第七回 「卒業旅行報告」
         
(インドネシア・ラオス編)

Indonesia

Laos


インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間

訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ

 

ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間

訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン



インドネシア報告



七日目:ジョグジャ

 翌朝、僕は英語ガイドのハティと一緒に観光に出発。前半は王宮を中心としたジョグジャ市内を、後半は郊外にある世界遺産ボロブドゥール仏教遺跡を周る予定。今日のBGMはスローロック界のクイーンでありながら惜しくも今年交通事故でこの世を去った美人歌手ニケ・アルディラの情熱的なバラード。数多いインドネシアの歌手の中で個人的には最もお気に入りである。

 「ニケの死は残念だが、これからロック界をしょって立つのはクラ・プロジェクトだよ!」

ハティはそう言って地元ジョグジャ出身のロックバンドを賞賛していた。しばらくこんな具合にインドネシア音楽談義をしていたが、王宮が近付くと、彼は突然何と日本語を話し始めた。

 「私は英語ガイドで、日本語ガイドの免許は持っていません。でも将来免許を取るために日本語を勉強しています。本当はいけないのですが、今回練習のために日本語でガイドさせてもらって宜しいですか?」

思わぬ日本語にビックリ。この数日独り言以外日本語を話さなかったので逆にこちらの返事の方がぎこちない日本語であった。ともあれ何だか得したような気分で僕は快く承諾した。

 

 これから向かう王宮には、何と現役の王様がそこに住んでいるらしい。すっかりおなじみとなった一万ルピア札の肖像として描かれている人物、ハメンクブウォノ10世がその人。とは言えこの国が共和国として独立していることは周知の事実なのに、なぜ王様が? かつてオランダ領になる前、ジャワは王国だった。オランダ領になった後も名目上の王としてその存在は守られていたが、戦後日本軍の撤退後に再びインドネシアを支配しようと侵攻してきたオランダに対し、スカルノ達と共に独立運動を戦ったのが先代のハメンクブウォノ9世であった。そのため独立後も王様はそのまま国民の尊敬を集めつつ、文化の象徴という立場で今も存続しているとのことだ。文化の象徴とは言え政界から手を引いたわけではなく、スハルト軍政の与党ゴルカルの党員として現在はジョグジャカルタ州の州知事も務めている。一族支配、武力弾圧、腐敗と停滞をインチキ選挙で支えてきた悪名高い翼賛政党ゴルカルだが、その中でも例外的に王様だけは純粋に多くの人から支持されているそうだ。

 

その王宮は決して巨大な大宮殿というわけではなく、広い敷地内にオランダ風、イスラム風、南国風等様々な様式の建物が立ち並ぶ優雅な空間であった。王室のマークの入った緑色のシールを胸に貼られて入口をくぐり、ガムランと呼ばれるジャワ伝統音楽の幻想的な調べに誘われるがままに足を進めていく。ある一郭で大きなドラを木琴のように連ねた楽器の静かな、しかし力強く自己主張するかのような演奏が行われていた。僕は催眠術にかかったかのようにそこから動けなくなった。去年天皇夫妻もここを訪れ、やはりこの演奏にずっと聞き入っていたそうだが、誰でも引き込んでしまうような完成度の高い音楽文化を感じさせられた。ここで聞くのももちろん風情あっていいが、もっと音響の整った場所でじっくり聞いてみたいな、とも思った。演奏しているのは腰に短剣を差した王の家来。今はそれぞれ本職があり、「ボランティア家来」だそうだが、全盛期の誇りは今も健在のようだった。結局僕はその演奏を最後まで聞いてしまった。高音や低音の調和する不思議なドラの響き、日本の沖縄音楽に極めて近い独特の音階がしばらく耳から離れなかった。

 

ガムランの響きを堪能した後、僕は王宮の建物を見て回った。白い鳩が飛び交うのを目で追いながらふとある建物の屋根を見ると、それが日本の家にそっくり。黒い瓦の三角屋根に木製の柱、そして白い壁・・・。釘が使われていない柱と柱の複雑な組み方も日本建築に近い。ハティによるとこの建物は純粋なジャワ建築なのだというから驚き。そこで思い返してみると、先程のガムランの音階は沖縄音楽によく似ていた。この国の人々は温厚で、曖昧さを好み、本音と建前を持つ。何とも日本にそっくりであるように思えてならないのはなぜか。海のルートを通して沖縄等と過去につながりがあったのだろうか。この国に来てから少しは不愉快なこともあったが、全体的には居心地の良ささえ感じるのだ。

 

