第七回 「卒業旅行報告」
         
(インドネシア・ラオス編)

Indonesia

Laos


インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間

訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ

 

ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間

訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン



ラオス報告



二日目:ビエンチャン

一階のカラオケのおかげで昨晩ゆっくり眠れなかった僕と田中さんは少し寝坊してから、市内へと繰り出した。途中「華国酒店」と漢字で書かれた安宿を見つけ、宿代確認がてら覗いてみる。経営する華人夫婦は中国語OKで、しかも自転車をレンタルしていたので早速お世話になることに。サドルが固くて調節がうまく効かない中国製の自転車にまたがると、まるでシーサンパンナの景洪(ジンホン)にまたやって来たような錯覚を覚えた。

 「ビエンチャンの街って、随分わかり易いんだな。30分もあれば一周できそうだ。」

田中さんは市内の地図を見ながら言った。彼は方向音痴の僕と違い、初めて訪れた場所でも地図を見ただけでまるで地元民のようにその位置関係を把握できてしまう。彼と一緒なら時間をムダにすることはあるまい。もちろんそれは決して予定を一杯詰め込むという意味ではなく、気に入った場所で少しでも長くのんびりするためである。

 

 とりあえずビエンチャンの二大シンボルのうち一つである凱旋門へ。アーヌサーワリーと呼ばれるその巨大な門は、60年代独立当時のラオス王国を指導したランサーン家がフランスからの独立と第二次大戦の戦没者追悼の意味を込め、パリの凱旋門を模倣して建てたもの。外見はちょうどパリの凱旋門の屋根にラオス風の仏塔が乗っかったようなイメージで、この国でここよりも高い建築物は他に見当たらない。入場料を払えば中に入って一番上まで上がることができる。天井には南伝仏教の説話に登場する人物を象った、金ピカでやや立体的なモザイク画が施されていたが、それ以外はまるで廃棄されたビルのように暗くて何も無い不気味な空間であった。聞く所によるとこの門はまだ未完成で、今もなお建設中なのだという。まるでガウディの大聖堂さながらの超長丁場プロジェクトである。相次ぐ内戦や革命、そして財政難もあるのだろうが、工事中の気配は無く、未完成というのは単にラオス人ののんびりした国民性に原因しているだけなのかも知れない。急な階段を昇って一番上から街を見渡すと、この凱旋門を中心に放射線状に道が広がっていることがわかる。そのうちの一つ、門正面に伸びるメインストリート、ランサーン通り以外、他の道路は舗装されていないように見える。ランサーン通りは二車線通路で一車線辺り三台は通れる程広いが、走っている車はまばら。とにかく静かな首都なのだ。

 

 続いてやって来たのはラオス仏教の本山タート・ルアン。と言ってもタイならこの位のお寺はいくらでもありそうだが、独特なのはその仏塔。タイのようなドーム型ではなく、正面から見ると角錐型で、先端部分だけがチューリップのつぼみのように少しばかり横に広がっている。ドーム型の金の仏塔もよく光に反射して鮮やかな色彩を見せるが、角錐型というのはもっとすごい。太陽の位置によって四面のうち一面がまるで反射する鏡のように目のくらむような輝きを見せるので、実は純金製なのではないかと冗談抜きで錯覚してしまう。後で調べた情報によると、この寺の塗装には日本の技術援助があったらしい。早速中に入ると僧侶はたった一人で何か物寂しい。しかも中で写真を撮っていいですかと聞くと、オーケー、オーケーと言ってどこかに引っ込んでしまった。誰もいない境内で、それぞれ表情の異なる大小の仏像を見ていると、何人かの小僧のクスクス笑う声が聞こえてくる。仏殿の裏にでも修行僧の宿舎があって、どこかから僕達を見ているのだろう。結局最後までその姿は確認できなかったが、ラオス人が本当にシャイであることだけは確認できた。

 

 タート・ルアンの隣には白く小さな塔がある。あの金色の仏塔を見た後だったので危うく見過ごす所だったが、一応こちらは現代ラオス社会主義革命の記念碑らしい。見かけは仏塔のようだが、先端には赤い星が象られている。近くに寄って写真を撮ろうと足を進めたとたん、これまで地面に寝かされていたチェーンがいきなりピーンと張られて柵ができてしまった。チェーンの伸びる先には警備員が一人入れるぐらいの小さな詰め所があった。中の男が西側の人間を警戒し、社会主義の聖域を守るためチェーンを引っ張ったのだろう。

 

 それはさておき、僕達には今日やるべきことがあった。急いで自転車にまたがり、凱旋門近くの国営旅行センターに向かう。明日以降の旅の相談と、足の確保のためだ。今回ラオスの旅で押さえておきたいポイントは王国時代の古都ルアンパバーン、謎の巨石文明の跡と思われる石壷が残るジャール平原、そして北京のキャンパスで知り合ったラオス語学部のブンルット先生が教えてくれた新しい高原リゾートのバンビエンである。とりあえずこれらを訪れるにはバスがいいのか、飛行機しか無いのか、所要時間と値段はどのぐらいか、日帰りは可能か等、旅行する上であまりにも乏し過ぎるこの国の情報量をカバーすべく、不明な点をすべてここでまとめて聞いてみた。事務員の女性は一応これらの質問に対し事務的に回答してはくれたが、いまいち愛想が良くない。「ジャール平原」を英語で何て言うのかわからない僕が「ジャール・ハイツ」と言ったら鼻で笑われた。本当は「プレン・ドゥ・ジャー」と言うらしい。フランス語で気取るなって。

