第十回 「ひと冬の夢」 (フィリピン編)

Philippines


フィリピン旅の期間:2001年1月23日~1月29日 6日間

訪問地:マニラ、セブ、ボホール

 




四日目:海水浴、家庭訪問そして再会・・・

 

 翌朝6時半、ホテルの前に停まっていたサイドカー風のタクシー、トライシクルにまたがって港へ。行きと同様甲板の冷たい風に震えながらセブへと戻る。センター・ポイントに再チェックインしてベッドに腰を下ろした時はまだ8時半だった。

 「もしもし、ネリーはいますか?」

先日トップスで教えてもらった彼女の番号に電話すると、寮の管理人らしき人が出た。彼が受話器の向こうで彼女の名を大声で呼ぶと、パタパタと階段を下りる音が聞こえてきた。

 「ハロー?」

やがて受話器に出てきた懐かしい声。この声を聞けないボホールでの一日はやけに長く感じた。

 「帰って来たよ。」

 「ハイ、Ling Mu! クムスタ(元気)? どう? 楽しかった?」

 「うん、自然いっぱいで楽しめたよ。君がいればもっと良かった。」

 「アハッ。これから仕事に行くんだけど、その後また会おうね。」

 「何時頃終わるの? ビーチに行こうよ。」

 「今日は週に一度のミーティングがあるから、夜の8時ぐらいになりそうなの。」

 「後で時間あったらお店に行くよ。」

 「うん、ところでジョアンには会ったの?」

 「いや、会ってないし、会う予定も無いけど。どうして?」

 「何でもない。また連絡して。」

名残惜しい気持ちで受話器を置く。セブに来てよかったと実感する一瞬だった。おっと、旅を続けなければ。再び受話器を取り、キーマンにコンタクトする。

 「おう、Ling Mu! 帰って来たか。オレはたった今棲家を移した所だ。」

ビルの声も久しぶりだ。隣にはベレンママさんもいるらしく、例の豪快な笑い声が聞こえる。

 「新しい宿の名前はプレディアム・スイーツ。安くていい所だ。遊びに来いよ。」

 「うん、行くよ。場所は遠いの?」

 「ちょうどロビンソンの近くだから、10時に入口で会うとするか。」

 

 かくしてタクシーでロビンソンに着いた僕は間も無くビルと再会した。両替商のある建物の一階をくぐり抜け、静かな細い通りに出るとすぐにその宿はあった。彼の部屋は半開きになっており、持参のCDプレーヤーからアイルランドの幻想的な音楽が流れていた。中に入ると早速相変わらずの高笑いでベレンママさんの歓迎を受け、幻想的な雰囲気は一瞬にして崩れ去った。

 「しばらくだね! あたしゃ、今日は用事あって午前中しか付き合えないんだ。今日はビルがどこでも連れてってくれるから。それからジョアンナおばさんが今晩二人を食事に招待するってよ。あの人は料理うまいから羨ましいねぇ。ハーハッハッハ!」

ジョアンナおばさん、と聞いても最初ピンとこなかった。記憶をたどってみると、僕とビルがセブの空港に着いた時、迎えに来た車にいた面々の中にその人は確かにいた。ベレンママさんが存在感あり過ぎて影に隠れてしまっていたが、その隣で子供を抱えていたのがジョアンナおばさんだ。

 「ところでLing Mu、今日はどこに行きたいんだ?」

現像したての写真の束を一枚一枚めくりながらビルが言った。

 「せっかくセブに来たから、海に行きたいな。」

 「セブ側なら少し遠いが入場料は安い。マクタン側は近いが高い。どっちがいい?」

 「人が少な目で静かなビーチがいいね。」

 「ならセブ側のスタキリ・ビーチだ。少し遠いから、今から行った方がいいな。」

ビルは写真をテーブルに置くと早速用意を始めた。

 「ネリーは仕事が抜けられないらしいんだけど、他に誰か一緒に行く女の子いるかな?」

 「そうだな。ジョアンあたり声かけてみるか。」

ビルお得意の携帯メールが始まった。その間テーブルの上の写真を拝見していると、頭をスキンヘッドにした白人の男がネグリジェ姿のフィリピン女性二人を両腕に抱えながらヨダレを出して喜んでいるまるでマンガのような写真が混じっていた。

 「ああ、そいつはオレがマニラに行く前にセブで一緒に行動してたチャーリーっていうバカさ。色欲はオレ以上だな。ま、一応そいつにも家族がいるんで、トップシークレットってことにしといてくれ。」

プレイボーイではあるが、落ち着いていて気配りのあるビルとは対照的な人物らしい。ベレンママさんの評価もすこぶる悪く、いろいろな面でトラブル寸前となったため、ビルのマニラ行きに急遽便乗し、そのまま帰国したという。マニラで彼と別れたビルは北部のバギオを回った後、再びセブに戻る途中の飛行機で僕と出会ったってわけだ。

