第一回 「炎天下!ソ連の秘境」
(ウズベキスタン・タジキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン編)
Uzbekistan
Tajikistan
Kazakhstan
Turkmenistan
ウズベキスタン旅の期間:1988年8月5日~11日 6日間
訪問地:タシケント、サマルカンド、シャフリサブズ、ブハラ、
ウルゲンチ、ヒワ、フェルガナ、コーカンド
タジキスタン旅の期間:1988年8月12日~13日 2日間
訪問地:ペンジケント、ドゥシャンベ
カザフスタン旅の期間:1988年8月14日 1日
訪問地:アルマアタ
トルクメニスタン旅の期間:1988年8月15日~16日 2日間
訪問地:マリ、アシハバード
タジク・カザフ:駆け足観光
翌朝、僕はホテルのロビーのベリョースカを覗いた。このホテルのベリョースカの店員は非常に無愛想だ。社会主義国のためか、売っても自分の利益にならないので始めから売る気が無いのである。むしろバザールの商人達の方が商売に熱意がこもっていた。僕はここで記念切手を買おうとした。ところがここのショーケースの切手はとにかく無造作に並べられていた。僕はその中でモンゴルの仏教寺院のデザインの切手をケースごしに指差したのだが、店員は間違えて隣に重なっていた、何の面白味もない人物画の切手を取り出してきた。それではない、これだと、もう一度指を差すと「ニェ ズナーユ(知らない)」と言って奥に引っ込んでしまう店員。土産を買う楽しみもすべて喪失してしまう。その時Yさんが出発の合図をしたので、仕方無くロビーの集合場所へと向かった。
全員集まってからバスで空港に向かい、タシケントを立った。機内に流れるソ連の音楽に包まれながら僕はしばらく眠った後、ふと目覚めて窓を覗くと、今までの砂漠から万年雪をかぶった山々の風景に変貌していた。パミール高原…。いよいよ「山の国」タジク共和国に来たのだ。
ドゥシャンベに着いてから、バスでホテル・タジキスタンに向かった。ここはとにかく暑い! この国はソ連で一番南に位置し、北はキルギス、東は中国、西はウズベク、南はアフガニスタンに接している。パミール高原はパキスタン、アフガニスタンから続いていて、世界中から多くの登山家達がここを訪れる。アフガニスタンは山脈の国、イランは高原の国と言われているが、現在これらの国々を訪れることは非常に難しい。だが、両方の良さをそのまま持っていると言われるのがここタジクである。首都のドゥシャンベは山に囲まれた町。ドゥシャンベという名前はタジク語で「月曜日」という意味だ。なぜ月曜日かというと、かつて週に一度、つまり月曜日はバザールの日と決まっており、人々で賑わっていたからである。この国にはソ連最高峰の山コミュニズム峰があり、その高さは7,495メートルだ。富士山の高さを軽く上回る山はタジクにはざらにあるそうだ。民族構成は、人口の60%のタジク人と、30%のウズベク人と、5%のパミール人等から成り立っている。
僕達はホテルに荷物を置いた後で、郊外にあるギサル山脈を見に出発した。ドゥシャンベはタシケントよりもずっともの静かな町だ。一本のクネクネ道を走る僕達のバス。右側は大きな絶壁、岩が一つ落ちてくればおしまいだ。左側は湖をはさんで空を突き刺すような山々が見える。湖はわりと浅く、市民のプール代わりとなっている。湖を通り過ぎると、道路に沿って激しく流れて行く川。水汲みをしていた20歳位で民族衣装姿の姉さん達がバスに向かって手を振ってくれた。道路の脇には野性の牛やロバが歩いている。途中で疲れると川の淵で寝てしまう。これもまたのどかな風景だ。山のふもとにぽつんぽつんと民家が建っている。危険な場所に建てたものだ。家々の戸や壁等に黒ペンキか何かで大きく「ΑΛΛΑΧ(アラー)」という落書きが書いてある。他の中央アジアと同様、ここもイスラムの国。市内には六つのモスクがある。しばらく行くと川沿いに巨大なセメント工場があった。この工場は毎日この川に廃棄物を捨て、川が日に日に汚染されていくため、今タジクでは深刻な公害問題となっているそうだ。
