第一回 「炎天下!ソ連の秘境」
(ウズベキスタン・タジキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン編)
Uzbekistan
Tajikistan
Kazakhstan
Turkmenistan
ウズベキスタン旅の期間:1988年8月5日~11日 6日間
訪問地:タシケント、サマルカンド、シャフリサブズ、ブハラ、
ウルゲンチ、ヒワ、フェルガナ、コーカンド
タジキスタン旅の期間:1988年8月12日~13日 2日間
訪問地:ペンジケント、ドゥシャンベ
カザフスタン旅の期間:1988年8月14日 1日
訪問地:アルマアタ
トルクメニスタン旅の期間:1988年8月15日~16日 2日間
訪問地:マリ、アシハバード
トルクメン:砂漠の遺跡に興奮
僕達はホテルに帰って夕食を摂り、夜10時50分アルマアタの空港に向かった。行く先は最後の訪問国トルクメン共和国の首都、アシハバードである。
空港には他のツアーの日本人が大勢いた。違うコースだが、僕達と同じ旅行社のツアー参加者がいた。シベリア観光からここにやって来て、今夜コーカサスに向かい、その後でモスクワ、レニングラードを回るそうだ。Nツーリスト社のツアーで来た人達は、先日ヒワで行動を共にしたN旅行社のツアーと同様、ロシア語がペラペラの日本人添乗員と、日本語がペラペラのロシア系と朝鮮系のガイドが同行していた。N旅行社の人達は確かウルゲンチに行くと言っていたからここにはいなかった。同じツアー以外の日本人に出会って話していると何とも表現しにくい喜びが湧いてきた。場所が場所だからかも知れない。
カザフ共和国はたった一日の滞在だったせいか、一日のうちに沢山の場所を回ったので、その一日がやけに長かったような気がした。
午前1時半。機内の電灯が消えたので、僕は眠った。約1時間後、突然機内の電灯が一斉に照らされて目を覚ます。鳴り響くカリンカと共に太ったスチュワーデスが食事を持ってやって来た。こんな夜中に食事も何もないものだ。僕はチャイを一杯飲んでまた眠った。
午前4時頃アシハバードに到着。僕等は目をこすりながら飛行機を降りた。その後のことだった。バスでホテル・アシハバードへ向かう途中、またしても予定変更が起こった。今日はアシハバード市内観光の予定だったが、本来その後のはずだったメルブの遺跡を先に見に向かうという。メルブの遺跡はトルクメン共和国観光の最大のメインスポットで、アシハバードから少し離れたマリという町にある。これからホテルで数時間眠り、朝食後すぐに飛行機でマリに向かうのである。僕等はもう疲れきっていた。
朝7時、僕達はアントノフでマリへ。空港に着陸した時、窓から僕の目に入ったのは、数十機もの黒いミグ戦闘機。空港の周辺はほとんど人のいない「地の果て」だが、ソ連はそんな「地の果て」に軍事基地を置くのが好きなようである。飛行機を降りた瞬間、僕はものすごい爆音を聞いた。二機のミグが飛び立ったのだ。今までにこれほど全身に響くほどの音を聞いたことがあっただろうか。空港を出てバスに乗るまで、僕は周りの音が何も聞こえなかった。
半砂漠地帯の一直線の道路をつっ走るバス。あちこちに小さな村々がある。道路脇を民族衣装の女性達が歩いている。ここの民族衣装はウズベクのものに似ているが、模様はウズベクのものよりやや地味で、スカートの丈も長い。
途中レストランに立ち寄った。ここのご飯は油っこくて食べづらく、無数の蝿がブンブン飛び回っていてうっとうしかったが、レモンジュースだけは最高だった。中央アジアは乾燥しているから、すぐにのどが渇くためだろう。
広大なカラクム砂漠の一郭にそびえ立つ日干しレンガの建築跡が見えてきた。いよいよメルブの遺跡に着いたのだ。
土でできた住居跡はかなり崩れていたが、形らしい物は残っていた。この地はその昔、今のイランにあたるパルチア王国の領土だった。当時の王が自分の娘のために作った城が、このメルブである。500年続いたパルチア王国もやがて滅び、新しく建てられたササン朝ペルシャがこの城を引き続き使用したが、そのペルシャもやがてアラブのサラセン帝国に滅ぼされ、城はイスラム教徒の手に渡る。時は立ち14世紀、この地はチムール帝国の一部となった。大王チムールの息子シャー・ルフは、このメルブの城を自分の要塞とした。つまりメルブは、この地域の歴史上に登場するすべての王朝と関わりを持ってきたのだ。