 そこへビルの携帯が鳴った。ジョアンからのようだった。彼が話をしている間、ベレンママさんが言った。

 「Ling Mu、あんたの住んでる中国じゃ、あれ、安いの?」

 「ああ携帯? 今はみんな持ってるけど値段はピンキリだね。」

 「メールができて軽いやつって無いの?」

僕はカバンから普段上海で使っている携帯を取り出し、彼女に見せた。購入当時は最新だったパナソニックの軽い携帯である。今はもっと薄くて軽いものもある。

 「もし中国で手に入るなら、あたしに買って来てくれないかね?」

 「フィリピンとは方式が違うんだよ。僕のだってここでは使えないんだ。」

アジアを旅すると、ちょっと仲良くなっただけですぐにオネダリしてくる人によく遭遇する。始めからそれ目当てで近付いてきたわけではないにせよ、ダメもとで頼んでみれば案外買ってくれるかも、という淡い期待があるようだ。親身になって僕の旅をアレンジしてくれているビルには何らかお礼をするべきだとは思うが、その関連で知り合った人々の中で多少お世話になったとは言え、向こうから何かを買って来て欲しいと頼まれるとちょっと引いてしまう。第一、高価な物を頼みたいのなら頼む相手が違う。結婚から離婚まで世話したというのならむしろビルに頼むのが筋ではないか。もっとも彼にはもちろんのこと、出会った外国人には誰にでも頼んでいるのかも知れない。とにかくこの話はここで終わりにしておいた。

 「ところで、ネリーが昨日心配してたよ。」

ベレンママさんもすんなり話題を変えてくれた。

 「どうして?」

 「ジョアンがあんたのこと好きだから。」

 「何だい、そりゃ?」

 「あんたがボホール行ってる時、ネリーとちょっと電話で話したんだよ。まるで恋人みたいだったって。」

そんな話が交わされていたなんて、まるで寝耳に水だった。だが今朝のネリーとの電話をちょっと思い返してみると、確かに彼女は今日ジョアンに会うのかなどと聞いていた。

 「ジョアンとはそんなんじゃないよ。多分彼女が車の中でバカばっかり言ってたから、こっちもバカなこと言ってふざけてただけだ。彼女が僕を好きだなんて考えられない。」

シャイなネリーから見ればあの日一緒の車で冗談を言い合っていた僕とジョアンが親しげに見えたのだろう。それとウォーターフロントでネリー達がシャワーを浴びに行っていた間、僕とジョアンの二人はロビーで待っていた。実際はディスコに行こう、いや行かないの押問答をしていただけだったが、ネリーには不安な思いをさせたのかも知れない。 「とりあえず誤解を解くなら早い方がいいよ。」

 「そうだね。今晩ジョアンナおばさんと別れたらネリーに会いに行くよ。」

やがてビルの携帯から返事の着信音が鳴った。

 「ジョアンも後から合流するそうだ。行こう。」

誰が来ても拒絶はしないがネリーに誤解だけは絶対させまい、そう思った。

 

 準備万端の僕とビルはひとまずベレンママさんと別れ、タクシーを拾った。スタキリ・ビーチはセブ・シティから車で約30分程のコンソラシオン地区にある。「コンソラスィオ~ン」と鼻にかけて発音するらしい。今晩お邪魔する予定のジョアンナおばさんの家もこの付近だとのこと。移動中ビルは時々僕と会話をしながらも、相変わらず誰だかわからぬ意中の女性と携帯メールを交わしていた。しかしビルに限ったことではなく、今フィリピンでは携帯メールが爆発的に流行している。何しろマラカニアン宮殿を包囲してエストラダ前大統領を失脚に追いやったあの大規模なデモの発端は、どこの誰からともなく転送されて来た「大統領に抗議しよう」という携帯メールであったとも言われるほどだ。

 やがて車は高級リゾートのような雰囲気を漂わせるスタキリの入口に到着。海ではイタリア人が一人泳いでいた以外誰も見当たらない。ホテルのプライベートビーチのような高級感と人の少なさ。さすがビルお勧めの穴場だ。暑かったのでまずはカフェに腰を下ろして少しのどを潤した後、早速ビーチへと向かった。 

 

 「オレが初めてフィリピンに来たのは35歳の時だった。以前ドイツに住んでたことはあったが、特にアジアに目を向けたことは無かった。」

 「そんなビルがどうしてフィリピンに?」

 「一度でいいから行ってみろって当時フィリピンにハマッてた兄貴からしつこく言われたんで、騙されたと思って来てみりゃ、何と兄貴以上にハマッちまったってわけだ。」

生い茂るヤシの木で日陰になった白い砂浜の前に広がる遠浅の真っ青な海。僕はあおむけになって海に浮かび、紺碧の空の下で波に揺られながらビルとこの国とのつながりを聞いていた。

 「ニューヨークにいた頃の妻と別れて、初めてフィリピンの彼女ができた時、幸せだったなぁ。」

 「その人と結婚したんだっけ?」

 「いや、結婚した相手はもうちょっと後のだ。」

 「二番目か三番目の?」

 「七番目だ。」

まるで高波が来たかのようにひっくり返った。

 「今付き合ってるマニラの彼女ってのは?」

 「十六番目だな。」

別に天国に来たのではない。しかしこんな場所でこんな話をしているとそう錯覚しかねない。確認するわけではないが青い透明の海の中に一回潜水する。底の方で固まって泳ぐ黒い小さな魚に触ろうとしたら珊瑚に手をぶつけた。一応ここは現実の世界だと再認識し、もう一度海面に上がる。そして旅するごとにマドンナが交代するこの45歳の「アメリカ版寅さん」によるフィリピン恋愛講座を拝聴した。