 

 旅行センターの隣にはラオス航空のオフィスがある。その狭い建物の中はまるでディズニーランドの乗り物に乗るかのように何十にもくねった長蛇の列。列の先頭にあるチケット発行所に座る係員は二人だけ。何と中学校で使うような木製の机に座り、鉛筆で直接書き込んで発券している。いつになったら僕達の番が回ってくるのかと半分気が遠くなりかけたが、並ばなければどこにも行けないという現状を考え、とりあえず並ぶことに。幸い係員がもう一人動員され、列は幾分かスムーズになった。並び始めてから約40分後、ついに僕達の番が回ってきた。これでやっとルアンパバーンに一歩近付ける。行く先を告げようとしたその時、係員はそれより先にまず第一声を発した。

 「すみません、明日のルアンパバーン行きのフライトは満席になりました。」

えっ? 僕と田中さんは顔を見合わせた。まさかラオスの国内線に満席で乗れないだって? 次のフライトは三日後になってしまうという。卒業試験を控えている僕、その日には最低でもバンコクに戻っていなければまずい。しかし今ここでどこかのチケットを買わなくては中国の春節同様、本当にここから動けなくなる。僕は係員の第一声を聞いてから10秒以内に行く先を変更した。

 「プ、プレ~ン・ドゥ・ジャア?」

さっき聞いたばかりの耳慣れない地名を少し鼻にかけて発音した。

 「はい、シエンクアンですね。そこならまだ十分空きがありますよ。」

シエンクアン・・・。ジャール平原の中心都市の名前だそうだ。

 「災い転じて福となったのかも知れないな。」

田中さんはその薄っぺらい航空券を手にして言った。仏教関連の寺院や遺跡は先週バンコクやアユタヤで見てきたばかり。それよりは謎の巨石文明の方が男の冒険心をそそるじゃないか。

 

 夕べ換金をしたメコン河沿いの並木道を散歩する。道沿いには所狭しと並ぶお土産屋や雑貨店。どこの店にも溢れんばかりに山積みされたぬいぐるみ。土産物は中国的な物が多く、ラオスのオリジナリティはあまり感じられない。一般の食料品店を含め、どこの店も物価が高い。日本から来た僕達がそう感じるのだから、庶民はどこでどうやって買物しているのだろう。市場で手に入る新鮮な魚や野菜を除けば、この国で売られているもののほとんどが見る限り輸入品なのだ。

 

 僕はこれらの店の中から一軒カセットテープ屋を見つけた。タイのポップスは日本でもアジア音楽関連の番組等で紹介されるようになったが、未だ知られざるラオス・ポップスの扉を少し開いてみるとしよう。想像してはいたが、店内に並ぶテープの七割強はタイのものであった。やはり言語的に近いだけあってラオスでもポピュラーなのだろう。しかもテープのジャケットはカラーコピーされているらしくすべて海賊版のよう。ラオス・ポップスにはいわゆる公共電波で流される政府公認の歌謡曲と、ややアンダーグラウンドなバンド音楽が存在する所、中国の音楽界にも通じる所がある。政府公認の歌謡曲はタイの演歌であるルークトゥンよりものんびりして素朴。ちょっとばかり都会的な曲があるなと思ったら、それは香港ポップスのラオス語カバーであった。アイドル歌手の走りとおぼしき、横顔のジャケットがなかなか美人なセンペットという歌手のテープは全曲欧米ポップスのカバー。一番を英語で、二番をラオス語で歌っているので、その雰囲気のギャップがまた楽しい。しかし残念ながら彼女の歌はB面の途中でいきなり終わり、以後は正体不明の男性歌手に交替してしまう。こいつがまた音痴。「Take on me」のカバーを歌っている時も、サビの部分で声が上ずっていた。「ラップ・ミュージック」と表面に謳われたソンバットという歌手のテープは、聞いてみるとこれがまたのどかな演歌。もしラオス語を話せたら、一体これのどこがラップなんだ! と誰ふり構わずツッコミを入れただろう。サオバンハオというバンドは全員女性でフォークソング系の歌が中心。村娘という意味の名前通り風貌も田舎っぽくちょっと垢抜けない所はむしろラオスらしさでよしとすべきか。ヘビメタ系のサファイアというバンドは隣国タイでも評価されたようだが、「ヘビー ラオ! ヘビー イズ マイ スタイル!!」とつたない英語も挿入して絶叫するロックはあまりにも新し過ぎて本国ではまだ違和感を持たれているよう。実際この国の雰囲気にも合っていない。ブンルット先生の話によるとサオバンハオとサファイアは当局から目を付けられて共に解散。メンバーは今、コンピューター系の会社でサラリーマン(もしくはOL)をやっているらしい。いずれにしても彼等が常にラオスで最も先を行く人種であり続けることは確かだろう。テープ屋では他にロック系のテープは見つからなかったので彼等の解散によってラオス・ロック界の空洞化も懸念されるが、通りを見てもこれだけ沢山の若者がいる限り、芽吹き始めた最新音楽が消えてしまうことは無いだろう。

