第十二回 「パゴダの国との奇妙な縁」
          
(ミャンマー編)

Myanmar


ミャンマー旅の期間:2003年1月31日~2月12日 12日間

訪問地:ヤンゴン、バガン、キンプン、バゴー、パテイン



 

六~七日目:お布施?暴利?

 

夜遅いフライトでヤンゴンへと到着した。時間が遅かったからか、空港にはほとんどタクシーがおらず、特に呼び込みに出くわすこともなくゲートを出てしまった。市内へのバスでも出ていないのだろうか、近くには二人の軍人しかいなかった。ボタタウン地区のアラジンっていうゲームセンターへ行きたいんだけど、どうやって行けばいいですか? 僕はN先生のマンションのすぐ近くにある有名な場所を挙げて彼等に聞いてみた。軍人達は機関銃を抱えたまま道路の方まで歩き、たまたま通り過ぎようとしたタクシーを呼び止め、僕の行く先を告げてくれた。銃を構えた人にいきなり呼び止められたタクシーの運転手は一瞬血の気が引いたかも知れないが、親切な軍人さんも中にはいるんだな、と彼等にお礼を言ってタクシーに乗り込んだ僕は、とりあえず無事N先生宅にたどり着いたのだった。

 

 しかし、N・ノーノー夫婦の顔を見て安心するも束の間、寝室に荷物を置いて着替えるや否や、僕はそのままベッドに倒れてしまった。

 ただの疲れだと思っていたが、そう甘くはなかった。体調は数時間で急速に悪化し、その後激しい悪寒と頭痛、そして腹痛が一晩中僕を襲った。体温計は39度を記している。明け方までに何度トイレに行ったかわからない。ほぼ脱水状態であった。バガンではあの炎天下、帽子もかぶらずにずっと自転車で駆け回っていたことから、思い当たるのは熱中症だ。明日はノーノーと東部にあるチャイトーに行く予定であったが、高熱で意識朦朧となっており、とても動ける状況ではなかった。

 

 翌日N先生が貴重な日本のインスタントラーメンを作ってくれたが、体が全く受け付けず、一口も食べることができなかった。抗生物質の薬をもらい、とにかく静養するより他無い、ということで、この一日ずっと寝室で寝込んでいた。もう出るものは何も無いのに幾度となくトイレに駆け込み、今回の旅はこれで終わりかという不安に苛まれながら、ブルブル震えて布団に潜り込むのだった。

 

 

 そんな苦しい一日を耐え、次の朝を迎えた時、僕は何とか普通に歩いたり、話したりできるようになっていた。頭や腹の痛み、そして下痢も治まってきた。食欲はあまり無いが、脂っこいものでなければ少しだけでも食べられるようになった。大丈夫、動けるぞ。僕はそう思い、早速今日キンプンへ出発しようと提案した。N夫妻もすぐに旅行会社に連絡を取り、車をチャーターしてくれた。今回のキンプン行きにはノーノー、そして初日のヤンゴン観光でガイドを勤めてくれたメイさんが同行することになった。

 久々の外の空気を一杯吸い込み、ヤンゴンの街の雑踏を車窓から食い入るように見ていた。正に映画「ビルマの竪琴」で見たような赤い袈裟の僧侶達が列をなして通り過ぎて行く。みんな日照りを避けるためか、大きな木の葉の形をしたうちわを頭上にかざしている。何だか恥ずかしがって顔を隠しているかのようにも見える。ピンクの袈裟を着ているのは尼さん。こちらでは頭を布で覆わず、男性と同じように坊主頭のままで歩いていた。

 それにしてもミャンマーの人って、いろいろな顔をしている。確かに一番多いのはメイさんのようにやや浅黒い東南アジア系の顔立ちであるが、道行く人の十人に一人はインド人と全く同じ容姿をしていた。他にも色白の中国系、ヒゲの濃い中東系等、アジア中のあらゆる人種に酷似した人々がいるのだが、みんなミャンマー人として生きている。容姿はそれぞれ異なるのに、皆自然な様子でロンジーを身にまとい、シャンバッグを肩に提げ、ビルマ語を話しているから不思議。これはマレーシアやシンガポール等他の多民族国家ともどこか違う雰囲気である。さすがは東アジア、東南アジア、南アジアの接点にある国。