 「よくそんな簡単に彼女ができるもんだね。」

 「この国の女性はもちろん保守的な面もあるが、外国人男性に対し良いイメージを持っている場合が多い。」

 「それはなぜ?」

 「何らか機会を得て外国に行ければ自分も家族も豊かになれる。それが本人の望みでもあり、家族の望みでもある。経済的な理由が大きいかもな。それから現地の男性の評価があまり良くない。結婚すると妻を殴る夫が多いらしい。その点オレや君みたいな外国人はもっとポライトだから印象がいいようだ。」

 「フィリピンの子は顔もスタイルもいいし、性格も良くて、外国人好きなら最高だね。」

 「二点だけ気をつければな。一つはまず嫉妬されないことだ。」

 「そう言えばさっきベレンママさんが変なこと言ってたな。」

 「何て?」

 「ジョアンが僕を好きだって。」

 「多分ネリーが少し嫉妬してベレンにそう話したんだろう。この国ではそういうの多いぞ。」

長年の経験者が語る一言一言には確かに実感させられるものがあった。

 「そしてもう一つ。もし君がこの国の女との結婚を考えるなら、よく聞け。」

ビルはあおむけに浮かんだまま顔だけこちらに向けて言った。もっとも僕もまだ付き合っている程深入りしてはいないが、恋愛は理屈でない以上、何が起こるかわからないので参考として耳を傾けた。それはフィリピンに限らず第三世界の配偶者を持つ場合に共通して言えることのようだった。

 「君は彼女と結婚するんじゃない。彼女とその家族、親戚と結婚するんだ。」

先進国出身の男性がすべてまとめて養う立場となると言ったら大げさだが、失業率の高いこの国では家族が収入のある一部の息子や娘の仕送りだけを頼りに生活している状況なので、彼等子供達のうちの誰かが外国人と結婚でもしようものなら、たまに里帰りした際には家族親類にかなりたかられるらしい。

 「オレも離婚する前までは、毎回サンタクロースになったような気分だったぜ。」

ビルは半ば冗談めいてそう言ったが、やはり現実味を帯びた一言だった。ヒゲ面で体が大きいから確かにサンタに似てなくも無いが、彼の背負うプレゼントの袋は彼の何倍も大きかったのかも知れない。夢のような話からいきなり冷や水をぶっかけられた僕は一旦浜辺に戻った。

 僕とビルが浜辺のベンチに腰を下ろすと、隣に一人座っていた三十過ぎぐらいのフィリピン人女性が声をかけてきた。

 「今日は天気もいいし、人も少なくて過ごし易いわねぇ。」

カルメンという名のその女性は沖の方で泳いでいるイタリア人旅行者の連れとのことだったが、泳ぐ格好ではなかった。

 「フィリピンの人って、何で海に来ても泳がないの?」

 「泳げない人が多いんだよ。特に女性は。」

僕の問いにビルがそう答えると、カルメンは笑って頷いた。四方を海に囲まれていながらなぜ泳げない人が多いのか理由はわからない。ただ南国では全体的に色白が美人の条件であるため、海で日焼けすることをあまり好まない傾向があるようだ。仮に泳ぐとしても洋服を着たままというケースが多く、これは他の東南アジアの国でも見られる。

 この時カルメンの携帯メールの着信音が鳴った。すると「専門家」ビルが早速興味を示し、彼女の携帯を手に取ってメール機能の話を途切れ無く始めた。しまいには調子に乗って彼女の友達のメールに自分が返信を出す始末。一方僕はもう一泳ぎしたくなったので再び海に入って行った。しばらくすると一台のワゴンがビーチに現れ、何組かの子供連れの家族が現れた。三才位から小学生までの子供五、六人が大喜びで海に駆け込み、波打ち際でバシャバシャと遊び始めた。

 「沖の方は深くないですか? 子供達が遊んでも平気ですか?」

浜辺で子供達を見守る何人かのお母さんに聞かれた。沖も浅いから問題無いと言っておいたが、子供達は沖には行かず、ずっと砂浜の近くで遊んでいた。僕はしばらく沖の方でさっきと同じように水面にあおむけになっていたが、静かな波に流されていくうちにやがて子供達のはしゃぎ声が近くなってきた。平泳ぎをしながら子供達に近付こうとすると、彼等は別段こちらを気にしていない様子なのに少しずつ離れているような気がした。今度は方向を変えて近付こうとすると、子供達はやはり方向を変えて僕から離れていく。怖がっているのかな? 僕がハローと声をかけると、彼等の返事は無かったがはにかんだ笑顔が見えた。英語はわかるのだろうか? 次に僕は「泳げるかい?」と英語で話しかける。彼等からはやはりはにかんだ笑顔しか見られなかったが、しばらくして彼等のうち二人の男の子の口から「泳げるかい?」と、そっくりそのまま僕の言葉が返ってきた。よし、反応はしている。次は何て声をかけようかと考えていたその時、僕は自分の頭をふと触り、水中メガネが無いことに気付いた。今さっき平泳ぎをしていた時まではあったのだが…。僕は手探りで足元をかき回したが別の場所で落としたのかやはり見つからない。するとこの時、子供達の方から声がした。

 「メガネはどうしたの?」

何だ、ちゃんと英語しゃべれたのか。しかも僕が無くしたのがメガネだってことも知っていたなんて、彼等はやはり僕を観察していたんだな。お互い思わず大きな声で笑った。これ以降僕が近付いても彼等は逃げることは無かった。やっと仲間に入れてもらえたようだ。