地元の観光バスが路上に停まっていた。どこかが故障したのだろう。日本ならここでレッカー車を呼ぶのが普通だが、ソ連には修理サービスが成り立っていないのか。仮にあってもベリョースカと同じで、修理した所で自分には何の儲けにもならないのだから、わざわざここまで来て修理する気など全く無い。ホテルもそうである。色々なホテルに泊まったが、必ずどこかが壊れている。だが誰も修理をしないため、そのままである。バスの運転手と車掌らしき人達があたふたとボンネットを開き、慣れない腕で修理していたが、一向に走り出す気配はなかった。そこで立派だったのはバスの乗客である。誰一人文句を言わず、まるで当然かのようにじっと座席に座って待っていた。僕達は日本に生まれてよかったとつくづく思った。
ホテルを出てから長い時間だったが、やっとギサル山脈のふもとに到着した。激流の川を吊り橋で渡った先には果てしなく続く雄大な山々。頂上には雪がかぶっている。山の裾には岩が多く、その岩々をピョンピョンと飛び回るヤギの群れ。険しい山も楽に駆け登るその姿は奇妙なものがあった。川の水はとても冷たく気持ちよかった。そして何よりも空気が澄んでいた。どこからか一台のトラックがやって来て、四、五人の男達が出てきた。彼等は長い棒を持ち、ヤギの群れに近付いた。猛スピードで逃げて行くヤギ達をさっととり囲み、棒で追い立てるように振り回し、岩の行き止まりまで追い詰めた所で一匹一匹抱き上げてトラックの中に乗せていた。二、三匹のヤギがトラックの柵を越えてまた逃げだしたが、彼等はあっという間に捕まえてしまう。彼等は遊牧民だった。ウズベクの草原では自由に羊を放して移動していたが、ここでは、家畜はトラックに乗せて移動していた。本当に珍しい場面に遭遇した。
そろそろ夕方になってきた。僕達はバスで引き上げた。帰り道、行きに故障で立ち往生していたバスがまだ動けないようだった。中の乗客達は外に出て地べたに座っていたり、寝ころがったりしていた。
ホテルに戻って夕食。ここのレストランの料理は比較的おいしかった。さらにデザートにアイスクリームが出たのでうまそうに食べていると、それを見ていたボーイがもう一つくれた。サービスもいい。
食後、ホテルで民族舞踊のショーが行われる。ツアーの中で参加希望者は僕を合わせてたったの四名。しかもいい席はすべて欧米人達で占められ、僕達は隅っこの粗末なイスに座って観賞した。最初は民族衣装の女性達による合奏だった。ドゥタールやタールといった弦楽器を奏で、笑顔を浮かべて歌っている。僕はウズベクにいた頃、町で流れる音楽によく聞き入っていたが、ここはイラン系民族の国のせいか、やはり歌の雰囲気等は大分違っていた。ウズベクの音楽は草原で歌われるような優雅な曲が多かったが、タジクの音楽はバザールの風景を思わせるような、明るく賑やかな曲が多かった。華やかな衣装をまとった五人位の女性が真ん中の舞台で舞う。色とりどりのスカートの下にズボンをはき、頭には薄いベールをかぶり、彫りの深い笑顔を見せて舞台でグルグル回り、踊る。これがまた全員の息がピッタリ合っていて最高に美しいものだった。続いてはこれまた民族衣装を着た三人の男が登場し、それぞれタール、ドゥタール(弦楽器)、ドイラ(打楽器)を使った演奏が始まった。特に真ん中の林隆三そっくりな人はタールを弾きながら、太く大きな声で素晴らしい歌を歌い、各席を回った。曲が終わると林隆三とドイラの演奏者は舞台裏に帰り、残った一人の演奏者によるドゥタールの独奏が始まった。形も音も三味線そっくりで、何か親近感のある曲だった。エンディングは先程の女性達が再び出てきて合唱。とても楽しいショーだった。
次の朝、朝食はセルフサービスだった。今日はドゥシャンベの市内観光である。始めに郷土博物館を訪れたが、中央アジアの他の博物館と同じような感じで、特に印象に残らなかった。
