第七回 「卒業旅行報告」
(インドネシア・ラオス編)
Indonesia
Laos
インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間
訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ
ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間
訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン
インドネシア報告
五日目 タナ・トラジャ
翌朝、昨日と同じ車が宿の前にやって来た。
「おはよう! どこでも案内するから今日は楽しんでくれ!」
運転手は昨日と同じ。ガイドはヘンリック本人であった。夕べの憂鬱をさっさと取り払った僕は元気を出して車に乗り込んだ。今日のBGMはクロンチョンの優雅な調べ。これを得意とするインドネシア歌謡界の大御所、ヘティ・クース・エンダンの張りのある美声と共に出発だ。
この周辺は山地なので道はもちろん平らではないが、どこへ行ってもきちんと道路は舗装されており、ふと日本の田舎道を走っているような気分になる。プップー、バギューン、バギューン、ピコーン、ピコーン・・・と、ちょっと目立ち過ぎるクラクションに前方の車が皆道を開ける。彼等は追い越される時、一体どこの何者が中にいるのだろうというような顔でこちらを覗きこむので何だか恥ずかしくなる。中国でもたまに要人を先導するパトカーがこんな音を出すが、ちょっと過剰サービスに感じた。
車窓に映るのは相変わらず田畑や竹林、それほど高くもない霧に包まれた山々。道沿いには昨日のトンコナン・ハウスではなかったが高床式の民家が並び、人々が農作業に従事している。畑の脇道では子供達が裸足のままで駆け回り、何もせずに家の前でボーッとしている人もチラホラ見かける。人々にはやはり東南アジア的な人懐っこさがあり、大きな壷を頭に乗せた母ちゃん達や、庭先でギターを弾いている女の子達も、こちらが手を振ると屈託無い笑顔で手を振り返してくれる。ヒッチハイクだろうか、たまに人差し指を一本掲げて道端に立つ地元の人を見かける。一方で時々見かけるバスからは車掌が窓の外に身をのり出し、あと何人乗れるかを指の数で道行く人々に知らせている。女の子がいたら指を一本出そうか、とヘンリックは陽気にジョークを飛ばしていた。田畑の真ん中に突如現れる青く大きな溜池、そして船のようなトンコナン・ハウスが水面に映っている。こんな風景を時々カメラに収めていると、突然後ろの方から「コンニチハ」と日本語が聞こえた。振り向くとそこには麦わら帽子をかぶった休憩中の老いた農民。自分の写真を撮ってくれとせがんでいた。この地も戦時中は日本軍が占領していたので、老人の中にはコンニチハとかアリガトウといった簡単な日本語を知っている人もたまにいるらしい。
やがて車はトンコナン・ハウスが並ぶ村にやって来た。かの有名なトラジャ・コーヒーのマークにもデザインされているが、この独特の形にはやはり民族のルーツと関係があるらしい。元々彼等は中国南部にいた海洋民。この地に定着して農耕を始めた後も海洋民としてのアイデンティティを忘れないがためにこのような船型の民家を作ったのだそうだ。家の前には水牛の角が何本か飾られており、角が多い家程有力者であるとか。家自体は木造、屋根はバナナの葉。使われている配色は黒、赤、白の三色。黒は肉体、赤は血、そして白は魂を意味するのだという。軒下に大きくて奇妙な仮面や、タウタウ等が無造作に置かれた一軒の家に入ってみると、そこは骨董屋兼民芸品工房となっており、この日はおばあさんが一人はた織りをしていた。アパカガル(元気)? 景気はどう? などと簡単なインドネシア語の単語を混ぜて世間話を楽しみながら周囲の工芸品を物色。気に入った物を少しずつ値切っていく。百年前に儀式で使われたという民族文様の布、そして祭りで使う黒いお面。共に素朴なお土産を手にして満足顔の僕は次の見所へと出発した。
山と田畑が続く牧歌的風景には、ハワイアンのようなクロンチョンの調べがよく似合う。
「天国みたいな雰囲気だ。気持ちよくて眠くなっちゃうぜ!」
ヘンリックも助手席の背もたれをリクライニングしながら説明を続ける。すると途中曲の雰囲気が変わり、イスラム色のやや濃い音楽に変わった。別に対したことではなかったが、僕は単に英語のわからない運転手ともコミュニケーションを図りたくてカタコトのインドネシア語で話しかけた。
