があちこちで固まってできたもの。当初は黒いはげ山だったのでなおさらチョコレートに近かったようだ。この風景を一望できる高台には長い登り階段が続いていた。この奇妙な風景の中に自分を置いてしばらくゆっくりできるかと期待してはいたが、そこはやはりボホール観光のメインスポット。早くも土産物屋の呼び声、次々と到着する観光バスのエンジン音に巻き込まれる。外国人はいなかったものの、登り階段も遥か先の方までどこか別の島から来たと思われる修学旅行の学生達で大賑わい。それぞれ三、四人のグループに分かれて大きな声で盛り上がりながら、写真を撮り合っている。しかしちょうど僕が高台に着いた頃には混雑も一段落しており、チョコレート・ヒルのパノラマをじっくり楽しむことができた。一見日本の古墳にも似ている上、こんなにも同じ形の山が並んでいると本当に自然の産物なのかと思わず疑ってしまうほどだ。昔この地に二人の巨人の兄弟が住んでおり、たまたまこの二人が同じ女性を好きになってしまったために大喧嘩となり、お互いが投げ合った石がチョコレート・ヒルになったという伝説がある。または自分を巡る二人の争いに心を痛めた女性が流した涙がチョコレート・ヒルになったとも言われる。現在は不思議な山として残る神話時代の涙か石ころを見渡せるこの高台で、つい最近の残り物を見つけた。エストラダ前大統領の似顔絵が入った看板である。マンガチックな大統領が市民と一緒にホウキで掃除をしている絵の横に「わが地区は大統領の提唱する美化運動に全面協力しています」といういかにもプロパガンダ的な内容の宣伝文句が書かれていた。

 「さっき言った通り、どんな指導者でも少しはいいこともしているんですね。」

ガイドは言った。看板はどうせそのうち無くなってしまうだろうが、美化運動そのものがチョコレート・ヒルに負けないぐらい後世まで残れば彼の評価は一変するだろうに。その昔巨人が投げた石を、何と現代の大統領が掃除し始めた! なんて伝説の続きまでできて語り継がれていったりして。でもお祭りは終わった。恐らくエラップの美化運動について関心を持つ地元民なんていないんだろうなぁ、などと考えながら我が物顔にキャーキャーはしゃぎ回る悩み無さそうな修学旅行生達のわきを通り過ぎながら車へと戻った。

 

 最後に訪れたのは16世紀にスペイン人によって建てられたバクレヨン教会。地元民の信仰の寄り所として今尚現役である一面、そして貴重な歴史資料が数多く保管された博物館としての一面を合わせ持つ巨大なバロック教会である。この中では小学生ぐらいの女の子が専門ガイドとして案内してくれることになった。英語が上手で利口そうな子である。この子と一緒に礼拝堂から見て行くと、前方の祭壇には一面に飾り立てられた精密で色鮮やかなマリアや聖人の彫刻と荘厳なパイプオルガン。その周囲にはキリストの最期を描いた巨大な油絵がストーリー順に並べられ、ほとんどヨーロッパの古いカトリック教会がそのままここまで飛んで来たとしか思えないほど威厳に満ち溢れていた。それもそのはず、かつてここはスペイン人入植者用の教会で、礼拝堂の長椅子を使用できたのは白人のみだったという。吹き抜けとなっている二階席は貴族階級専用。巨大な祭壇を上から見下ろしながら座り心地の良い一人掛けの椅子で礼拝を行っていたとか。その反面、最後尾の長椅子の後ろに、ひざで立つために敷かれた板があり、現地人はそこでのみ礼拝を行うことができたそうだ。神の前では平等だという本来の教えに完全に反した封建的様式となっているが、現在は参拝者も神父も皆地元民であるという。出入口近くには、十字架を背負ってひざまづくキリスト像を乗せた山車があった。フィエスタ用に使われるようで、唯一フィリピンらしさを感じた。しかし僕はヨーロッパのことは知らないので、もしかしたらスペインにも同じような行事があるのかも知れない。

 あばら家を歩いているかのようにギシギシと床を鳴らしながら階段を上がり、屋根裏部屋を改造したような雰囲気の展示室に入ると、そこには異様なほど精巧に彫られた等身大のキリスト、マリア、サントニーニョ等の像がある。木彫りのようだが彩色がリアルで、髪の毛などは本物を使っているのではないかと錯覚するものもあった。フラッシュで像が傷むので撮影はダメとのことだったが、薄気味悪いのでその必要は無いだろう。あるマリア像を収納しているガラスケースには無残にヒビが入っていた。戦争中はこの近辺でも日米間で大規模な戦闘があり、この教会も被弾したことがあるという。特にこのマリア像については直接被害を被ったにもかかわらず、割れたのはガラスだけで像自体は無傷のままだったというエピソードも残っている。その他スペイン人が残して行った美術品の数々を見た後、近くに置かれていたノートに記帳してほしいと女の子に言われた。中には来訪者の名前と一言コメントが書かれていた。「グッド!」「ビューティフル!」「ゴージャス!」「グレート!」「ファンタスティク!」と、どの来訪者のコメントもたった一語の誉め言葉でまとめられていた。これだけ続けられるなんて、英語ってこの手の表現は本当に豊富なんだなと感心しながら、僕も「ワンダフル!」と続けた。