 途中車は何やら祠のような所で停車した。運転手が交通安全を祈願するのだという。祠の周囲には、ステンレス製の鉢を抱えた何人かの女性が横一列に並んでいた。鉢の中にはお金が入っているらしく、彼女達はまるで踊りでも踊るかのように一斉にジャラジャラと音を立てながらその鉢を縦横に振っていた。祈願する運転手はその鉢一つ一つに小額の札を入れる。メイさんも車窓から手を伸ばして最寄りの鉢にお金を入れていた。ミャンマーで流通しているお金はほとんど紙幣なのに、なぜ鉢の中からはコインのジャラジャラという音が聞こえてくるのか、なんて疑問はさておき、この鉢にお布施をすると、彼女達が我々に代わって願い事を祈ってくれるのだという。お参り代行サービスといったところか。しかしこのように鉢を抱えた人々は、ここから先の道中何度となく見かけることになる。一方車に乗る人々も願かけが足りなくなってきたと感じると彼等の前に停まってお布施をするので、まるでガソリンスタンドみたいな感覚である。僕はこの鉢を抱えた集団を密かに「お布施スタンド」と呼んでいた。

 

 夕暮れ時、車は遂にミャンマー南東部のモン州に入った。ここにはミャンマーで最初に仏教に帰依したモン族という民族が住んでいるらしい。カタカナ表記は同じだが、タイやラオスの山岳地帯に多く住み、中国ではミャオ(苗)族とも呼ばれているあのモン族とは別だ。その昔、ビルマ族に仏教を伝え、言わばミャンマーの文化や哲学面において多大な影響を与えたと言っても過言ではないモン族。仏教を伝授したはずのビルマ族によって自分達の王国を滅ぼされてしまうという、かわいそうな歴史を抱えているが、滅ぼしたビルマ族も一生に一度は必ず訪れたいと言う仏教の聖地チャイティーヨー・パゴダは、今もここモン州にある。そのパゴダにはゴールデン・ロックという巨大な岩を削って作った仏塔があり、何と今にも落ちそうな崖っぷちにあるのだが、これが絶対落ちないのだという。非常に摩訶不思議な場所として有名な聖地であり、そして観光地なのだ。

 

 かくしてちょうど日も沈んだ頃、山のふもとの町キンプンに到着。僕達の目指すチャイティーヨー・パゴダはこの山の山頂にあるわけだが、今日はもう遅いので、ひとまず近くの安宿に停まることにした。「ダイヤモンド・ゴールデンランド・ゲストハウス」なんて、何とも豪華絢爛な名前の宿であったが、何も無く狭いスペースにパイプベッドが一個置かれているだけの非常に粗末な部屋だった。だが普段外国人はめったに泊まりに来ないのか、宿の主人は思いのほか僕の来訪を喜んでいた。通常なら外国人はUSドルで宿泊費を払わされるか、最低でもそのドル金額に相当するチャットで払わされるのがこの国の常識であるが、ミャンマー人宿泊者と同じレベルの宿代しか請求されなかった。もちろんチャットでだ。ま、外国人が泊まりに来ないのだから、始めから外国人料金というもの自体無かったんだな。

 

 キンプンは市場が並ぶ通り一本だけの小さな町。チャイティーヨー・パゴダを山頂に抱く山のふもとにあるものの、門前町のように栄えてはいない。僕達は軽い食事の後、市場を散策した。漢方薬のような薬を売る店では、店先の蛍光灯の下で小さな子供達が教科書を広げて勉強していた。ジャムを売る店では、甘いものから酸っぱいもの、そして何と辛いものまでいろいろなタイプのジャムを試食させてもらった。しかし日本のようなペースト状ではなく、大きな粒状の実のようなものが瓶詰めになった状態になっており、パンに塗るには適していない。メイさんが二袋ばかり買っていたが、その後で彼女は二つ共お土産です、と言って僕にくれた。正直あまり僕の口には合わなかったのだが、せっかくの好意ということで有難く頂くことにした。

 その後は大きな柳の木の下にあるミャンマー式のオープンカフェで、ラペイエという練乳のたっぷり入ったミャンマー紅茶を飲みながら、ノーノー、そしてメイさんとおしゃべりをした。この時メイさんは一つの提案をした。明日僕達が山を登る時、僕が日本人と見なされると、入場料始め何かにつけて多額の料金を徴収される恐れがある。僕は幸い中国語がわかるので、明日は日本人ではなく中国系ミャンマー人を装ってみてはどうか、という。そんなわけで入山以降僕とメイさんの会話は全て中国語で話そう、ということになった。

 柳の木の下でお茶を飲む僕達、日本ではお化けが出易いぞ、と話したことをきっかけに、怪談話大会が始まってしまった。ホラー映画好きなノーノーもミャンマーの奇怪な話をしてくれた。北部シャン州に住むシャン族は、よそから来た客に対して振舞う食事に不思議な薬を混ぜると言われており、それを口にした客は催眠術にかかったかのように、以降二度と自分の故郷へ帰ろうと思わなくなってしまい、そのままシャン州に居つくのだという。昔シャン州を訪れる人で行方不明者が多発したため、このような伝説が語り継がれているらしい。と、このような話をしばらく楽しんだ後、僕達は早めに寝ることにした。病み上がりでもあるし、この市場近辺でこれといった見る場所も特に無いので。