この遺跡はとても大規模なもので、城、住宅、回教寺院、廟等の跡が砂漠一帯に広がっている。話によると一時期この地に仏教が広まっていた時代があり、この遺跡の中には仏教寺院跡も残っているということだったが、それにはお目にかかれなかった。
僕は生まれて初めて見た古代遺跡に大感激。思わず他の人達と離れてはしゃいでしまい、建物跡に少しばかり残っていた階段によじ登って、上から見たその絶景を片っ端からカメラに収めていた。
遺跡の中に割と新しそうな丸屋根の大きな建物があった。イスラム教が広まった後のものだろう。この建物はサンジャルという王の廟だった。この廟は床から天井まで36メートルあるという。天井の方には鳥が巣を作っていて、壁にはコーランの言葉が所々に書かれていた。真ん中に棺があり、その隣には井戸の跡があった。王は城内の脱出場所として至る所に井戸を掘った。すべての井戸が地下でつながっていたそうだ。この井戸掘り工事にあたっては、多くの労働者達が作業に携わったが、当時の人々にとってはこの工事はあまりにも重労働だったため、彼等の平均寿命は僅か30歳だった。井戸のそばには賽銭箱にあたる洗面器が置いてあり、中には沢山のカペイカが入っていた。誰が入れたのか、10円玉も一緒に混じっていた。
廟を出ると、そこにもまた井戸の跡があった。井戸のそばにスコップが突きささっている所を見るとつい最近になって掘り出されたものだ。話を聞くとやはり1カ月前から発掘を継続中だという。この辺りには古代の陶器の破片があちこちに散らばっていた。いろいろな物があり、いくつか土産に持ち帰ることができた。Nさんは破片ではなく陶器本体を見つけた。もっとも持ち帰るには無理があったが。
青い大空と対照的な土色の遺跡。だが残念なことにこの素晴らしい遺跡は砂漠の風化のため、あと数年で消えてしまうという研究者の報告もあり、政府は手のほどこしようもないということだった。恐らくもう二度と見ることはないメルブの遺跡に最後の別れを告げ、僕達は再びアシハバードに戻った。
ホテルでの夕食後、僕は父よりも早く食べ終わったので、先に鍵を持って部屋に戻ろうとしたのだが、部屋の鍵穴に差し込んだ鍵が回らない。これには本当に困った。もちろん体当たり位で開くドアではない。ドアと格闘して約10分後、右手の方からウズベク人の男がやって来た。彼は僕に何か声をかけてきたので、僕は鍵を指差し、手でバツの字を作ると、彼はその鍵をガチャガチャと回し始め、今まで開かなかったドアをすんなりと開けてしまった。だが彼は開けてくれたのではなく、開けるコツを教えようとしているようだった。そしてこうすれば開くということを手振りで教えてくれた彼は、またドアを閉めて鍵をかけ、その鍵を僕に手渡した。僕はとりあえず「スパシーバ」と御礼を言うと、彼は自分の胸に手をあて「ラフマット、ラフマット」と言っていなくなった。「ラフマット」とは、ウズベク語で「ありがとう」ということだ。礼を言うなら「スパシーバ」ではなくて、「ラフマット」と言ってほしかったのかも知れない。これでもう大丈夫だと思い、彼の教えてくれた通りにやってみたが、教わったはずのコツがイマイチ呑み込めず、やっぱり開かないのだ。またドアとの格闘が始まった。やけくそになっても扉はビクともしない。再び路頭に迷っていると、今度は右手の方からロシア人の男がやって来た。彼は僕が困っている所に立ち止まると突然鍵をひったくり、鍵穴に差し込むと瞬く間にドアをこじ開け、礼を言う間も無くいなくなってしまった。彼は先程のウズベク人と違って非常にぶっきらぼうだったが、あの時僕のそばを通り過ぎずに立ち止まってくれたことが、とてもありがたかった。
これから明日の朝までフリータイム。この時間がまた、いい。この時間が唯一旅の疲れを癒せる時間だ。お湯が出ないので冷水だけのシャワーを浴び、さっぱりした後でベランダに出た。ホテルの窓の向こうにはイランが見える。町の向こうにそびえる山々はイラン領なのだ。僕はイランの文通友達のことを思い出す。5月に手紙を出して以来、全く返事が来ていないが一体どうしたのだろう。イラクとの戦争は激化しているのだろうか、それとも停戦したのだろうか。