 「名前は何て言うの?」

子供達から次々と質問が飛んできた。お母さんの名前は? ガールフレンドの名前は? なぜか人の名前をよく聞いてきた。僕がその名前を言うとみんなが口を揃えて復唱した。ガールフレンドはとの質問には思わずネリーと答えちゃったかも知れない。ま、子供相手だし、いないと言うよりは面白いだろう。

 「ヤヤの名前は何て言うの?」

質問がやや少なかった男の子から聞き慣れない言葉を聞いた。僕がもう一度聞き返すと、一番上の女の子がこれまた流暢な英語で教えてくれた。

 「ヤヤって言うのは、家の中で身の周りの手伝いをしてくれたり勉強を教えてくれたりする人のことよ。」

彼等の説明を聞いていると、家政婦兼ベビーシッター兼家庭教師のような存在の人らしい。いずれにせよこの子達が裕福な家庭の出身であることは間違い無い。その後も彼等は相変わらず浅瀬で遊んでいた。ちょっと深い方で泳ぎたくなったので僕はひとまずその場から離れた。沖に向かって泳いでいると、足首に何かゴムのようなものがからまった。引き外してみれば何とそれはつい今さっき海の中で紛失した水中メガネ。この時既に遠く離れていた子供達の方から声がした。「よかったね!」。やはり彼等は僕を観察していたようだった。

 「Ling Mu、ちょっと上がって来いよ。」

ビルが浜辺から手を振って僕を呼んでいたのでUターンする。ちょうどカルメンと連れのイタリア人のおっさんが帰る支度をしている所だったが、そんな事はどうでもいい。ジョアンから今スタキリに着いたとビルに電話があったらしい。僕はバスタオルを腰に巻き、ビルと一緒に彼女を捜した。しばらくして浜辺からそう遠くはないヤシの木が立ち並ぶ小道からジョアンの姿が現れた。その後ろにはもう一人連れの女の子がいた。とりあえず四人はビーチに戻り、さっきまでカルメンとおしゃべりしていたベンチに腰を下ろした。

 「ビル、Ling Mu、この子は私のいとこなの。いっぱいお話してあげて。」

 「えっ? ああ。よろしく…。」

このジョアンのいとこという子を初めて見た時、男の子かと思ってしまった。短い髪に小太りで、顔はやはりセブに多い曙系。しかも会った時からずっと携帯メールに没頭している。ビルも僕も必要最低限以外の言葉をこの子と交わしたいという気持ちは悪いけど起こらなかった。

 「ところでジョアン、一緒に泳ごうよ。気持ちいいよ。」

ジョアンも何か様子が変。せっかく海に来たというのに誘っても泳ごうとしない。ベンチでいとこの子と並んで携帯メールをやっているだけ。何で泳がないのかと聞けば、海の塩水がお肌に良くないから、プールでしか泳ぎたくないなどと言う。先程ビルとお茶を飲んだ入口のカフェに確かプールの場所を示す立て札があった。このビーチにはプールもあるようだから、ジョアンがそう言うならプールに移動してもいいよと提案したら、今度は陽に焼けたくないからパスしたいとか。これではせっかく女の子が来たと言っても何の意味も無かった。結局彼女達は最後まで水着になることはなく、海を占拠していたのは先程と変わらず僕とビルの二人だけだった。

 「そろそろ肌寒くなってきたし、上がるか。」

 「うん。ジョアンナおばさんの所に行こう。」

僕達は服を着替え、スタキリを出ることにした。楽園の気分は十分味わえたし、彼女達が泳がないならこれ以上いても仕方あるまい、僕もビルも同じ結論であった。

 

 かくしてビーチを後にした四人であったが、一つだけ問題があった。このビーチには客待ちしているタクシーも、道路を流しているタクシーも皆無だったのだ。辛うじてあるのはセブ・シティ市内まで行くジプニーのみ。ここから近いとは言えジョアンナおばさんの所へ行くには、路線が決まっているジプニーではちょっと難しい。しかしこの状況では他に動く方法が無いので、僕達はとりあえずやって来たジプニーに飛び乗った。派手に飾り立てられた表面とは裏腹にちょっと暗くて地味な車内。二つの長椅子が設置され、乗客は向かい合って座る。料金表らしきものはどこにも無いが、現地人は皆相場を知っているようだった。料金は直接運転手に渡すのだが、後方に座る乗客は当然手が届かないので料金を隣の人に渡し、そのまま運転席まで順々に回してもらう。お釣りも同じルートをたどり戻って来る。やはり料金がわかっていないと途中誰かにチョロまかされそう。小型の乗合バスとは言え、ルートは決まっているのだろうが特に停留所は無さそうだ。そのルート上で乗りたければ手を挙げ、降りたければ天井をコン、コンと叩けば車は停まってくれる。距離が極めてアバウトなだけにどんな料金設定をしているのだろう? それを理解しようとするには僕の滞在なんて短か過ぎるのだろう。又、ジプニーを利用する人には低所得層が多く、旅行者が使うには安全ではないと聞く。やはり現地人と一緒の方が無難なのかも知れない。今回たまたま僕達が乗った場所が中心地でなかったため乗客のほとんどは中年女性と老人で、特に危険な雰囲気は無かった。