ドゥシャンベの市街は割と近代的だ。昨日の山々も同じ市内なのだが、ここにはもう山は無い。サッカー場が見える。サッカーはタジクで最も盛んなスポーツだ。ふと気が付いたことだがこの町には、子供のための自然公園やサーカス、喫茶店といったものが多い。ソ連を始めとする社会主義国にはピオネールやコムソモールといった少年少女団体があり、今までのどこの町にもピオネール宮殿という建物があった。未来の宝である子供を尊重する考えはどこの国でも同じだが、特にソ連は徹底している。ピンク色のタジク共和国政府を通り過ぎると、高層ビルが建ち並んでいた。これらのビルはすべて国営アパートだそうだ。すべて16階建てで、タジクにこのアパート群より高い建築物は他に無い。昨日山へ向かう途中にあった家々はすべて自分達で建てたものだが、町の人々は皆これらのアパートに住んでいる。タジクは他の中央アジアの国の中でも比較的子沢山の国で、一家族につき平均六人の子供がいるため、政府はこの急激な人口増加と住宅問題で頭を痛めているようだ。だが沢山子を産んだ母親には勲章が与えられるのだから、何とも変な話だ。
タジクには二人の偉人がおり、市内にはその二人の銅像が沢山ある。まず一人はアビツェンナという医者だ。彼は東から来たシルクロードの隊商に出会い、旅に同行した。そしてその土地その土地で見つけた薬草で様々な病気に効く薬を作った。始めはケガや病気をした隊商達の治療が主な仕事だったが、その後ペルシャやアラビアを訪れて現地の人々の治療をして回った。彼の著書は今でもタジクの医者達のバイブルとなっている。市内にそびえる彼の銅像はレーニン像よりもずっと目立っていた。そしてもう一人は革命の英雄クイブスップだ。タジクは中央アジアではウズベク、トルクメンに次ぐ三番目にソビエト政権が樹立された共和国である。ロシア革命後もこの地にはバスマチという反革命勢力が残っていて、クイブスップの率いる人民軍はこれらの残党と戦い、勝利を勝ち取った。そしてここにタジク自治共和国が樹立された。しかしこの時点ではタジクはまだ自治共和国だった。自治共和国から共和国に昇進するには三つの条件が必要だという。一つは外国と国境に接していること、もう一つは主要民族であるタジク人、もしくはタジク語を母国語とする人が人口の過半数いること。そして一番重要な条件として、人口が100万人を越えているということだ。タジクはその三つの条件をすべて満たしたので共和国となったのである。
僕達はドゥシャンベ市内にあるチャイハナに寄った。ベッドのようなものが沢山並んでいて、その上に四人が車座になってチャイを飲む。僕はツアーの人達とそこで休んでいた。地元の子供達が店内を三輪車で乗り回しており、その中の一人の子供が僕達に近付いてきた。ツアーの一人がその子にフィルムのケースをやると、子供は喜んで奥の方に駆けていった。しばらくするとその子供は友達を連れてまたやって来た。僕は家から持って来た古いキーホルダーを新しく来た方の子にやった。すると二人はまた奥の方に駆けていった。そしてまたしばらくすると、子供は今度は五人位になって三度現れた。こちらももうあげるものはなかったが、子供の方もそう何度も物をもらうのはあつかましいと考えたのか次第に離れて行き、また三輪車遊びを再開した。
僕達はホテルへ帰り、昼食後荷物をまとめた。午後から飛行機でカザフ共和国の首都、アルマアタへ向かう。
いよいよツポレフでドゥシャンベを出発した。機内で僕はいつものようにウォークマンを聞こうとした。この時僕は地元のラジオ放送が入るかどうか関心があったので、ラジオをかけてみた。ヘッドホンから何やらロシア語がかすかに聞こえてきたその瞬間、ふと通路側を向くと、軍人のような男がそれをこちらに渡せと言うかのように手を差し出していた。僕は慌ててそれをナップザックにしまい込み、再び通路側を向くと、その男の姿は既に消えていた。
僕等は無事アルマアタに到着した。アルマアタとは、カザフ語で「リンゴの父」という意味である。ここアルマアタを首都とするカザフ共和国。ソ連ではロシアに次ぐ二番目、アジアでは中国、インドに次ぐ三番目という広大な国土を持っていながら、肝腎なアルマアタは東の外れに位置している。カザフは近代都市であるアルマアタを一歩出ると、草原と砂漠が目立つ。そしてその砂漠地帯にはソ連の有名なバイコヌール宇宙基地や、セミパラチンスク核実験場がある。