夜、もうすぐ日本に帰れると、父は嬉しそうだった。だが僕としてはもう少しいたいような気もしないではなかった。とはいうもの、確かに寝る頃になると父の気持ちも何となくわかってきた。今日の部屋に常備された布団がバスタオル一枚ときたのだから。
翌日、僕達は郊外にあるアナウとニッサの二つの遺跡を見に行く前に、軽くアシハバードの市内観光に出発した。レーニン公園にあるレーニン像は中央アジアで最も古く建てられたものだそうだ。奥の方に行くと、おなじみ「永遠の火」が灯った戦争記念碑。その向こうにはトルクメン共和国政府が見える。この公園はとても緑が多く、心地良いそよ風が吹いていて、昨日見た猛暑の砂漠と同じ国とは思えなかった。
トルクメン共和国は他の中央アジアの共和国と違い、国内におけるトルクメン人の人口比率がかなり高いせいか、彼等は非常に民族の誇りを大事にしている。旅行ベテランのKさんはこのレーニン公園にいた民族衣装姿のトルクメン人女性達にまたいつものように話しかけ、一緒に写真に写っていた。Kさんは記念がてら彼女等に日本の10円玉を渡そうとしたが、その時今までにこやかだった彼女等は突然ものすごい剣幕で怒り出した。ウズベク人は喜んで受け取っていたからKさんも今回そのようにしたのだと思うが、彼等は物をただでもらうということに対して強い抵抗感があるようだった。Kさんのこの旅行初めての失敗だったようだ。
僕達は再び砂漠地帯に入り、アナウの遺跡に辿り着いた。この遺跡はメルブよりもはるかに小さなもので、建物跡が一つか二つ残っていただけ。遺跡の近くに妙なものがあった。大木が立っており、その枝に色とりどりのハンカチがいっぱい結びつけてある。ちょうど日本の神社の木におみくじを結びつける習慣にそっくりだった。以前にテレビで同じソ連のアジア地域にあるアルメニア共和国のことが放送されていて、教会の前の大木にハンカチを結んで祈る習慣が取り上げられていた。ここにもそれと同じ風習があるとは知らなかったが、シルクロードを通って日本に渡って来たと考えれば、トルクメンを通過した可能性はある。
僕達はアナウの遺跡を出て、ニッサの遺跡に向かう途中にある民族料理店で昼食を摂った。トルクメン料理とはどんなものか少し期待していたが、この辺りの料理はどこも同じ。油っこいスープや羊の肉ばかりだった。
食べ終わって店を出た時、父がカメラを出すと、前髪を揃えて恰幅のいい香港俳優のサモ・ハンそっくりな店員がやって来て、そのカメラを自分に写させてくれという手振りをした。そして彼は自分の仲間の写真を撮ると、この辺りは軍事基地が多く、写真を撮っている所を兵士や警察に見られるとすぐさまフィルムを抜かれるので気を付けろと話していた。もっともこれはウラさんの通訳である。
店を少し離れ、僕は一人木陰に座って休んでいた。すると後ろから僕に声をかける人がいた。振り向くとそこには僕と同い年位のトルクメン人の少年が立っていた。僕は日本語で「やあ」と答えると、彼は僕の近くに座った。そうだ、せっかくだから何かあげよう、と思い、僕はウエストポーチをさぐった。この辺の人達は恐らく海を見たことが無いだろうと思い、家からきれいな貝殻を持って来ていた。その中で一番大きく、珍しい形をしたものを彼に手渡した。彼はそれを珍しそうに眺めると、僕の方を向いてニコッと笑った。僕は前のフェルガナの時と同じようにガムを一枚あげた。すると彼は、それはいらないと言うようにガムを僕に返した。やはりこれもトルクメン人の民族性だろうか。僕と彼はお互い照れ隠しに笑った。向こうの方で彼の友達が呼んでいたようで、彼はいなくなった。僕もバスに戻った。あの時ガムを二枚出し、一枚を彼にあげて、もう一枚を僕が食べれば、彼も一緒に食べてくれたかも知れない。今あのことを思い起こせば本当に苦笑したくなる思い出である。
その後僕達はニッサの遺跡にやって来た。この遺跡はわりと大きいものだった。かつてアレクサンダー大王軍がこの地を占領したため、ギリシャの影響を受けたものが多かった。王宮跡やブドウ酒の貯蔵庫の跡等があった。予定通りに動けばアナウもニッサも楽しめたのだが、メルブを先に見てしまったために昨日の興奮も今日は湧き起こらなかった。
これからホテルに戻る。女の人達は帰る途中にバザールを見つけると、すぐさまバスを降りて駆け出して行った。本当に元気な人達だ。