 「やはりこのまま一旦市内に出よう。ベレンにちょっと電話したいんだが携帯が電池切れだ。」

大きな体を窮屈そうに縮めながらビルが言った。僕もペソを切らしていたので換金もしたいし、ロビンソンに行ってネリーとアポを取らなくては。ジョアンナおばさんの家での夕食にはジョアンも飛び入り参加するとのこと、彼女はコンソラシオン地区を出る前にジプニーを停めた。特に何の挨拶も無くそそくさと降りて行くいとこの後に続いて席を立つジョアンは僕とビルの肩を叩いて言った。

 「じゃ、ビル、Ling Mu、後でちゃんとこっちへ戻ってくるのよ!」

ジョアンはいとこの家から自転車を借りて後からおばさん宅に向かうという。これまで見てきた限り彼女はビルに興味があるみたいで、彼の行く先々によくついて行きたがるようだ。

 「ジョアンって、ビルを気に入っているんだね。」

 「あの子は二十歳だぜ。いくら何でも年が離れ過ぎてる。単なる友達だよ。第一親父は海軍の大佐だ。下手に近付いたら殺される。それに…」

ビルは少し首をかしげながら続けた。

 「これまで交流したフィリピン人の中でも彼女だけはどうもわからない。明るくて話も面白いが、何をしたくて何をしたくないのかがいつもわからないんだ。さっき海にいた時もそうだったろ?」

シャイなネリーに比べると垢抜けた感じのジョアンだが、やはり若いのだろう。二十五歳も年齢差のある欧米人の目からすれば親しくしていても理解に苦しむのは無理も無い。

 

 やがて見覚えのある街並みが目に入り、僕達は天井をノック。降りてすぐの交差点を渡って一路ロビンソンへ。ビルが一階のファーストフード店の公衆電話からベレンママさんに電話をかけている間、僕は二階に上がった。行先は言うまでもない。

 小さな店の片隅でお客さんにヘアバンドを取り出している彼女の後ろ姿が見えた。

 「よう、ネリー!」

 「あっ、Ling Muー!」

お客さんがいなくなった時を見計らって僕が真後ろから声をかけると、彼女は一瞬びっくりした様子を見せ、その後すぐに嬉しそうな笑顔に変わった。

 「元気に働いてるね。」

 「ちょっと声を小さくして…!」

彼女は少し下を向いてチラッと後ろのレジ台の奥を見た。レジ台周辺に立つ二人程の店員の後ろに店長らしき女性が目を光らせていた。フレームの吊り上ったメガネをかけ、いかにも口うるさそうな女って感じだ。僕達は店長に背を向けるように後方陳列棚の前に立ち、ネリーからヘアバンドの説明を受けているフリをして今晩の予定を話した。

 「ミーティングがあるからちょっと遅れるかも知れないけど、プレディアム・スイーツのロビーで8時は?」

 「わかった。ところで隣のテープ屋で買い物するけど、欲しいテープをプレゼントするよ。」

 「ええっ、ほんと?」

 「タガログ語のがいいかい? 何でもいいよ。」

 「じゃあ…、タンギン・ヤマンの歌がいいな。」

僕はネリーの店を離れ、隣のテープ屋に入った。タンギン・ヤマン…。ローマ字の綴りを書いてもらってはいたもの、そんな歌手のテープはどこにも見当たらない。もう一度ネリーの所に戻る。

 「ごめん。それって歌手の名前じゃなくて映画の名前だったのよ。」

彼女が欲しかったのは歌手のアルバムではなく、最近流行った映画のサウンドトラックのようだった。映画のタイトルか人の名前かすらわからないのは外国人であるがゆえ。もう一度テープ屋に入り、念の為店員を一人つかまえて聞いてみるとそれはすぐに見つかった。僕もどんな歌か興味があったので自分の分も買った。早速ネリーにそれを渡すと彼女は店長の視線を気にしながらそれを大事そうにポケットにしまいこんだ。

 「実はプレゼントはそれだけじゃないよ。」 

 「そんな、いっぱい買わなくていいのに。」

 「ボホールのお土産さ。」

 「わぁ、何買ったの?」

 「今は秘密。今晩のお楽しみ!」

 「あ~、早く知りたい!」

そこへビルが迎えに来たので僕はネリーと一旦別れ、ロビンソンを後にした。

 「今夜8時に会うことになったよ! 二人きりでね。」

 「なかなかお似合いのカップルだな。お前達は。」

やっとデートにこぎつけた僕がはしゃいでいるのを見てビルは笑った。

 「だがもしオレなら8時までの間に別の女とデートしてるけどな! ハハハ。」

 