 

 

 翌日僕達はゲストハウスを出ていよいよ山のふもとへ。さぁ、腕の見せ所だねと、チャーターした車の運転手さんに声をかけようとしたその時、彼の口から思いがけぬ言葉が飛び出した。山には登らないので、自分達で勝手に行けと。僕は耳を疑った。キンプンの見所はすなわち山頂のチャイティーヨー・パゴダであり、ゴールデン・ロックであるから車を手配しているというのに、肝心なその場所なんか行かないよ、とは契約違反もいいところだ。憤慨するメイさんの通訳を聞く限り、今日もらった代金はキンプンまでで、山の上まで行くとは言ってない、だからもし山に登りたければ自分等で早く行け、日が暮れたら更に超過料金を取るぞ、などとふてぶてしくのたまった。男の裏切りに腹を立てた僕達三人、これ以上もめてもラチがあかないので、ひとまず男はこの場に放っておいて、他の登山方法を見つけることにした。

 登山口に一台の軽トラックが停まっており、その荷台に人々が乗り込んでいた。どうやらこれが山頂行きの定期バスってことらしい。僕達も乗り込んでみると、荷台には人が腰掛けられるような板がいくつか設置してあり、数分もしないうちに大勢の人でどんどん埋まっていった。車が出発した時にはすし詰め状態。腰掛けの板があまりに低いのでほとんど体育座りに近い体勢で身動き一つ取れない中、約40分間険しい山道に揺られることになった。急カーブの連続で何度も振り落とされそうになるぐらい揺らされ、景色を楽しむ余裕なんて全く無く、正に難行苦行の参道であった。

 これはヤンゴンに戻った後、ノーノーがN先生に当時の状況を話し、先生に改めて事の詳細を教えてもらってから知ったことなのだが、あの運転手が山を登ることを拒否したのは契約違反でも、意地悪でもなかったらしい。この険しい山道を登るには相当の技術が必要で、外来者が簡単に登れるものではなく、ヘタに登ろうものなら却って他の車の邪魔になるため、ヤンゴンでチャーターする車は普通チャイトーの町までしか行かないのだそうだ。僕はメイさんの通訳を通してしか話を聞けなかったので、運転手の言い草に少し腹を立てたメイさんがやや感情を込めて訳してしまったのかも知れない。

 

 ともあれ、やっとのことでトラックは山頂手前の終着点に到着。そこから先は徒歩で上がり、遂にチャイティーヨー・パゴダに到着した。そこは平坦な広いスペースに白いタイルが敷き詰められており、入場料を払うと、券と一緒に一枚の小さな金箔をもらった。参拝者が謎の岩、ゴールデン・ロックの表面に貼り付けるためのものである。で、そのゴールデン・ロックはというと、入口に入って左手の崖の方に小さなゲートがあり、そのゲートを抜けて岩肌に取り付けられた階段を少し降りると、絶壁から飛び出た崖のギリギリの所に佇んでいる。この岩に触れることができるのは男性のみということで、僕はメイさんの分の金箔も預かり、ゲートをくぐった。

 さすが山の絶壁。吹き付ける風は強く、ミャンマーに来て初めて肌寒さを感じた。崖っぷちから今にも落ちそうなその岩は、古来より信心深い人々によって金箔が貼り付けられているため、全体が黄金に輝いて見えた。これは聖なる岩であると同時に仏塔なので、岩の上部はちょうど頭から角が生えているかのように塔がそびえている。岩と地面の間の隙間には割り箸のようなものがつっかえ棒のようにはめ込まれており、地元民が身をかがめて拝む姿が見られる。テレビでは以前、この隙間のある部分を押すと、岩がグラグラと動く様子を見たことがあったが、同じことをしてみても岩はビクともしなかった。とりあえず自分とメイさんの分の金箔を表面に貼り付けようとしたのだが、何せこの強風。ほとんど貼ることもできずに、遥か山の彼方まで吹き飛ばされてしまったかも知れない。

 日本にいた時もこの岩を写真で見たことはあった。一緒に見た友人は、自分が生きている間には必ず落ちるんじゃないか、と言っていた。日本のように地震が頻繁にある国ではないから衝撃が少ないのかも知れないが、それにしても古くから伝説となっているぐらい、長い間このままの姿でいることがやはり神秘としか言いようがない。伝説によると仏塔の部分に釈迦の頭髪が納められており、これが常にバランスを保つ奇跡を起こしているのだと、人々は信じている。不思議ついでに、この岩は全ての部分が金箔で塗りたくられているが、外側に面している部分は誰がどうやって金箔をつけたのだろう、というのも疑問であった。成人男性がぶら下がって貼ったのであれば、岩は間違いなくその人もろとも落下すると思うのだが・・・。