ホテルに着くと、先程バザールに行った人達は僕達ツアー仲間を呼んでパーティーを開いた。ここのハミウリはいつ食べてもおいしかったが、僕は未成年ということでその後のお酒パーティーには参加しなかった。僕は自分の部屋に戻り、人通りの少なくなった夕焼け空のアシハバードを窓から目に焼きつけていた。
長い旅だったが、とうとう帰国まであと二日と迫った。僕達はもう一度タシケントへ行き、ハバロフスク経由で新潟に戻る。連日快晴だった中央アジアも、そろそろ天気が下り坂になってきた。アシハバードを立ち、久々にタシケント空港に降りた時、空はどんよりと曇っていた。
僕達は最後の買い物をするために市内のベリョースカに向かった。ベリョースカでの買い物は非常に面倒だ。何せ一つの物を買うのに、三回並ぶのである。まず商品が並んでいる所に行く。客が来ても店員は大抵店先に出て来てくれないので、奥からたまたま出て来た所を見計らって呼び止め、ショーケースごしに欲しい品物を指差す。すると店員は木琴のように大きなそろばんを使って何やら計算を始め、商品名と値段を書いた伝票をくれる。しかしこの時店員を待っている人は他にもいるため、伝票をもらうだけで行列ができてしまう。それを受け取った後、今度はレジに行って並ぶ。こちらの店員はワープロのように大きな計算機で金額を計算する。器用な店員は買い手の国の言葉で値段を言ってくれたりもする。僕達は言われた金額を支払って、伝票に支払済のハンコをもらう。最後にその伝票を持ってもう一度商品のある所に行って並ぶ。そこで初めて商品が自分の物になるわけだ。これでは一つの物を買うだけで日が暮れてしまう。僕はこの作業を二回行い、やっとのことでトルコ風の短剣とチャイの急須を買うことができた。
ホテルに戻って荷物をまとめた僕達は、時間が来たのでエレベーターで一階に降りた。まだYさんが来ていなかったので、皆テレビを見ていたり、ベリョースカを覗いたりしてバラバラに散っていた。僕はロビーのソファーに座ってくつろいでいると、少し離れた所のソファーに日本人の大学生らしき人が座っていて、こちらをじっと見ていた。するとその人は僕に「日本人?」と声をかけてきた。「はい」と僕が答えると、「よかったあ!」と嬉しそうに言った。僕はまた別の日本人ツアーの人かとばかり思っていたが、何とこの人、独学でロシア語を学んで一人でソ連一周旅行をしているのだそうだ。ハバロフスクからシベリア鉄道でモスクワへ行き、レニングラード、キエフ、そしてタシケントに来たという。話を聞いて胸が躍った。僕もいつかこの人のように世界の様々な国を一人で旅してみたいと思った。モスクワで少し寂しくなり、日本人と話をしたくなった際、街中で見かけた東洋人旅行者の中で女の人は明らかに日本人だとわかったのだが、なかなか話しかけられず、では男の人にと思って話しかけたらモンゴル人だった等で、旅行中日本人とは誰とも話す機会が無かったという。今さっき、ここで「日本人?」と聞いたその一言が、旅行中初めて口にした日本語だそうだ。だから喜んでいたのだ。僕はまだ話していたかったが、同じツアーの人達がホテルを出始めたので、僕はまた空港で会いましょうと言ってその人と別れた。
僕達のツアーは空港に向かった。飛行機が来るまで待合室で待っていた。ウォークマンを聞こうとすると、友人から借りたヘッドホンが壊れていたのに気が付いた。友人に対しては非常に悪いことをしてしまったが、あまりのハードスケジュールに荷物も絶えられなかったことを物語っているかのように思えた。
やがて別の日本人ツアーの人達もやって来た。ちょうど中央アジアを旅行していた全日本人がここに集結したのである。僕達18人、N旅行社、Nツーリスト、そしてもう一人。そう、先程ロビーで出会った大学生の人だ。この人も僕達と一緒に日本へ帰るのだ。僕はしばらくこの人と話に花を咲かせていた。
「モスクワってどんな所ですか?」
僕が聞いてみると、ここ最近のゴルバチョフ書記長によるペレストロイカ(改革)で、大分変わったそうだ。最近は民営食堂も現れ、サービス満点だという。僕達の訪れた場所にはそんな食堂は存在しなかった。この人もモスクワ、キエフを回って中央アジアに来たため、ソ連ヨーロッパ地域とのあまりの違いに驚いたそうだ。僕はソ連の各共和国間に先進国と発展途上国との差が明らかに存在するのを感じた。残念ながらこの人とは乗る飛行機は同じでありながら、席は別々になっていた。今ハバロフスクは雨が降っているそうだ。もし霧が深くなり、飛行機が着陸できなくなった時はウラジオストックに不時着し、船で日本に帰るなどという噂もあった。