「イニ、ティダッ、クロンチョン (これ、クロンチョンじゃないね)。」
すると運転手はすぐにテープをもとのA面に裏返して再びクロンチョンの曲に戻し、「クロンチョン、バグース(クロンチョン、いいね)!」と笑う。以降、彼はB面のあのイスラム風の曲にさしかかるとすぐにA面に裏返すのだった。彼は僕がその曲が嫌なのだと思って気を遣ってくれているのだろう。そういう意味ではなかったのだけど、まあいいか。
次にやって来たのはタンパガロ洞窟。表の岩肌にはやはりタウタウが並んで僕達を迎える。ヘンリックはその暗く狭い洞窟をカンテラランプ一つで案内する。洞窟の至る所にきれいな模様が掘り込まれた宝箱のような赤や黒の大きな木箱が置かれていた。その中にはフタの空いているものもあり、古い衣類や装飾品らしきものが詰め込まれていた。ここはかつて墓地として使われ、これらの箱は故人の遺品のようだ。しかし棺桶らしき物は見当たらない。それもそのはず、箱の周囲をよく見ると、そこら中に白骨が転がっていたのだ。突然これを見たら何とグロテスクな場所かと思ってしまうだろうが、死者を何よりも尊重するトラジャの伝統的価値観からすれば遺骨もまた服や首飾りと同じ遺品の一つに過ぎないのだ。洞窟を出て再び道路に出ると、十字架の立つ稲荷神社ぐらいの祠を見かけた。祠の中にはスーツを着た男性がややうつむき加減で足を組みながら椅子に座っていた。しかしこれ、よく見ると本物そっくりの人形だったのだ。多分マネキンだと思うが、かつての習慣が一部裕福な人の間でまだ続けられているらしい。現代のタウタウってわけだ。
雑木林の中にいきなり現れた、とりわけやぐらの高いトンコナン・ハウス。その四方を先端の尖った巨大な石柱が取り囲む。あまり大きな石を見かけないこの土地にしては珍しい風景だ。ここは昔の貴族が葬儀を行った場所で、石柱には生贄の水牛がくくりつけられたのだという。皮肉なことにこれら石柱はタナ・トラジャからずっと離れた場所から水牛を使って運び込まれたのだそうだ。
石柱の家を見終わって再び車に乗り込んだ時、ヘンリックがふざけ半分に外に向かってバスの車掌がやるように人差し指を掲げると、近くを歩いていた女子学生が駆け寄って来た。
「案外、使えるだろ? この手。」
ヘンリックは僕の方を向いてニッと笑い、BGMをクロンチョンから若者が好きそうなニッキー・アストリアのスローロックに切り替えた。学生服を着て布製のショルダーバッグを肩にかけた女の子は僕の座る後ろのドアを開けて乗り込んで来た。天真爛漫な雰囲気のかわいい子だったが、残念ながら彼女に続いてボーイフレンドも一緒に乗り込んで来た。午後の授業に行くので途中にある学校まで行きたいらしい。笑顔を絶やさずカタコトの英語を話す彼女はトラジャ族、無口な彼氏はブギス族だそうだ。何歳か、とか、学校は楽しいか、といった他愛の無い会話だったとは言え、ガイド以外の地元民、しかも女の子と談笑ができて何か胸の弾む一時を過ごせた気がした。
森を抜けるといきなり強い日差し。周囲のヤシの葉や小川の水面が鏡のように反射してまぶしい。そんな風景が印象的なある農村にさしかかった時、ヘンリックがふと言った。
「よかったら、この土地の地酒を試してみないか? この村に知り合いの家があるんだ。」
僕は正直酒が飲める方ではないのだが、通常の名所巡りとは少し違った趣を感じて行ってみることにした。その家は二階建ての高床式民家で、車が停まると家の中から子供が五人も飛び出して来た。皆色黒だが目が大きくてかわいい子供ばかり。中国にいる仲の良い友達に少し似ている子、前回インドで対面を果たしたスクリティにそっくりな子・・・。彼等に誘導されて木の階段を昇ると、一人の老人がベッドの上に座ってラジオの短波放送を聞いていた。ヘンリックがまず挨拶を交わし僕を紹介。老人は立ち上がって両手で握手を求め、丁重に歓迎してくれた。この子供達の父親なのだから老人と言っては失礼かも知れない。するとそこへ美人の女の子が一人、コップを持って上がって来た。年は僕と同じ位のようだ。今は畑に行っているらしいが、彼女より一つ上の長男がもう一人おり、この家には合わせて七人の子供がいるのだという。始めに見たチビ達がこのじいさんの子供だなんて当初信じられなかったが、年の離れた兄弟が上に二人いたということで納得がいった。