後で聞いた話だが、中央アジアという地域は厳密にはタジク、キルギス、ウズベク、トルクメンの四共和国までで、カザフはそれに属さないという。だがカザフは「ロシアと中央アジアの間」と呼ばれる地域で一応アジアの一部だそうだ。ややこしい話である。カザフにまつわる変な話はもう一つある。この国の多数を占める民族はもちろんのことカザフ人だが、首都アルマアタで過半数を占める民族はロシア移民だという。その通り実際に訪れてみると、町を歩いていた人のほとんどはヨーロッパ系の人々ばかりで、カザフ人はあまり見当たらなかった。そのカザフ人だが、驚くほど日本人に似ている。ウズベク人もかなり日本人的な顔をしていたが、彼等は民族衣装を着ているからすぐにウズベク人とわかるが、カザフ人は普通の洋服を着ているので、ただ見ただけではカザフ人なのか日本人なのか判別できない。ただ僕の見る限り、日本人よりも背が高くて顔はやや小さく、野生的な風貌をしている。
アルマアタの空港に着いた時、東ドイツからの旅行団体をよく見かけた。初めは観光客かと思ったがそうではない。アルマアタに住んでいる親戚に会いに来ているのである。なぜこんなにドイツ人が多いのか? 第二次世界大戦後、ドイツ軍の捕虜が当時のソ連の指導者スターリンによってこの地に強制移住させられたためである。しかもその数は100万人にも及んだというのだから、町中ドイツ人が歩いていても不思議ではない。だが戦後ソ連に捕らえられたのは、何もドイツ人だけではない。ドイツと手を結んだ日本軍もそうである。その多くはシベリアへ送られ、永久凍土の上で死んでいった人達もいたが、中央アジアに送られた日本人も決して少なくはなかった。タシケントにあるオペラ劇場は戦後日本人が建てたものだそうだ。
ホテル・オトラルに到着した。オトラルというのはアルマアタを州都とするカザフの州の名前である。すぐに夕食の時間となり、早速食堂へ向かった。料理こそいつものものと同じだったが、食堂が広い。モスクを象っていて、ガラスの入った丸天井からは日光がよく通って気持ち良く食事ができた(この時間はまだ明るい)。僕も大分ツアーの大人達に慣れてきたようで、すっかり打ち解けて話できるようになった。この時、食堂の中にある舞台では赤いブラウスに白いスカートの民族衣装を着たカザフ人女性による、民族楽器ドムブラの独奏が始まっていた。日本の三味線のようなその音色に合わせて歌も歌っていたが、中国やモンゴルの方の歌に雰囲気がよく似ていた。
食堂を出ると、ロビー付近にカザフ人の男が数人うろついている。彼等は外国人を呼び止めてルーブルと外貨を交換しようとしている。中央アジアにはこのような人が大勢いる。
夜もふけてきた。明日の市内観光にそなえて早く寝ることにしよう。部屋に戻りトイレに入ろうとすると、便座が無いのに気付く。洋式だから、空気イスのように腰を少し浮かせて用を足さなければならない。トイレットペーパーは書道の半紙のようでとても使い物にならず、持参の物を使用した。水道はお湯が出ない。毎回毎回不思議に思うのだが、なぜ故障したテレビを部屋に必ず置いておくのか。ベッドにはカーテンの布地が一枚かけてあるだけだった。そして窓は閉めようにも閉まらない。カーテンをかけようとしたら、上がちぎれて落ちてきた。ベッドに横になった時、内側から飛び出していたスプリングが背中に当たり思わず悲鳴を上げた。このようにホテルの設備についてグチを並べればきりがないのである。
朝10時ロビーに集合し、市内観光に出発した。アルマアタはとても近代的な町で、かつてのシルクロードの面影は無かった。松の木の並んだ公園の路地をぬけると、ヨーロッパ的な建築が見えてきた。その建物の周りをハトの群れが円を描くように飛び回っている。この建物は19世紀にこの地が帝政ロシアの植民地になった時建てられたギリシャ正教の教会である。だが現在は使用されておらず、博物館となっているようである。教会跡を通り過ぎると、そこにはまたいつものように誰かの銅像があった。すると向こうから結婚式の行列がやって来た。以前サマルカンドで見たお祭り騒ぎとは全く違い、新郎はきちんとしたタキシード、新婦はウエディングドレスを着ていた。二人共日本にもよくいそうな顔立ちをしていた。行列が銅像の前に来ると、先頭の新郎新婦は持っていた花束を置き、停めてあった花自動車に乗って公園を後にした。彼等の乗っていた車は先端に花束と人形がくっつけてある。人形の種類はフランス人形からキューピーまで車によって大分違うが、たまたま彼等の車についていたのはリアルなキューピー(不気味)で、一瞬見た時、本物の赤ん坊が車にくくりつけてあるのかと思ってしまった。
