第十二回 「パゴダの国との奇妙な縁」
(ミャンマー編)
Myanmar
ミャンマー旅の期間:2003年1月31日~2月12日 12日間
訪問地:ヤンゴン、バガン、キンプン、バゴー、パテイン
八~九日目:ヤンゴン・スケッチ
ちょっと複雑な気持ちでキンプン、バゴーから戻ってきたものの、体の調子は大分回復してきた。今日の午前中はノーノーの案内で、街の中心スーレー・パゴダの近くにある、W日本語学校第二校舎の授業を見学に行ってみることにした。
校舎の入口をくぐると、ノーノーは受付の女性と親しげに挨拶を交わし、おしゃべりで盛り上がり始めた。実はノーノーもこの学校の元事務員だったので、かつての同僚というわけだ。本日、校舎には二人の日本人女性の先生がおり、そのうちK先生の授業を見学させてもらうことになった。教室の生徒は大体30名ぐらいだろうか。一つの長い机に三、四人が並んで座っており、半分以上を女子生徒が占めていた。僕も生徒達の席に一緒に座らせてもらう。授業が始まる少し前の一時、お隣同士がお互い勉強を教え合っていた。僕の隣にいた男子生徒は突然の日本人の到来をラッキーと思ったのか、宿題を教えてもらおうとテキスト片手にあれこれと質問してきた。
そうこうしているうちにやがて授業開始。まずはK先生が読むテキストの例文を大きな声で復唱する。続いて漢字をいくつか習い、ビデオ教材を見ながら命令形・禁止形の文法を学んでいた。漢字の勉強の時に「国歌」という熟語が例として挙げられたのだが、その時K先生は急に「日本の国歌の最初の部分を歌ってみて下さい」といきなり僕に振ってきたものだからびっくり。まさかミャンマーに来て「君が代」をワンフレーズ歌うことになるとは思わなかった。
生徒達は真剣に先生の話を聞いていたが、彼等は皆ノートを縦にして、下から上に縦方向に文章を書いていた。これは昨年教壇に立ったことのあるカンボジアの中学でもよく見られた書き方であった。僕は当初、古代インドのパーリ文字があまりに難解であったために、その流れを汲む今の東南アジア各国の文字も同様に書きづらく、やむなく人々はこのようなスタイルで書いているのかなぁ、なんて難しく考えていたが、単純に一つの机に何人もの生徒がギュウギュウ詰めに座っているから、ノートを横に広げて書くことができず、知らず知らずに今のような書き方に慣れてしまったことが原因らしい。
授業が終わると生徒達はぞろぞろと教室から出て行った。その時、僕のいた席の前一列に座っていた女の子四人が美人揃いだったので、思わず呼び止めてちょっとだけ話をした。このクラスは全体的に初級だったので、ごく簡単な日本語の会話しかできなかったが、街中でもあまり見かけないような彼女等のファッションに別人種を見たような気がした。きっと裕福な家庭の出身なのだろう。
「お昼ご飯を食べに行きましょう。お店の名前はね、『くつした亭』って言います。」
W日本語学校を後にした僕とノーノーは、近場にある日本料理店でお昼を食べることにした。しかし靴下なんてずいぶんおかしな店名だな、と思っていたら、本当の名前は『串かつ亭』であった。そんなノーノーのかわいい間違いをケラケラ笑いながら、小さな店内で単身がんばる日本人調理師特製のカツカレー定食に舌鼓を打ったのだった。
一旦N宅に戻ると、またしても停電・断水に見舞われた。どうしようも無いので夕方までは何もせずにゆっくりのんびり過ごした。夕食を済ませた頃にノーノーのイトコだという男性が遊びに来たので、ノーノーを交えてちょっとおしゃべりをした。時間が経つにつれ、話している相手の顔が薄暗くなってきて、段々見えづらくなってきた時、電気のありがたさを実感する。日本ではまずありえない体験だった。外も涼しくなってきたことだから、また外に出ようと、ノーノー。僕は彼女とイトコ氏と一緒に夕方のヤンゴンを散策した。この時、僕は一回挑戦してみたいことがあった。それは周りのミャンマー人と同じように、ロンジーを着けて町歩きすることであった。