さてさて、長女の女の子から手渡されたやや白く濁ったこのお酒はトゥアックと呼ばれ、米から作られたどぶろくの一種のようだった。飲んでみると味はまるで甘酒のようで、酒ド素人の僕でも口当たりは悪くなく、ぐいっと飲み干してしまった。後で少し暑くなってきたのだが、元々日焼けで顔は真っ赤だったので、鏡で見た自分の顔の赤さが酒のせいなのかさえもわからなかった。この時ヘンリックが現地語で長女の女の子に何か言うと、女の子は嬉しそうに頷いて階段を駆け降りて行った。僕は老人にお礼を言って子供達と一緒に写真を撮り、下に降りようとした。すると車の前では、先程の長女の女の子がきれいな服に着替え、石柱の家で出会った学生と同じような布製の肩掛けカバンを下げて待っていた。
「ランテパオに行くからよければ遊びに行かないかと言ったんだ。Ling Muもこの子とお茶でもすればいい。」
ヘンリックはそう言った。隣の席に座った女の子もニコニコ顔。ちょっと強引だけど、ヘンリックって結構いい奴じゃないか。さぁ、元気よく出発! と、思ったその時だった。畑の方から長男と思われる若い男が現れ、車を呼び止めた。彼は引き外さんばかりの勢いで車のドアを開け、彼女の手をつかんで引っぱり出した。そして彼女の肩掛けカバンを地面に叩きつけるとすごい剣幕で怒鳴りつけた。一体何が起こったのかさっぱりわからずヘンリックに聞くが、彼は何でもないと言うだけ。
「何でもなくはないだろう。どうしたの? 僕が何か問題でも?」
「君は何も関係無い。大丈夫だから。」
車のエンジンがかかった。男は軒下からクワを取り出すとそのまま畑へと引き返して行った。父親が一線を引いた今、一家の稼ぎ頭はあの長男と彼女の二人。そんな中、畑仕事をせずに一人町へ遊びに行こうとした妹に兄が腹を立てたらしい。家の前に一人とり残された彼女。唇を噛みしめながら下を向き、叩きつけられて汚れたカバンをずっと見つめるその姿に優しい言葉をかけてあげたかった。たとえ言葉が通じなくても。その気持ちは結局伝わることもなく、車は遠ざかっていく。
昨日と少し似た洋風の庭園のあるレストランで昼食。ヘンリックは昨日のダネルとは違い、支払は別々でいこうと事前に断った上で一緒にテーブルに着いた。お蔭で今日は竹筒に入った紫色のインディカ米が印象的なトラジャ料理も気楽に冗談を交わしながらつまむことができた。最初の出会いは何とも強引でイメージ悪い彼だったが、共に行動してみると実は気配り上手で人を楽しませることがうまい人だと思うようになった。
最後はバンブー・ミュージックと呼ばれるこの土地独特の竹管(?)楽器を使った伝統音楽を鑑賞。と言っても別に音楽ホールがあるわけではなく、特に決められた開演時間があるわけでも無く、農家の庭先のような場所で、観光客が訪れ次第随時行われる。今回唯一の観客である僕一人に対しプラスチック製の小椅子が一つ用意され、演奏会が始まった。曲を全体的にリードする横笛を操る大人一人を除けば演奏していたのは全員子供。中には小学校に上がったばかりらしい子もいたが、全員手に手に竹でできた笛やトロンボーンのような楽器を持ち、高音と低音のハーモニーを効かせた演奏を披露してくれた。曲は終始ブラスバンドによるマーチのような明るい調子。途中から民族衣装を身にまとった三人の女の子が現れ、太鼓に合わせて踊り始める。頭にバンダナのようなものを巻き、カラフルな飾りを衣装一杯にぶら下げたその出で立ちは北米インディアンのようでもあった。槍と盾を持って現れたチビ達が踊るのは戦士の舞。少し離れた所から二人が向い合って立ち、互いに駆け寄って持っている槍と盾をコン、コンと合わせる動作を太鼓に合わせて繰り返すだけという何とも素朴な踊りが微笑ましい。終了後、子供達は自分達の生演奏テープを持って来て売り込み始めた。空のテープの表面に彼等の生写真を貼り付けただけのものであったが、市販されているポップスのテープ三個分の値段であった。この場所で演奏した音をそのままテープレコーダーで録音しただけのようで音質は良くない。しかし所々で聞こえる鳥の鳴き声や、曲の合間に子供がふざけて自分の楽器から発する意味の無い音なども聞こえ、その手作り感覚がかえって気に入った。演奏後僕が太鼓のばちを取り、日本の祭り太鼓風にトン、トン、カララと遊んでみせると、今までキチンと整列していた豆演奏家達が早速集まって来て、我も我もと僕の叩き方を真似し始める様子がいかにも子供らしくて、音楽以上に心が和む一時であった。