 「おう、兄弟。コンソラスィオ~ン地区まで宜しく!」

タクシーをつかまえるとビルが早速助手席に座った。僕が後部席に座ると車は再びスタキリ・ビーチのあった方向に向けて走り出した。

 「後ろの人は日本人かい?」

運転手は僕の方をチラッと振り返りながらビルに聞いた。

 「ああ。彼は英語しゃべれるから直接聞きなよ。」

ビルはそう言ったが、運転手はやはりビルの方に向かって言った。

 「日本人は戦争で敵だったんじゃないのか?」

 「もうとっくに昔の話だろ。」

ビルがそっけ無くそう答えるとそれ以上会話は続かなかった。歴史的な理由で日本人に悪い印象を抱く人々に出食わすことがアジアではよくあるが、この運転手もその一人なのだろうか。日本人の話をしているのに、僕ではなくあくまでビルとしか言葉を交わさなかった。三年間占領した日本人を横目で見ながら、数十年間占領したアメリカ人に向かってあいつは敵だぞと言うのはやはり独立後まで続いたアメリカ主導の教育ゆえか。苦しいけど儲かる出稼ぎ先、カラオケバーに入り浸るオッサンの団体…。今の日本人に対する彼等の印象もせいぜいその程度と言ってもおかしくない程、一般人レベルまで来ると日本人の存在感が薄いのがちょっと悲しい。 

 

 かくして僕達はコンソラシオン地区のある通りで降り、ビルの先導で路地裏へと入って行く。小さな売店が二、三軒並び、子供達が路上を駆け回って遊んでいる。さすが裕福と言われているだけあってその家は洋風の三階建てだった。一階ではジョアンナおばさんの旦那さんがランニングと短パン姿で竹製の椅子に座り、扇子を仰ぎながらくつろいでいた。

 「やぁ、どうも。奥にお上がりなさい。うちには娘もいるから、友達になってやってくれ。」

旦那さんは椅子に腰掛けたまま僕達に上がるよう促した。その家の父親がいきなり来た来訪者に対し、娘と友達になってやってくれとは、少なくとも日本含め他のアジアの国では考えられない。入口に入るとすぐに細い登り階段があり、そこで靴を脱ぐようになっていた。大きな家ではあるがなぜか階段だけは日本の古い家のように狭くて急だった。豪華な家具が並ぶ二階に上がると中学生ぐらいの女の子が現れ、上の階で食事ができていますとだけ言うとフッといなくなってしまった。更に僕達が三階に上がると、今度は髪を金髪に染めたやはり中学生ぐらいの少年が現れ、食事は屋上のテラスにありますとだけ言ってこれまたすぐにいなくなった。不思議な家だなと思いながらもやっと屋上まで上がると、何とテラスで待っていたのは二、三才ぐらいの小さな子供一人だけであった。確かセブの空港からピックアップしてもらった時、ジョアンナおばさんが抱えていた子供である。

 「マブハイ、アナック(こんにちは、坊や)!」

ビルは何の違和感も感じない様子で子供に軽くタガログ語で声をかけ、そのまま席に着いた。僕はちょっと不思議に感じながらもとりあえずビルの隣に座った。テーブルには大きなボール一杯のビフーンとサラダ、そしてお皿にはグリルチキンが置かれていた。子供はきちんとしつけられているのか、ここで待っていたにもかかわらず食べ物には全く手をつけていなかった。そこへ先程の金髪の少年が現れ、僕とビルの所に小瓶のサンミゲル・ビールを、子供の所にスプライトを一本置いていった。とりあえず乾杯すると子供は早速フォークでビフーンを自分の小皿に盛りつけ、その後できちんとフォークを僕に手渡した。奇妙な静けさの中で子供との会食をしていると、やがてジョアンナおばさんが階段を駆け登ってやって来た。

 「ごめんなさい、今晩突然用事ができちゃってこれから出かけなきゃいけないの。後はジョアンにお願いしたから、ゆっくりしていってね。」

食事に招待されて、その主催者がいなくなるとは何とも想像つかぬ展開であった。何事もアバウトなこの国ならではなのか? ジョアンナおばさんが僕達に挨拶して慌しく階段を下りて行くと、入れ替わりにジョアンが現れた。

 「ハーイ、また会えたね。」

それにしても何でまたジョアンが主催者の代役を?

 「メシは?」

テーブルの横まで歩いて来る彼女にビルはチキンをほおばりながら聞いた。

 「もう食べちゃったわ。」

彼女がそう答えると、五、六人の少年達が後に続いてふらりと屋上に上がって来て、片隅にあるブランコに座った。二階で見かけた女の子や、先程の金髪の少年もいた。

 「この家の子供達よ。挨拶しなさい。」

ジョアンはまるでこの家の住人か、はたまた僕達の保護者かのように彼等を指差して言った。僕が少し席を立ち、十メートル程離れたブランコの方に手を振って挨拶すると、向こう側の長女を思われる女の子だけが手を振って反応した。

 「ほら、向こうに行ってお話してきなさいよ。あなたの好み、いるんじゃない?」

ジョアンはそう言って僕をひじでつついた。まだ食事が済んでいなかったし、冗談好きのジョアンにからかわれている気がしたので、後でと言って引続きサラダを口に入れた。するとその時、ブランコに揺られていた少年達が急に立ち上がり、無言で階段を下りて行ってしまった。

 「ほらぁ、あなたがお話しないからよ。」

ジョアンが軽く僕をこづいて言った。あの子達って、僕が何か話をすると思ってわざわざあのブランコの場所まで来て待ってたの? それで僕が食事中だったらふくれて帰っちゃったって? ジョアンが彼等に変なこと言って上まで呼び出したんじゃないのか? しかしそれにしてもカルチャーギャップの漂う奇妙な家である。大らか過ぎると言ったらいいのか、他人がやって来ても誰も特に警戒しない代わり、客として中に通されてもみんなそれぞれ好きなことをしている。ビルがいるからみんな慣れているのかも知れない。