 

 参拝を終えた僕達はバスの発着場までの長い階段を降りることにした。この階段、所々の踊り場に何やら仏像が祭られ、そこには決まって男が一人か二人座っており、通る人にお布施を求めてくる。外国人の僕や、クリスチャンのノーノーは特に気にすることもなく素通りするのだが、敬虔な上座部仏教徒であるメイさんは、踊り場に来るごとに財布から小銭を取り出し、深々と仏像に頭を下げて拝み始める。しかし発着場までは結構距離もあり、そこまでの階段の踊り場なんて何箇所あるかわからないほど沢山あるのに、メイさんはその一つ一つにお布施をしているのだ。お布施を受け取るオヤジ達は僧侶というわけではなく、鼻歌まじりに金の枚数を数えている。段々メイさんの姿が痛々しくなってきて、もうそこまでやらなくていいんじゃない? と、何度か止めようとしたのだが、それでも彼女は断固としてお布施をし続けるのだった。

 ともあれ僕達はトラックの発着場にたどり着き、帰りは比較的早いペースでふもとまで戻った。少なくともこの時点では「裏切り者」ととらえていたあの憎たらしい運転手と合流し、車はキンプンを後にする。僕達はヤンゴンに戻る途中、モン州の隣町バゴーに立ち寄った。

 

 この町はミャンマー仏教発祥の地とも言われ、数々の巨大な寺院や仏像で有名な観光スポットでもある。釈迦が実際ここを訪れたという伝説もあるらしい。ここまでやって来るとなれば、途中で他のミャンマーの都市を沢山通過しないとならないはずだが、他の町で釈迦が訪れたという伝説はなぜか無いようだ。メインストリートで車を降りると、その先にはお城のように貫禄のある巨大なパゴダが佇んでいた。門両脇の狛犬だけでも圧倒されるような大きさで、ヤンゴンのシュエダゴン・パゴダに引けを取らないスケールだ。嬉々として中に入ろうとしたその時だった。

 入口に座っていた係員がいきなり席を立ち、僕にだけ入場料を請求してきた。しかも米ドルで10ドルだなどと言う。ただパゴダを見学するだけなのに、10ドルは取り過ぎじゃないか? 僕達は反論したものの、係員はガンとして首を縦に振らない。まぁ、バゴーでパゴダはここだけじゃないし、ひとまずここはあきらめて、他のパゴダに行くか。僕達はこの場を離れ、寝釈迦像で有名なもう一つのパゴダへと向かった。そこは比較的静かな場所にあり、ゆっくり見ようと思って静かに靴を脱いだ。しかし足を踏み入れてから十を数える間も無く、係員がすっ飛んできて、またしても僕にだけ入場料を請求してきた。ここでも金額はやはり10ドルだった。この人はビジネスでミャンマーに来た中国人で、帰国する前にお寺に立ち寄っただけだ、とメイさんが懸命に説明をしてくれたが、ムダ骨であった。ほんとにそうであるならば、中国のパスポートと政府発行の商業許可書を提示しろ、とまで言ってくる。僕はさすがに頭に来て、もういい、バゴーなんて二度と来るもんか、と足早にパゴダを去り、さっさと車に乗り込んだ。こんな出来事が重なったことにより、僕の中で印象悪い町として認定されてしまったバゴー。この後昼食ぐらい摂ったものの、結局この町での滞在時間はわずか30分程度であった。

 来世への功徳を積むため、ミャンマーではお布施に重要な価値が置かれていることはわかっている。しかしそれをいいことに一部の人間が、いいように金を巻き上げているケースも多いのではないかとも感じた。お金を取るべき所を間違えているとしか言いようがない。通常なら、例えばヤンゴンからキンプンまでの道路や交通網を整備し、もちろん山だって軽トラの荷台ではなくそれなりのマイクロバスを定期運行させる等の基礎を構築した上で、これらサービスに対して一定の料金を徴収するというのなら話はわかる。しかしこうしたインフラを整備せずに、特定の「山道」や「パゴダ」に張り込んで、やって来る者から料金を徴収するのは、軍閥の発想である。自分の支配している地域でちょっとだけ道路や建物を作り、そこに足を踏み入れた者に対して通行料や入場料を請求するやり方だ。基礎的なインフラを整備する予算が無いのか、初めからその気も無いのかは知らないが、お布施の習慣をタテに、観光客や参拝者の行く先々で、一部の人間による集金活動はこれからも活発化していくのかも知れない。一方でインフラが相変わらずないがしろにされるようであれば、いくら人々が親切であっても、旅行者にはますます旅行しにくい国になっていくのではないか。そんな懸念を胸に、とりあえずヤンゴンへと戻った。