公園の真ん中に来ると、何やら観光客達で賑わっていた。婦人警官のような身なりをした女の子達が、辺りを歩き回っていたのを見て驚いた。さらに前方を見ると、その女の子達と同じ格好をした十代の女子三人と、カラシニコフ銃を担いだ軍服姿の男子二人が隊列を組み、足を90度上げるソ連軍独特の機械的な行進をしていた。女子は三人ともカザフ人で、そのうち一人は歩数を合わせる号令係のようだ。男子二人はロシア人で、まばたき一つせず、目の玉の動かさず、ただ真っすぐ向いて行進している。彼等の行く先を向くと、そこには「永遠の火」が燃えている戦争記念碑があり、別の少年少女の兵士達四人が前後左右のポジションに立っていた。どうやら今行進している四人は警備の交替に来たのだろう。号令係の合図と共に四人は記念碑にちょうど向かい合うようにぴたりと立ち止まった。すると今まで警備していた四人がこれまた機械的な行進で前進し始めた。同時に新しく来た方の四人も歩き出し、双方が記念碑の前ですれちがう。新しく来た四人がそれぞれのポジションに辿り着くと、息ピッタリに回れ右をした。一方記念碑の前で一時停止していた任務終了の四人も、号令係の最後の合図で再び動き出し、記念碑を離れて行った。テレビで赤の広場のレーニン廟を守る兵士の交替を見たことがあったが、瞬く間の入れ替わりは全く同じだった。しかし僕とほぼ同年代の学生が、銃を持ち警備している情景を見ていると何とも妙な気分だ。凛々しくも見えるが、一体何のためにこのようなことをしているのだろう。カザフ人の女の子二人は記念碑を横目に少しおしゃべりしたりしていたが、前方の二人のロシア人男子はマネキン人形かのように動かなくなってしまった。ちょうどこの記念碑の前には高校があり、彼等はそこのエリート生だそうだ。ソ連では夏休みが三カ月あり、その間交替でこの記念碑を守っているという。誰から守っているのだろう。
僕達はバスでアルマアタ郊外のメデオという場所へ向かった。メデオというのは「スピードスケートの記録工場」という異名を持つ、山中のスケート場だ。8月にスケートを楽しめるのかと期待していたが、実際僕達を待ちかまえていたのはスケートではなかった…。
メデオへ行く途中、カザフ共和国政府とカザフ国営テレビ局のある、「新しい広場」を通り過ぎた。この広場はかつて「ブレジネフ広場」と呼ばれていた。その名の通り、故ブレジネフ書記長にちなんでつけられたものである。ペレストロイカ以降ソ連では頻繁に民族運動が起きるが、実はこの広場こそ最初の運動が起きた場所だったのだ。1986年、当時の共和国トップである第一書記だったカザフ人のクナーエフが辞任し、後任がモスクワから派遣されてきたロシア人のコルビンに変わったため、学生を中心とするカザフ人達は異民族の指導者に対する抗議デモを行い、政府系の建築物に放火するといった事件が起こった。この暴動は二、三日続いたが、今は安定している。そしてかつての「ブレジネフ広場」は現在の様な名前に変更されたのである。だがこの暴動を起こした運動家達は全員、政府の手によって処刑されたという後味悪い噂もある。
しばらくバスに揺られていると、先程までのヨーロッパ的な街並みから徐々に山が多くなってくる。途中民族料理店で昼食を摂った。この料理店はいくつかの遊牧民テント(中国語でパオ、モンゴル語でゲル、カザフ語でキズウィというが、ここではパオと呼ぶことにする)から成っていた。馬乳酒の酸っぱい匂いが部屋中に広がり、床と壁は色とりどりの絨毯で飾ってある。昔のカザフ人はこんなに居心地良いパオを折りたたんで草原を移動し、夜は空の星を見ながら眠ったのかと思うと羨ましい。だが遊牧ほど厳しい生活は他には無かったに違いない。羊の肉で作ったシシカバブが印象的な料理を食べ終え、僕等はパオを出た。