 「ねぇ、食事終わったら知り合いの事務所が隣にあるんだけど、ちょっと挨拶に行かない?」

ちょうど腹がふくれてきた頃、ジョアンが言った。

 「おう、いいよ。行こう、Ling Mu。」

同様に満腹そうなビルがそう言って席から立ち上がったので、僕もとりあえずついて行くことにした。細い階段をゆっくり下りて玄関まで出ると、ジョアンナおばさんのご主人がまだ竹の椅子に座ってくつろいでいた。

 「お邪魔しました。」

 「やぁ、どうも。気をつけて。」

僕とビル、そしてジョアンが出て行く時も相変わらず椅子に座り、扇子を仰いでいるご主人だった。家の隣にはやや暗い屋根付駐車場のようなスペースがあり、その奥に一ヶ所だけ明かりの灯った部屋があった。階段を上ってその部屋に入ると、中には四、五人の体格のいい男達がテーブルについてコーラを飲んでおり、その周りの小椅子には子供が十人程座っておしゃべりをしていた。

 「こんにちはキャプテン、彼はビル、そして彼はLing Muよ。」

ジョアンはテーブルの一番上座に座る男性に僕達を紹介した。ランニング姿の彼はちょうどエストラダ前大統領をスポーツ刈りにしたようなマッチョな容姿。流暢な英語で席を勧められ、僕達は最寄の椅子に腰を下ろした。テーブルの向かいにはキャプテンと同様体格のいい男が二人ほど座っており、その周囲で子供達はまるで観客のように何も言わずテーブルの大人達を見ている。そしてジョアンもいつの間にかその子供達の中に混じっていた。

 「皆さんは一体何をされてるんですか?」

急に連れて来られたのでよく事情がわからない僕は早速このキャプテンという人に聞いてみた。

 「国の組織ではないんだが、警察のような仕事をしてる。町をパトロールしたり、トラブル発生の処理をしたりする言わば自警団だ。一応俺がキャプテンやってるんで、滞在中もし何かあったら相談してくれ。」

彼はフィラデルフィア留学帰りの英語でそう説明してくれた。まぁ、子供が多いからヤクザの事務所ではないのだろう。その後はビルとキャプテンがほとんどずっと話していた。僕はその中に混じれるような英語力は無かったので黙って聞き手に回っていた。

 「おっと、すまない。何の飲み物も出してなかったな。」

キャプテンは門番のように入口近くの椅子に座る痩せた老人を呼び、お酒を出すよう指示した。老人は氷の入ったコップをテーブルに並べて何やら色のついた酒を注ぎ込み、その後にコーラで薄めた。どちらもほぼ同じ色だったので一見コーラにしか見えなかった。

 「ラム&コークだ。この国で人気のある飲み方さ。」

ちょうどのどが渇いていた上、味も見かけも飲み慣れたコーラとほぼ変わらないのでついビルと一緒にガブガブと飲んでしまった。ラム酒を飲んだのは初めてだったが、やはり強い酒だけあってか後になって体がほてり、思考回路が鈍くなってくる。元々色が白い僕がすっかり真っ赤になった腕をボーッと見ていた時、たまたま腕の時計が7時半を回っていたのを知った。

 「しまった、ビル! そろそろおいとましないと。」

 「おお、そうだった。8時からデートなんだよな!」

サンミゲルなら何杯でもいけるビルもさすがに少し回っていたようだった。とりあえずジョアン、そしてキャプテン達に挨拶して席を立つ。

 「ハハハ、やるじゃんか。がんばれよ!」

自警団達に見送られながら僕達は急いで近くを流していたタクシーを拾い、コンソラシオン地区に別れを告げた。

 

 ビルの泊まる宿、プレディアム・スイーツのロビー。位置的にロビンソンから近いので今晩はここでネリーと待ち合わせることになっていた。時々現れる女の子の姿にハッと顔を上げるが、ネリーではなかった。その度に隣や向かいに座って待つ人が一人、また一人と歓喜の声を上げて席を立つ。そのうちにソファで待つ人は僕一人になってしまった。しかしその直後、入口からふと聞こえてきたあまり流暢でない英語。待ちに待ったあの子の声に間違い無かった。

 「ごめんなさい、遅くなって。」

白いジーンズとベストを身にまとったネリーが少し息を切らしながらそこに立っていた。 

 「さて、今晩は何を食べたい? やっぱりフィリピン料理?」

 「うん、でも何でもいいよ。」

 「どこかおいしい店を知ってる?」

 「こないだ職場の人達と行ったお店がよかったけど、ちょっと高いかな。」

またと無い機会であるし、多少の奮発は構わないと思った。その店はタクシーに乗って5、6分の所にあり、見た目は西洋料理店と全く変わらない雰囲気だった。しかしメニューを開けばそこにはカンコンにルンピア、そしてシニガン等フィリピンの代表的な料理が並んでいた。僕はこの時、初日とても食べ切れなかったデザートのことをふと思い出した。

 「ハロハロ、二人で食べようか。」

 「いいよ。」

ネリーが好きな料理を一品注文した以外は、ほとんど前に食べたことのある料理ばかりを注文した。

 「あなたはどのアイスがいい?」

料理に続いてテーブルに置かれた巨大なハロハロを彼女は二つのグラスに分けてくれた。料理と一緒に来るとはやはり日本の感覚とは違う。それとも後から持って来いと事前に言わなければならなかったのか。まぁ、そんな事はどうでもいい。