 一通り展示を見て回ると、ある一郭が妙に騒がしいので気になった。

 「ここは閲覧室で、近所の子供が勉強に来てるんですよ。」

女の子は言った。窓からちょっと覗くと、中にいる子供達はどの子も歌は歌うわ、手拍子はするわで、まともに本を読んでいる子供なんていなかった。

 「きっと歌の練習をしてるんでしょうね。日本の図書館ではあんな風に歌わないんですか?」

 「追い出されるだろうね、多分。」

国民性の違いなのだろう。この島には学校が至る所にあり、他の島の住民に比べて識字率も高いという。なので図書館へ勉強に行く子供が元々多い上、キリスト教圏の教会は日本で言う市民センターのような役割を果たしているので、いつしか子供の活動拠点と化していったようだ。

 

 夕暮れ前には無事観光を終え、タグビララン市内に戻って買い物を楽しんだ。現地の新聞はコレクションの一つなのでまずは小さな売店に入る。一番欲しいのは現地語による大手新聞だったが、この国で最も大手の新聞は英字版だけ。タガログ語(もしくはビサヤン方言)のものはほとんど三、四ページぐらいで芸能ネタばかりのタブロイド紙のみだった。明らかに大手新聞を読む者は英語を解する上流、中流層、現地語新聞を読む者は低所得層というようにクラス分けされているようだった。独立以来アメリカの模倣を目指した初期民主政権時代、そして冷戦の最中アメリカの支援を受けたマルコス長期軍政時代にかけて、アメリカ一辺倒を国是としてきた歴史が非常に長く、テレビや新聞等のマスコミから歌謡曲さえもほとんど英語が使われてきた。80年代の民主化後、民族のアイデンティティが叫ばれるようになってからは急速にタガログ語化が進められ、その結果フィリピン社会における両言語の地位は現在ほぼ互角と言っていいだろう。ただ過去の名残でまだ街中の看板はほとんど英語だけで表記されている。またはっきり階層分けされた新聞においては当時の政策だけでなく、今なお解消されていない社会的格差も背景にあるようだった。以前シンガポールやマレーシア、そしてインドを訪れた時、自国民同士が英語で会話する光景をごく自然に目の当たりにした。多民族・多文化国家という環境下では英語を共通語にせざるを得ない現状は理解できるが、今尚旧宗主国の言葉を話すのがステイタスと思われている雰囲気もあり、独立国ならもう少し母国語を大事にしてもいいのではないかと思ってしまう時もあった。その点フィリピンはどんなにアメリカナイズされていても、国民の多くがどんなに流暢に英語を話せても、彼等同士が会話する時はきちんと自分達の言葉が使われているのを見て、他人事ながらちょっと安心した。フィリピン、決して属国ではない。

 次にやって来たのはカセットテープ屋。三万人のスターがいる国と言われる程、プロの歌手が世界一多いこの国の歌謡界を僕は特に注目している。社会派フォークシンガーとして絶大な人気を維持しているフレディ・アギラー。マイケル・ジャクソン風のダンスミュージックを得意とするガリー・バレンシアノ。解散してしまったが社会問題をテーマにして話題を呼んだ十代のダンスグループ、スモーキー・マウンテン。中華圏でも活躍が目覚しい女性歌手レジーン。甘い英語のバラードを聞かせるマーティン・ニーベラ。R&B系の旗手として注目されているジャヤ。もう何枚アルバムを出しているかわからない老舗バンドのアポ・ハイキング・ソサエティ。ミュージカル「ミス・サイゴン」の主役に抜擢されたレア・サロンガ。そして日本で活躍するマリーン等々。このように優れた歌手が数多く拮抗しているので、最も代表的な歌手だけと言っても名を挙げればきりが無いのがフィリピン歌謡界のすごさだ。彼等のアルバムには英語曲とタガログ語曲がほぼ半分ずつ収録されているが、英語曲を聞いている分にはアメリカのポップスを聞いているのと大差無い。歌唱力にしてもアメリカの有名歌手とほぼ同等レベルと言っていい。本来なら国際的にもっと評価されてしかるべきだが、洋楽界からはアメリカンポップスのコピーというレッテルを貼られ、一方ワールドミュージック界からは伝統色が薄いという理由から何かと敬遠されがちなのが残念である。しかし実際聞いていれば、英語曲にしてもそのアジア特有の哀愁を帯びたメロディや情熱的な歌いっぷり等、アメリカのそれとは何か違う独自性が散りばめてあるのだ。