心地よいクロンチョンのメロディにも少し飽きてきた頃、タナ・トラジャ散策の旅は無事終了した。「テリマカシ(ありがとう)」、「サマサマ(どういたしまして)」。運転手とヘンリックにインドネシア語でひとまずお礼を言ってランテパオのゲストハウスに戻ると、そこにはペトルスがいた。
「Ling Mu、お帰り。悪いが今晩だけうちと提携しているホテルで一泊してくれない?」
彼の言うトルシナ・ホテルはランテパオ中心部からやや離れた高原地帯にあり、当然僕が泊まっていた宿よりも高いようだったが、何と今回同じ料金で泊まれるらしい。これは思ってもみない展開、早速場所を移動してみると、そこは山に囲まれ、空気のきれいなコテージ風のホテル。案内された部屋には外と通じるドアがあり、いちいちフロントを通る必要無く自由に出入りができる。ペトルスとヘンリックから今晩打ち上げでもやろうと、夕食、そしてカラオケに誘われた。僕はそれまでの間、誰もいない大きなプールであお向けになり、青々とした山に溶ける赤い夕日を見ていた。
夜。プップー、ピコーン、ピコーンとあの奇妙な音を響かせながらこの二日間世話になったランドローバーが現れた。中にはペトルス、ヘンリックそして明日ウジュンパンダンまで同行するヤコブスがいた。後で気付いたのだが、ペトルスが連れていたオランダ人のカップルもこのホテルに宿泊しており、今晩一緒の車で打ち上げに合流。実はスアヤの山以外でもペトルスとこのカップルとは所々で鉢合わせており、その度に二人は僕に「ハーイ」と挨拶してくれていたのでちょっとした顔見知りになっていた。いくつもの都市を経由して貴重な休暇を二、三日つぶしながらもやっとの思いでこの国にたどり着き、まずはバリを周ってからここにやって来たという病院勤めの二人とお気に入りのミー・ゴレン(焼きそば)をつまみながらしばらく歓談。やがてヘンリックの号令でカラオケが始まる。待ってましたとばかりにトップバッターを務めるはあの生真面目なペトルス。画面を前に直立不動になってインドネシア語の歌謡曲を熱唱していた。オランダの二人は、ヨーロッパではカラオケを使って皆で歌を楽しむという習慣が無いということで残念ながら終始聞き手に徹していたが、代わる代わるマイクを取るペトルス達の姿を尊敬の眼差しで見つめながら興味津々のようだった。店の主人まで輪に加わり、情熱的なスローロックを歌い上げる。気遣いのつもりか、隣に座るヤコブスが僕の耳元で一フレーズずつ歌の意味を英語で説明していたが、純粋に歌を楽しんでいる僕にとってはちょっとありがた迷惑であった。さあ、Ling Muも何か歌ってくれ。やがてマイクが僕の所にも回って来た。唯一歌えるインドネシア語の歌、「ジャンガン・ピサカン」がメニューには見当たらなかったので、無難に英語の歌でも歌うかと一番後ろのページをめくった所、ふと「スキヤキ」というタイトルが目に入る。これって確か「上を向いて歩こう」の英語カバーじゃないか。画面に出て来た歌詞は英語であったが、うる覚えの日本語歌詞を思い出しながら一曲披露した。元々この歌を聞いていた世代ではないので辛うじて一番を歌える程度だった僕は結局同じ歌詞を三回繰り返して歌ったが、日本語を知らない周囲の人々には関係無い。意外にもこれが非常に盛り上がってしまった。
「画面の歌詞はとても悲しい内容なのに曲調は明るくていい歌だった」とオランダ人カップルも絶賛してくれた。調子に乗ってラストはペトルス、ヘンリック、ヤコブス、そして店の主人と即席ユニットを組んで「マイ・ウェイ」を合唱。この島に来た当初感じていた憂鬱が完全に吹っ飛ばされた瞬間だった。
「いやいや、どうもお疲れ!」
うまくラストを飾れた僕達はまるで健闘を称え合うかのように何度も握手を交わす。この時店の主人はおどけた調子で腰を90度曲げてお辞儀する真似をしていた。どうやら僕が彼と握手した時、無意識にちょっと会釈したのが滑稽に見えたらしい。お辞儀ってやはり変わった習慣なのか。
店の近所に住むガイド達とはひとまずこの場で別れ、オランダ人二人と一緒にホテルに戻った。
「じゃあね。次に会えるのはきっとテレビの歌番組でかしら。」
「今のうちに握手しておこう。」
ホテル着後、そんな二人の見送りに少し照れながら例の「特別な扉」から直接自室に入る。コーヒー、死者、カラオケ・・・。何の関連性も無いアイテムが凝縮されたトラジャの印象が最終日の夢でコマ送り。涼しくなった夜の高原のどこかから響く虫の声が最後のBGMであった。