路上を埋め尽くす市場。野菜と果物、魚介類の生々しい匂いと、貫禄のあるドスの利いた売り子の声に包まれた空間。しかもこれらの声の主は何と皆女性。ガニマタでどしんとかまえ、葉巻を吹かしながら笑顔一つ見せず、客と対等に交渉に励んでいる。木の切り株のようなまな板を敷いてその場で魚をさばく者。プップーという妙な音のする風船を売り歩く者。僕は路地の片隅の露店で、コーンヤーというあの噛みたばこを買ってみた。売り子は恐らく台湾のビンロウと思われる木の実と、漢方薬のような薬剤をたばこの葉でくるんでいた。口に入れるとまずは激しい苦さを感じ、唇や舌がしびれてくる。しばらくクチャクチャ噛んでいると、次第に唾が口一杯に溜まってきて、しゃべることができなくなる。そう言えば先日バガンで会った鍛冶屋のお父さんは、口をモゴモゴさせながらしゃべりにくそうだった。今やっと彼と同じ状態になって理解できた。唾が溜まったら、とにかく吐き出すこと。普通のミャンマー人のように路上で豪快にペーッ!とは吐けないので、道の隅っこにある排水溝を見つけ、口をゆすぐように静かに吐き出した。その唾は正に赤い色をしていた。変色した自分の唾に驚いただけでなく、心臓がバクバクという激しい音を立てている感覚を覚えた。ミャンマー人はこれを体に良いものと思って噛んでいるが、僕はもうこの体験で十分だと思った。
コーンヤーの口直しにジュースでも買って飲み、散策を続けた。腰にロンジー、肩にシャンバッグというミャンマースタイル、周りから外国人だと思われないのが一番気持ちいい。途中外国人目当ての客引きのような男が現れたが、僕ではなく、ジーンズ姿のノーノーを外国人だと思って何やら言い寄っていた。しかしこのロンジー、筒状の布を前で軽く結んでいるだけなので、ちょっと歩いていると時々ほどけて落ちそうになる。地元民はほどけそうになる度に、歩きながらでも瞬間的にそれを結び直すのだが、僕はそんな器用にはいかない。うまく結べなくて戸惑う様子を見て、イトコ氏は露骨に腹を抱えて笑う。おいおい、人生でまだ一回しか着けたことないんだぜ。きっと箸をスプーンのように握って悪戦苦闘する欧米人を見て日本人が滑稽に感じるのと同じように、ミャンマー人にはこれがおかしいのだろう。でもそのすぐ後に結び方を親切に教えてくれたので、何とかその後はズリ落ちずに済んだのだった。イトコ氏を含め、多くの地元民はこのロンジーのおしりの方に財布をねじりこんでいたが、さすがにそこまでやる勇気は無かった。
きれいにライトアップされたスーレー・パゴダに入る。初日に訪れたシュエダゴン・パゴダと同様、生まれた曜日ごとに参拝する場所が別々になっていた。僕は初日のヤンゴン散策の後、N先生のパソコンを借りてネットで調べてみた。結果木曜日の生まれであることを知ったので、木曜日の参拝口に早速立ってみた。人々は仏像と木曜日の干支(?) であるネズミの像に水をかけて祈っていた。ノーノーと同様クリスチャンであるイトコ氏、これまた親切にもミャンマースタイルの参拝方法を教えてくれた。かつてマレーシアやインドでも人々が異教に対して寛容な様子が見受けられた。しかしそれはかつて経験した激しい民族・宗教対立を克服するための個人レベルでの努力という印象も感じられた。しかしミャンマーで民族間や宗教間の対立というのもほとんど聞いた事無いし、これだけ寛容なのは何だろう。
一行はそのままチャイナタウンへ。夜市が広がり、様々な露店や屋台が軒を連ねる。日本では見たことの無い手榴弾のような形をした果物等が並ぶ露店でグアバを買うノーノー。売り子は顔をノーノーの方に向けて話しながら器用にグアバの皮をむき、細かく刻むとビニール袋の中に入れ、上からトマトソースのようなものをかけた。ピザ味の梨を食べているような奇妙な食感であった。露店に混じっていきなり現れるブランドショップや高級な食品店。これらの店にはロンジー姿では入りにくい雰囲気があった。そう言えば夜のヤンゴンって、ズボン姿の人も結構目立つ。街中で流れる音楽は完全にヒップホップが中心である。ビルマ語って少し英語っぽい発音があるのでラップは意外と合ってるかも。
最後はこの街の至る所に点在する路上カフェで練乳一杯の紅茶、ラペイエを楽しむ。低いテーブルと椅子に腰掛け、ノーノーとは日本語、イトコ氏とは英語で最近のヤンゴンの変貌について語り合った。湿気が強いながらも涼しい風が心地よいヤンゴンの夜であった。