王宮内には独立の歴史を紹介する展示館があった。歴代王家の写真の中にはハーレムのように美女に囲まれた王もいる。何とその王は十人もの奥さんがいたという。

 「イスラムでは四人までだって? イスラムは関係無いよ。王様だから十人いたのさ。全く、クレイジーだよね。あっ、クレイジーって日本語で何て言うの?」

 「どうかしてますねって感じかな?」

ハティはユーモアを交えながら日本語と英語で解説してくれた。王族の歴史に続き、戦後再侵攻してきたオランダとの戦争に関する展示に入った。ここでは初代大統領となったスカルノ、そして副大統領ハッタが主役を務める。彼等の率いるインドネシア国民党はとにかく国をまとめるために「多様性の中の統一」だの、「パンチャシラ民主主義」だの、「ESKOM」だの様々なスローガンを考え出し、内政的にはあらゆる政治勢力を受け入れ、外交的には非同盟諸国のリーダー格を担った。こうしてみると比較的リベラルな路線であったと言えるが、時代が悪かった。ソ連と対立を深め、ベトナムとラオスに親ソ政権が樹立されたことで板ばさみとなっていた中国。彼等は近隣に親中政権を立てて対抗すべくカンボジアのクメール・ルージュやフィリピンの新人民軍等を支援するが、中でも頼りにしていたのは東南アジア最大の党員数を誇るインドネシア共産党であった。共産党は当時どの政治勢力にも寛容だったスカルノ政権に近付く。その影響力はいつしか最高潮に達し、やがて連立政権に参画するまでに至った。そして1965年9月30日、共産党は遂に武力による政権奪取を実行すべく蜂起。しかしこのタイミングを見逃さなかったのはアメリカだった。ベトナムを中心にドミノ共産化論がささやかれた東南アジアにおいて、東側とも友好関係を持つこの大国に対し何よりも神経を尖らせていたのだ。共産勢力に対抗するためなら民主主義など二の次。カンボジアにロン・ノル、フィリピンにマルコス、タイにサリットを送りこんだように、アメリカは反共的な軍人スハルト将軍を支援した。その結果親中派のクーデターは失敗。危機を招いた責任を問われスカルノも失脚し、スハルト軍政は始まった。彼の下で共産党は大弾圧を受け、間も無く消滅。この共産党はバックに中国がいた関係で、この国の華人が今尚肩身狭いのは当時の事件の名残でもある。事件から既に30年が過ぎたがスハルト政権は今も健在。ジャカルタ市内にはスハルト大統領、そして副大統領ストリスノ将軍の肖像画が溢れており、軍部中心の独裁ぶりに変わり映えは無さそう。民主化面でタイやフィリピンに先を越された今、冷戦の化石は世界遺産と共に当分この国に居座るのか。ハティ含め地元民は相変わらずニコニコしながら曖昧な返事をするのみである。

 

 古きジャワの香り漂うジョグジャ市内を離れ、一路巨大仏教遺跡ボロブドゥールへ。スラウェシと同様周囲を山に囲まれた平地に負いかぶさるように森が広がっており、その一郭にこれら森を切り開いて作られたと思われる整備の行き届いた公園がある。車を降り、公園の直線通路に沿ってしばらく歩いて行くと木々の間からタマネギ型をした石造りの大きな塔が顔を覗かせた。更に歩いて行くとそのタマネギの下にいくつものミニチュア版の塔が密集しているのが見えてくる。やがて全体像が見えてくる距離まで近付くと、それは高さ35メートルの巨大なピラミッド型の形をしており、最初に見えた大きなタマネギがただの先端部分に過ぎなかったことを改めて認識する。塔と塔の間には石仏の入った祠が点在し、壁という壁にはブッダに関わる説話がレリーフとして彫り込まれている。インドネシア広しと言えどここにしか存在しないこの大仏教遺跡は、八世紀頃この地に栄えたシャイレンドラ王朝によって僧院として建設されたもの。この王朝は後にインドネシア全土からマレー半島、フィリピンそして台湾南部にまで広がるシューリービジャヤ帝国へと発展するのだが、初期の段階の歴史は詳しくわかっていない。大帝国になるまでの過程でこの地では度重なる戦乱そして火山の噴火等自然災害も起こり、遂に王は住民達を引き連れ、再びこの地に戻ることを誓って他の島へと移って行った。以後この巨大僧院は近代まで忘れ去られていく。しかし時は経って18世紀、偶然にもこの地の農民が畑からかつての王族の装飾品を発見したことをきっかけに宗主国オランダが中心になり発掘を開始。歴史の闇に埋もれていた僧院跡は、このジャングルで数百年の眠りから蘇った。その後オランダは遺跡保護に力を入れるもの、突如この地を襲った地震により倒壊。戦後独立したインドネシア政府が代わって遺跡の再復興に着手し、現在見られるような姿を復元するまでに至った。ところが災難はそれ以降も続き、イスラム原理主義を掲げる武装組織ムジャヒディン・フィサビラによる八十年代の爆弾テロ事件により、またしても大きなダメージを受ける。ピラミッド各段に並ぶ釣鐘状の仏塔の中にはそれぞれ石仏が納められているが、一部仏塔が破壊され、中の仏像が剥き出しになっているものもいくつか見られた。