カザフの山々は奥多摩を始めとする日本の山々によく似ている。何となく東京の郊外に来たような気分だ。料理店からバスで10分位のメデオに到着。ここは四方を山に囲まれたスケート場で、世界的に知られた名所だ。地元の人達はもちろん、ロシア人やドイツ人達も陽気に滑っていた。スケートリンクの近くには空にそびえるほど長い登り階段があった。「メデオの丘」といって、なぜか観光客はみんなこれを登って行く。そんなわけで僕等も登ることになった。最初僕はこんな階段なんて対したことはないと思い、張り切って先頭を登っていた。第一ツアーの中で僕が一番若かったので、始めからばててしまったら恥ずかしいという気もあったからだ。他の人達みんな自分のペースで登っていた。だが僕の目は前にしか向いていなかった。さすが学生時代バスケットのエースだったウラさんは、この位何でもないかのようにヒョイヒョイと僕の前を登っている。僕の額からもだんだん汗が流れてきて、息も荒くなった。だが僕は決してウラさんの背中から目を離さなかった。疲れを知らない小さな子供達がキャッキャと騒ぎながら追い抜いて行く。やっと終わったかと思うと、まだ遥か上の方まで階段が続いている。さっきまで目の前にあったウラさんの背中がだんだん遠ざかっていく。しばらく息を切らしながら登り、一段落ついた所でウラさんに「少し休みませんか?」と言うと、ウラさんも「そうしましょう」ということで、僕達は少し休むことにした。だが何分休んでも疲れが取れない。ウラさんももう登り出し、後ろの方にいた人達も僕を追い越して行ってしまった。慌てて登り始めたが、もう僕はその時には競走する気も何も無くなっていた。ただ早く頂上に着きたいとだけ思っていた。
やっとのことで頂上に到着。結果的にツアーの中で早く登りついた順位では、七番目だった。だがよく考えてみれば、競走していると思っていたのはこの中で僕一人だったのだ。他の人達は階段を登っている途中で写真を撮ったりしながらゆっくりと上がり、僕より先に到着している。僕は急ぎ過ぎたせいか頭がクラクラしてきた。皮肉なことにせっかく丘の頂上からの見晴らしは大したことは無かった。木がぽつんぽつんと立ち、電線が張りめぐらされた野原があるだけだった。記念写真を撮った後、今度は下りが待っていた。下まで降りた頃にはのどが渇いて仕方無かった。近くにレモネードの自動販売機があった。何となく日本の紙コップ式のジュース販売機に似ていた。日本ならジュースの出る口の下に紙コップが置いてあるが、これはガラスのコップが一個だけ置いてある。30カペイカ入れた人はみんなこのコップで飲むのだ。飲み終わればまた元の所に戻し、次の人もまたその洗っていない指紋だらけのコップで飲むといった具合なので、非常に汚い。さすがにのどが渇いたと言ってもそれは諦めたが、後でNさんからスタミナドリンクを頂いて生き返った。
僕達はメデオを後にした。これからまた都市部へ戻り、アルマアタ民俗博物館を見る。途中バスの中でウラさんが話してくれたカザフの民話をまた一つ紹介しよう。
昔、ある山に男が住んでいた。男には妻と子供がいたが、彼はひどい怠け者で仕事も何一つしなかった。なので生活はとても貧しく、妻はいくら文句を言っても男はぐうたら寝ているだけだった。ある朝男は、これからどうすれば家族が幸せに暮らしていけるか、森の向こうの仙人の所に行って聞いてこよう、と言い出し、家を出て歩き出した。
しばらく行くと一匹の痩せた狼に出会った。狼は男に尋ねた。
「こんな朝っぱらからどこへ行く?」
「どうすれば、自分の家族が幸せにやっていけるかを、仙人に聞きに行くのだ。」
男がそう答えると、狼は言った。
「そのついでに俺の事も聞いてくれ。俺はこの5日間、何も食べ物を口にしていないのだ。こんなに痩せてしまったので、獲物が出て来ても追い駆けられないのだ。」
わかった、聞いておこう。男はそう言って再び歩き出した。