 かくして店に足を踏み入れたとたん、五、六人の女性店員がやんややんやと取り囲む。

 「いらっしゃいませ! 英語曲がいいですか、タガログ語曲がいいですか?」

 「ボホール出身の有名な歌手っていないの?」

 「それならこれこれ! サンシャイン・クルスがボホールでは一番よ!」

一人の女の子が取り出したテープのジャケットを飾るのは露出度の高い衣装の女性だった。悪くない、買うとしよう、とそれを手に取った時だった。

 「それから、この歌も今流行ってるよ!」

 「あと、この歌手もお勧め!」

 「これも持ってって!」

こちらはまだ地元の有名歌手のテープとしか言っていないのに、女の子達それぞれが好みのテープを取り出し、全部持たされてしまった。

 「これってみんなボホールの歌手なの?」

 「ううん、違うけどみーんないい曲なんだから。」

このテープにはあの大ヒット曲が入ってるわよと、わざわざ一フレーズ歌ってくれるサービス精神旺盛な子もいた。終始そんな具合で彼女達はテープを次から次へと取り出しては僕に持たせるので、しまいには両手一杯カセットの山となってしまい、身動きが取れなくなった。これはいらないな、と思って持たされたテープのうち何個かを元の場所に戻そうものなら、それを持たせた女の子に即座に感づかれ、「エーッ、これ最高なのに、なんで戻すのよー!!」と再び両手の山の上に返してくれるので困ってしまう。とは言えフィリピン音楽に注目する僕は輸入CDを日本で買うことすらあるので、それに比べればこちらで安いテープを多目に買って行った方が安上がりだ。結局両手一杯の山のうち、サンシャイン・クルス、フレディ・アギラー、マーティン・ニーベラ、ガリー・バレンシアノ、シャロン・クネータそしてアゴットのテープがレジ台まで生き残った。テープ屋の女の子があれだけ多くいること、そしてあれだけ熱心にテープを勧めてくるのには、どうやら彼女等一人一人がそれぞれ違うレコード会社から派遣されて来ているためらしい。だから自分の所属会社からリリースされたテープを売りこもうと必死だったのだ。ちょうど中国のレストランで、時々店員に混じってビール会社のユニホームを着た女の子が自分達のビールを売りこみに各テーブルを回る光景を見かけるが、要はそれと同じシステムだ。

 

 無事ボホール観光を終了し、ホテルで少し休息した後で食事に行くことにした。今回はちょっと庶民的な飯屋の味を試そうと思い、やや恐れを感じながらも真っ暗となったホテル前の道をしばらく歩いて行くこと約20分。一人のオバサンがきりもりする小さな大衆食堂を見つけた。店先には沢山の鍋が並べられ、その中の料理を自由に選べるようだ。先日セブで食べたいくつかの料理の名前を挙げてみたがオバサンはチンプンカンプンの様子。英語も通じないので、ここは鍋のフタを一つ一つ開いて気に入ったものを注文することにした。見た目で判断するとやはり保守的になってしまうので、結局選んだのはビフーンと呼ばれるビーフンと野菜炒め、それにご飯。皿に盛られた料理を誰もいないテーブルに持って行った。腹も空いていたのに加え、店内になぜかあるゲームセンターで夢中になっている地元の中学生数人がうるさかったのでさっさと平らげ、席を立った。帰り際に覚えたばかりのビサヤン方言で「サラマッ(ありがとう)」と言うと、今まで無愛想だったオバサンの顔にも笑みがこぼれた。

 

 ホテルに戻った僕は宿代の件が少し心配になり、フロントに聞いてみた。

 「マニラの旅行社から支払済の宿泊料について何か連絡あった?」

 「いいえ、何も連絡はありませんが。」

 「電話番号教えるから確認してみたら?」

 「私ではちょっとこの件わからないので…。」

彼等の無責任さにあきれ、僕はもう一度マニラのチェリー・ブロッサムに電話をしてみた。しかし旅行社の担当もワリーも相変わらず不在で、昨日と同様何の進展も無かった。すると受話器を置いた僕に追い討ちをかけるかのように先程のフロントマンが言った。

 「お客様、長距離電話代は今お支払いになりますか、チェックアウトの時にしますか?」

その瞬間もう何も考えたくなくなった。頭の冷やせる涼しい所で体を動かして発散したくなり、誰もいない屋外のプールを占領した僕は夜の11時近くまで泳ぎまくっていた。