 「こんな破壊活動をする人間はイスラム教徒全体のほんの微々たる者に過ぎない。僕を含め大多数のイスラム教徒は他宗教の人もリスペクトして共存している。事件を起こした連中はほとんどのイスラム教徒からも軽蔑されていること、それだけは信じてほしい。」

各スポットでユーモア一杯に解説してくれたハティだが、この場だけは真剣にそう熱弁した。この国では様々な宗教が信仰されているもの、大多数はイスラム教徒。次いでキリスト教徒やヒンズー教徒が一定勢力を持ち、仏教徒は最も少数派。しかもそのほとんどは近代になってやって来た華人で、この遺跡との関連性は無い。たまには彼等華人によって祭りが行われるそうだが、現在では仏教施設としての機能はほぼ失っている。地元民には観光収入の基盤、もしくは歴史建築の一つとしてしか価値を見出せていない所が先程の王宮に比べ少し物寂しく、巨大な博物館の展示品のような感もあるが、とりあえず歴代指導部に手厚く保護され、おかげで外観だけでなくかつての風習も一つだけ生き残った。仏像の上にかぶさる石造りの仏塔には格子窓が網目のように空けられており、そこから三回手を出して一回でも仏像に触れると願い事がかなうのだという。就職した後もアジアの旅を楽しめるように、そう願った僕は三度目の正直で仏の足に触れることができた。

 

 ボロブドゥールの遺跡散策も終わりかけた頃、僕はベンチに腰をかけてハティとおしゃべりしていた。この時ふと遺跡の方から東アジア系と見られる老人と若者が混合した奇妙な一団がやって来た。彼等の言葉を聞いた時、それは間違い無く中国語であったが、一部の老人達は時々日本語を話しているように感じたのだ。

 「休息一下 (シウシイーシア・・・一休みしよう)。」

何人かの老人達が僕達の座るベンチの隣に腰をかけた。北京から来た僕にとって、その雰囲気、話す北京語の発音から、彼等が台湾人であると認識するまでにさほど時間はかからなかった。

 「台湾から見えたのですか?」

この国で一度も中国語を話す機会が無かった僕はふと懐かしく感じて隣の老人に話しかけた。

 「ああ。君はどこから?」

老人は僕に反応して手短にそう答えた。僕は続けて自分は日本人で今北京に留学していると自己紹介したところ、彼は急に言葉を変えた。

 「あれ、日本の方ですか。私達はついこの間まで日本人だったんですよ。」

その日本語に外国訛りは全く無く、普通の日本のお年寄りが話す言葉とほとんど変わらぬ口調であった。これをきっかけに周囲にいた老人達がこぞって話に加わり始めた、と言うより日本語でそれぞれの過去を語り始めた。

 「私達はかつてこの地で天皇陛下のためにオランダ軍と戦いました。今回は戦友会として再びやって来たのです。」

 「私はオランダ軍の捕虜になりましたが、自力で脱走しました。収容所の壁を飛び越えた時に骨折して、今も片足が言うこと聞きません。」

 「去年、千葉にいるかつての上官のお家を訪ねました。私は帝大出身ですが、東京もしばらく行かないうちに物価が高くなりましたねぇ。」

老人達は何の違和感も無い日本語を駆使して代わる代わる身の上話を聞かせてくれた。中国でこうした場面に遭遇すると、日本人であり、かつ言葉がわかることもあってか、瞬く間に非難の集中豪雨を受ける。だが彼等のそれには日本への批判どころか、日本軍として戦ったことへのプライドすら感じさせられた。いつもの流れなら批判の後で日本人としての見解を求められるので、波風立てない言い回しで包み込んだ僕なりの考えを頭の中で用意するのだが、この時ばかりはちょっと意外な展開だったので思わずかしこまって聞いてしまった。更に彼等は、話について行けるほどの日本語力の無いハティに気を使い、これまた流暢なインドネシア語で話しかけ、しまいには彼と肩を組んでインドネシア国歌を斉唱していた。「大東亜共栄圏」を信じ続けた人々がそこにいた。

 

 その後老人達と同じツアーの若者達が、僕が中国語を話せると知って北京語で話しかけてきた。日本語どころか福建(台湾)語もあまり話さないこの世代と大和魂忘れぬ老人達が同じ国の人間で、同じツアーとして一緒に行動していたこと、当初表現した奇妙さは正にここにあった。

 

 それにしてもアジアって本当に知らないことだらけ。一体どれだけの価値観が存在するのだろう。頭を整理するため、ひとまず僕はこの南国の地を後にして中国へと戻ることにした。