またしばらくすると、一本の今にも枯れそうなリンゴの木が立っていた。リンゴの木は男にどこに行くのかと尋ねると、男はわけを話した。するとリンゴの木は言った。
「じゃあ、ついでに俺の事も聞いてくれ。いつも雨が降っているのに、俺の実だけが育たないのだ。なぜなのか教えてくれ。」
わかった、聞いておこう。男はそう言って再び歩き出した。
またしばらく行くと大きな池があり、中から大きな魚が首を出し、男にどこへ行くのかと尋ねた。男はわけを話すと、魚は苦しそうに言った。
「俺の事も聞いてくれ。実は最近えさを飲みこむと、何かがのどにつかえて痛くてしょうがないのだ。」
わかった、聞いておこう。男はそう言って再び歩き出した。
やがて男は森に入って行った。すると大木の下に白いあごひげをのばした仙人が座っていた。
「わしに何か用か?」
仙人は言った。男は自分の悩み事を話すと、仙人は頷き、「それだけか?」と聞いた。男は魚の事を思い出した。すると仙人は言った。
「魚ののどに、宝石が一個詰まっている。それを取り出せば大丈夫だ。」
続いてリンゴの木の話をすると、仙人は言った。
「木の根のそばに、金の壺が埋まっている。せっかく降った雨水も根の所まで行かないで、その壺に溜ってしまうのだ。」
男は最後に狼の話をすると、仙人は答えた。
「間もなくその狼の前に、自分勝手な怠け者が来る。その人間を食べればいい。」
「それでは、私の相談の答えはどうなのですか?」
男が聞くと、仙人は「もう答えは出ておる、家へ帰ることだ」と言って消えた。男は喜んで森を後にした。
途中池の前に来ると、魚が顔を出し、どうだった? と聞いてきた。
「お前ののどに宝石が詰まっているそうだ。」
男は答えた。
「それでは、その宝石を取ってもらえないか。そうすれば君だって金持ちになれる。」
「そんな事知るか。俺は家に帰ればもう金持ちなのだ。そんな宝石などいらない。」
男はそう言ってまた歩き出した。
リンゴの木に会った。どうだった? リンゴの木は聞いた。
「お前の根っこに、金の壺が埋まっているのだ。」
「では、その金の壺を掘り出してもらえないか。そうすれば金の壺は君の物だ。」
「そんな事知るか。俺はもうすぐ金持ちになるのだ。金の壺なんていくらでも買える。」
男はそう言ってまた歩き出した。
家の前まで来ると痩せた狼が待っていて、どうだった? と聞いてきた。
「もうすぐ自分勝手で怠け者の男がやって来る。そいつを食えばいい。」
男の答えに狼は礼を述べ、それまでここで待つことにしようと言った。しばらく待っている間、狼は男に話しかけた。
「仙人の所へ行ったにしては、随分時間がかかっていたようだが、どこで道草を食っていたのだ?」
男はリンゴの木と魚の事を一部始終話した。
「待つ必要はこれで無くなった。自分勝手で怠け者の男とはお前のことじゃないか。」
狼はそう言って男に飛びかかり、食べてしまった。
夫と狼の会話を家の中で聞いていた妻は、早速リンゴの木の所へ行って金の壺を掘り出し、池へ行って魚ののどから見たこともない宝石を取り出した。こうして妻は怠け者の夫がいなくなったお蔭で、幸せに暮らすことができたということだ。
バスはやがて民俗博物館の前で停まった。入口には大きなソビエトの国旗、その隣には真ん中に水色の横線が入ったカザフ共和国の国旗が掲げてあり、その下には巨大なレーニンの顔の像が僕達を睨みつけていた。
「どこ行ってもレーニンばっかりだな。」
ツアーの一人がつぶやいた。この博物館には「黄金人間」という全身が金でできた古代スキタイ人の鎧が展示されている。北方ユーラシアをまたにかけ、黄金文明を築いたと言われるペルシャ系遊牧民族のスキタイ人だが、突如歴史上から姿を消し、多くのことは未だわかっていない。そんな中、クルガンと呼ばれる彼等の古墳から発掘された黄金人間は正に今世紀最大の発見とされた。これだけは是非実物を見たいと思っていたが、残念ながらそれは現在アメリカのスミソニアン博物館に貸し出しているということだった。代わりに50センチ位の模造品が展示してあったが、それがなんと小さく見えたことか!