機内で一泊し、翌朝ハバロフスクに無事到着した。いつかのエアポート・バス、と言うかトレーラーみたいな奇妙な乗り物に乗り込んだ時、先程の一人旅の大学生に再会し、おはようございます、と挨拶を交わした。が、残念ながらこの人に会ったのはこれが最後だった。バスを降りると、皆バラバラに別れてしまい、彼とはそれっきり会っていない。住所と名前ぐらい教えてもらいたかったし、もう少し話していたかったのに残念でたまらなかった。
僕達はインツーリスト・ホテルに向かった。ホテルの中は日本人だらけ。エレベーター等で出会えば、「日本人ですか?」を挨拶代わりに誰とでも気軽に話のできる雰囲気があった。ちょうど山中で出合って気軽に声をかけ合う登山者同士のような仲間意識にも似ていた。
その晩僕達のツアー16人が集合し、さよならパーティーを行った。翌朝、僕達はお世話になったウラさんに別れを告げ、午後から空港へ。いよいよ日本へ帰る日が来た。Nツーリストの人達はすでにホテルを立っていた。N旅行社の人達は人数を多く募集し過ぎたため、参加者のうち六名が飛行機に乗ることができず、一週間ここハバロフスクに留まることになってしまったそうだ。
一方僕達のツアーも40分以上空港で待たされていた。ひょっとしてN旅行社と同じ運命を辿るのかと一瞬ヒヤっとした僕達であったが、やがて新潟行きのゲートが開かれホッと一息。
最後の税関でまた質問責めにあった。カセットテープを持っているかと聞かれ、正直に持っていると言うと相手はなぜか怪しんで、僕一人呼び止められてしまった。他の人達はもう飛行機に乗っている。僕は早く飛行機に乗りたい気持ちと、捕まってしまうのではないかという怖さから大慌てで弁解した。一時はどうなるかと思ったが、やっとのことでその場から脱出できた。そしてパスポートの検査。「コンニチハ」。初日と同じ無表情の審査官だった。彼は僕のパスポートを開き、ホッチキスでとまっていたソ連のビザを引き剥がした。これで僕のパスポートからはソ連入国の証拠そのものが消えてしまった。
僕がステップを上がったのを最後に閉じられた飛行機の出入口。そして遂に日本に向けて飛び立った。今思い起こせば、この15日間は短そうで長かった。その一日一日に刻み込まれた楽しかった思い出や、辛かった思い出、そして珍しい体験等が頭の中を駆けめぐった。
やがて飛行機は新潟に着陸した。ロシア人スチュワーデスの「サヨウナラ」という日本語の挨拶に送られ、僕達は祖国の地を踏んだ。毎日行動を共にし、時にはいろいろと僕を気使って下さったツアーの皆様にお礼を言って別れた。帰りの新幹線、僕は父と今回の旅行のことを思い出しては笑っていた。一つ辛かったのは、帰国しても腹下りがしばらく続き、治るまで実に一週間かかったこと。お蔭で僕は出発前から4キロ痩せてしまった。僕のやつれた姿を見て母はついて行かなくてよかったと言っていた。
テレビではイラン・イラク戦争の停戦やパキスタンのハク大統領の暗殺等が報道されていた。そう言えば旅行中全くニュースも新聞も見ていなかったのだ。嬉しいことにイランの友人からの手紙が届いていた。そうだ、彼にも今回の旅のことを話しておこう。
全体の感想。ホテルの設備等はひどく、食事も食べ慣れないものが多かったし、旅行会社とインツーリストとの連携があまり取れていなかったため、予定変更ばかりで僕自身体調を崩してしまったが、その代わりに素晴らしい景色や遺跡を沢山見、古代文化に僅かながら接することができた。やはりソ連の秘境という言葉が似合う。そこには厳しく官僚的と言われる社会主義政権の下、素朴な人々が昔の伝統を堅く守り続けていた。今回、訪れた中央アジアの共和国は四カ国。同じ中央アジアに位置するキルギス共和国や、カラカルパク自治共和国を見られなかったのは非常に残念である。いつか必ず、これらの国々も訪れたい。初めての海外旅行だったので何かと失敗も多く、同行した方々にも迷惑をかけてしまったが、最初にこのような厳しい旅を選んだわけだし、次回の旅行では今回の反省を生かしてうまくやっていきたいと思う。