「やっと二人になれたね。」

僕達はレモンティーのグラスを合わせた。初日に彼女と出会って以来ずっとこの時を待っていた。お互い英語力には限りがあるのでさほど深い話はしなかったと思う。自分でもこの時何を話したか覚えていない。一つわかっていたのはこの時間がセブ滞在中で最も幸せな時間だったということ。僕達はそこで二時間程過ごし、次にどこに移動しようか相談した。

 「ライブハウスで音楽でも聞こうか?」

 「私、行ったこと無いからそういうお店がどこにあるかわからないの。」

 「じゃ、喫茶店に行っておしゃべりする?」

 「この時間だとちょっと不良っぽい人がいそうだから。」

真面目でデリケートな彼女に何とか安心して楽しい時間を過ごしてもらえないものか。二人でしばらく考えていると彼女は言った。

 「タクシーの運転手さんにどこかいい所無いか聞いてみる。」

彼女はそう言って店の入口に停まるタクシーの所へ行き、タガログ語で話を始めた。僕はその間勘定を済ませてタクシーのいる入口に出ると、彼女は言った。

 「トップスにまた行くのはどう? タクシーが往復で行ってくれるって。」

往復と待ち時間合わせて1,000ペソ(2,300円)だという。現地の金銭感覚が身に付いてきた僕はその金額に少し戸惑ったが、トップスは初めてネリーと話をした、言わば思い出の場所。もう当分機会は無いし、行ってみるとするか。

 

 かくして再び真っ暗な山道を登る。トップスに着いた時は既に夜の11時を回っていたにもかかわらず、この時間でも相変わらずグループやカップルで雰囲気に浸る若者達が少なからずいた。僕達は空いている場所を陣取ってしばらく夜景を眺めていた。

 「ちょっと寒い。」

前回もそうだったが、彼女は寒いのが苦手のようだ。が、あいにく上着の類は僕も持ち合わせていなかった。

 「これを抱えるといいよ。じき暖かくなる。」

皮製のナップザックを彼女に渡した。ボホール島までいくフェリーで寒さを耐え抜いた時の経験から思いついたアイディアだった。

 「僕はいよいよ明日、マニラに戻るよ。」

 「それからどうするの?」

 「香港経由で上海に帰るのさ。」

 「次はいつ来るの?」

 「できることなら来年また来たいな。それまでは手紙のやり取りになるね。」

 「じゃ、上海に帰ったら、こないだの写真と一緒に手紙も送ってね。」

まだ会って日が浅いというのに、後ろ髪引かれるこの思いは何なのか。僕はボホールでネリーに買ったお土産を渡した。一つはメガネザルの小さなぬいぐるみ、もう一つは真珠のネックレスだった。彼女はそれを手に取るや飛び上がらんばかりに喜び、寒くてやや冷えたその手の平で僕の頬をさすった。シャイなネリーができる最大限の愛情表現かな、と思った。

 「あなたって本当にいい人ね。前の人と大違い。」

寒くなってきたので岩のトンネルの方に移動しようとした時、ネリーはふとそう言った。

 「前の人って?」

 「あなたはビルが私に紹介した二人目の友達なのよ。前のチャーリーってアメリカ人はちょっと話しただけだけど、何だか目的あって私に近付いてる感じで怖かった。」

チャーリー? ああ、先日ビルが写真で見せてくれたあのバカ丸出しの白人か。会ったこと無いのでどんな奴か知らないが、仲良しにならないでいてくれて本当によかった。

 その後も僕達はお互いの理解を深めるべく随分長く話をしていた。彼女自身はセブ島の多くの住民と同じセブアノ族だが出身はミンダナオ島であること。高校時代にクラスメイトで好きな人がいたが、付き合い始める前にこちらに来てしまったこと。料理の専門学校を出ており、将来的には料理に関連した仕事をしたいと思っていること。だが兄弟が多く、故郷では家族が仕送りを待っているので今はとりあえず商店で仕事をしていること等々…。

 「ネリー、明日はやっぱり夜しか時間取れないの?」

 「うん、今日私の上司を見たでしょ。あの人すっごく厳しくて、病欠すらなかなか認めてくれないの。」

 「そうか。じゃ、僕が明日の昼頃時間を作って君の所へ挨拶に行くよ。」

彼女は明日も仕事があるので、とりあえずトップスの入口で待つタクシーの所に戻ることにした。

 

 「Ling Mu、着いたよ。」

トップスを出て30分が過ぎただろうか、ネリーの声に反応してハッ気付くと僕は彼女の肩にもたれかかって眠っていた。車窓を振り返るとそこには古い石造りの教会。確か先日ジョアンの運転する車に送ってもらった時、ネリーが降りて行った場所だった。

 「あっ、ごめん! 今日はいろいろ移動したから疲れたみたいだ。」

 「いいのよ。今日は楽しかったわ。」

 「うん、ありがとう。明日帰る前にまた店に寄るよ。」

彼女は微笑みを僕に返すと教会の影に消えて行った。ネリーと二人だけの時間はこれが最初で最後なのか…。充実感とちょっとした寂しさを胸に宿へと戻ったのは夜中の1時半であった。