 

 以上に述べた音楽談義、意外にも店内で僕達と同様に物色していた華人系の若者のお蔭で成立した。僕が店員に英語でいろいろ尋ねてもチンプンカンプン。やっと英語を発したかと思えば「キャン ユー スピーク ラーオ?」。わかっていれば始めから話している。それじゃあタイは? フランセは? と続けて聞かれるが、どれもお手上げ。そこへたまたま隣にいた青年が割って入り、それならチャイニーズは? と聞いてきたのだ。中国語を勉強してて良かった! と飛び上がる。タイではもう中国語を話せない華人も多いが、こちらは中国の影響も手伝って華人文化健在のようだった。

 

 河辺でのんびりするのも悪くない。自転車を並木の片隅に停めて河に近付き、まだ熟していないドリアンの実がぶら下がる木の下に腰を下ろした僕と田中さんは、しばらくそのゆったりしたメコンの流れ、そしてその中で行水する水牛の群れを見ていた。対岸のタイ・ノンカイとの距離はわずか10メートルちょっと。歩いても渡れそうだ。以前北京でブンルット先生と話した時、彼がかつて教鞭を取っていたビエンチャンの大学で学んでいた北朝鮮の留学生が一、二年前にこの河を越えてタイへ逃走したという。以降北朝鮮はラオスに留学生を派遣しなくなったとか。

 

 誰もいない河辺にゴロ寝しながら対岸をボーッと眺め始めて何時間が過ぎただろうか。後ろの方で急に人の気配を感じ、振り向くとそこにはラオス軍の兵士が四人いた。彼等は至って穏やかな様子で「ハロー」と気さくに手を振ってきた。笑顔とは言え小脇に自動小銃を抱えているので少し緊張はしたが、僕達も簡単な英語を交えて近くの店で買った小物等を見せながらちょびっとコミュニケーションしていた。彼等もしばらくは近くの丸太に腰を下ろして歓談していたが、この時四人のうちの一人が突然真顔になって遥か遠くの「何か」を指差した。すると彼等はスックとその場から立ち上がり、その「何か」の方向に向かって足早に駆けて行ってしまった。彼等は国境警備隊だと思うが、不法入国でも見つけたのだろうか。僕がそう言うと田中さんは頷きながら付け加えた。

 「僕等のことも最初は怪しいと思ったんでこっちに来たんじゃないか?」

 

 空も河もオレンジに染まり、メコンに陽が落ちる。街灯の少ないビエンチャンの街、辺りはすぐに真っ暗。とりあえず夕陽の写真を収めた僕達が自転車を押しながら飯屋でも探そうとした時だった。並木道を歩いて来た色白の女性二人が僕達の目の前で立ち止まった。母親と娘らしく、日本人のようであったが、そのうち母親の方が見せた笑顔は日本人にしてはやや違和感を感じるものであった。ちょうどアメリカ人が道で見知らぬ人と鉢合わせた時、敵意が無いことを示すために作る笑顔に似ていた。アー ユー ラーオ? 僕達がどう対応するか考えている間にも母親はそう話しかけてきた。辺り一面ラオス人ばかり歩いているラオスに来て、あなたはラオス人ですか? と聞くのもまた変だが。一応僕達が日本人であると自己紹介すると、母子も日本語になった。二人は僕達がずっと眺めていたメコン河の向かい、ノンカイからこちらに渡って来たのだという。いずれにせよこの国に来て初めて出会った日本人ということで一緒に食事でもすることになった。小さな屋台を見つけ、地元ビール「ビアー・ラオ」で乾杯。話好きのお母さんから聞く所によると、この人達、旅に全人生を賭ける筋金入りの旅家族らしい。中国に留学し、こんな所を旅している僕達もかなり変わっていると言われるが、上には上がいる。妊娠している時ですら内戦中のエチオピアで戦車をヒッチハイクしながら放浪した等、このお母さんの口から次々と飛び出す武勇伝に最後まで閉口。一方隣にちょこんと座る14才の娘さんは終始無口で、一見海外とは無縁の雰囲気であったが、インドやタイの旅行は十回を越えているとか。もう庭同然だよね、という母親の言葉に「ウン」とかわいく頷いていた。お母さんが妊娠を知った時旅していたヨルダンのアカバ湾から取ってその名をあかばちゃんと言うそうな。理想の男性はキャンプやアウトドアが得意なお父さんだと言い切った。

 この国に来て最初のカルチャーショックが、まさかたまたま出会った日本人だなんて・・・。