第一回 「炎天下!ソ連の秘境」 

 (ウズベキスタン・タジキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン編)


Uzbekistan

Tajikistan

Kazakhstan

Turkmenistan


ウズベキスタン旅の期間:1988年8月5日~11日 6日間

訪問地:タシケント、サマルカンド、シャフリサブズ、ブハラ、

ウルゲンチ、ヒワ、フェルガナ、コーカンド

 

タジキスタン旅の期間:1988年8月12日~13日 2日間

訪問地:ペンジケント、ドゥシャンベ

 

カザフスタン旅の期間:1988年8月14日 1日

訪問地:アルマアタ

 

トルクメニスタン旅の期間:1988年8月15日~16日 2日間

訪問地:マリ、アシハバード




タシケント: ちょっと過酷な初海外

 

(本編はLing Muが当時16歳の頃に書いた手記をもとに若干の手直しをしたものです)

 

 8月5日。それは僕が高校入学の時からずっと楽しみにしていた初めての海外旅行の日だ。この日に至るまで、ずっと以前から「アジア」という広大な未知の世界に関心を持っていた。日本人は同じアジア人でありながら、アジアの国々についてあまり知らない。それが僕にまず興味を持たせた。まずどこから行ってみようか。そうだ、数多いアジアの中でも最も知られていない、今はソビエト領にある中央アジアの旅へ出発しよう。その日はだんだん近付いている。 

 待ちに待った出発の日、僕は父と一緒に新幹線に乗り、新潟に着いた。空港でツアー同行者が全員集合した。全部で16人、それに添乗員のYさんだ。初めての海外旅行であると同時に、飛行機も初めてだったので(小さい頃に乗ったという話だが記憶に無い)、見るものすべてが珍しかった。初めて通った税関の荷物検査はとにかく厳しかった。現地の人と交流するために持って来たキーホルダーや貝殻、ノートの中身までくまなく調べられ、恥ずかしかった。アエロフロート(ソ連航空)の飛行機に乗り、中継地点である極東のハバロフスクへ。日本に近い位置にはあるが、ロシアの領土であるから、空港に近付く頃には西洋風の古い街並みが見えてくるかと思えば、何の飾り気も無い直方体のアパートしか見えなかった。飛行機を降りると、人を運ぶ車両を引いたトレーラーのような乗り物が待っていた。客車の中には二つに長椅子があり、吊り革の代わりに鉄の棒が二本取り付けてあった。

 入国審査はレーニン像が立っている建物で行われた。無表情なロシア人の入国審査官が日本人入国者一人一人に「コンニチハ」と挨拶し、パスポートを受け取ると、ホッチキスでとめられた別紙のソ連ビザにスタンプを押した。荷物検査の場所には「X線を撮りますので、フィルムをトランクから出して下さい」という日本語の表札が下がっていた。はて、フィルムはどこへやったかと慌てていた僕はいつの間にか他の日本人達とはぐれてしまった。この時近くの係員が指差した一番右の窓口に行ってみると、そこにも入国審査官がいて、日本語で「パスポートヲ、ミセテクダサイ」と言われた。それに従ってパスポートを渡すと、今度は「カヘイノ、シンコクショヲ、ダシテクダサイ」と言われた。

 「父が預かっていると思うんですけど…。」

僕がそう言っても、彼は「シンコクショ、シンコクショ」と繰り返すだけ。この時ふとウエストポーチを開いた僕は何やら紙が入っていたのを見つけて差し出すと、彼は「ソレ、ソレ」と言って受け取った。いろいろ慌てていた時に既に受け取っており、無意識にポーチに入れてしまっていたのだろう。その後もカセットテープは持っているか、雑誌は持っているか等質問責めにあい、やっと入国審査をパスすることができた。 

 そしてツアー同行者が再び集合した所で、とんでもない予定変更が起こった。ハバロフスク到着後インツーリスト・ホテルで一泊し、翌日タシケントへ向かうはずだったが、ホテルの予約がなぜか取り消されていたため、これからまた飛行機に乗って遥か遠いタシケントまで7時間半かけて向かうそうだ。今は夜の11時。ソ連ではこういった予定変更はざらにあるそうだ。 

 飛行機に乗る前、搭乗券をもらった。ところが僕は大失敗をしでかしてしまった。15分程休憩を取り、さあ飛行機に乗ろうとした時、僕はポケットをさぐった。無い! ついさっきもらったばかりの搭乗券がどこにも見当たらないのだ。さて困った。ナップザックやウエストポーチをくまなく探したが、紙らしきものさえ無い。落としたのかと思い、券をもらった場所からずっと歩いたが、とうとうどこにも落ちていなかった。券が無ければ飛行機に乗れない。だがどんなに探しても見つからない。幸いYさんが飛行機のスチュワーデスに、僕が券を失くしたことを話してくれたお蔭で、なんとか飛行機に乗ることがきた。

 ハバロフスクの空港を立ってから、何時間ぐらい経っただろう。ハバロフスク時間午前3時。あと4時間この狭い機内の座席に座っているわけだ。時々機内食が出てくる。何とか腹の足しになるものは出たが、なにせ眠れない。二度程ウトウトとはなったが、すぐに目が覚める。隣の父が免税ショップでウイスキーを買い、機内で飲んでいて、周りは皆寝ているのに、突然鼻歌を歌いだした。僕は必死に止める。やがて何やらロシア語の放送が入り、窓を少し開くと、暗闇の中から街の灯が見えた。 

 長い時間だった。飛行機は無事着陸した。タシケント・・。中央アジア・ウズベク共和国の首都。全ソビエトの中ではモスクワ、レニングラード、キエフに次ぐ四番目の大都市だ。空港を出てバスに乗った。これからホテル・ウズベキスタンへ向かうのだ。空港内のロビーでは、日本人に似たウズベク人らしき男達が床に横になり、次の飛行機を待っていた。 

真夜中のタシケントをバスで走り抜ける。誰も歩いていない。車も走っていない。時が止まっているようで、妙な情景だった。路上にはゴミはなく、捨てるためのゴミ箱すらない。至る所にレーニンの肖像画、ロシア語のスローガン等が掲げてある。店や会社の宣伝のような看板は全く無い。そして何よりも緑の多い町だ。ウズベクでは子供が一人生まれると木を一本植え、建物が建った時は三本の木を植えるという習慣があるそうだ。

 やがてホテルに着いてチェックイン。ベッドは二つあり、その他に机、イスがあり、バスルームがある。バスルームの中には流れにくいトイレと洗面所、それに広さ一平方メートル位でひざまでの深さの浴槽があった。バスルームのドアの建て付けが悪く、一度閉まったら内側から開かない。窓はもともと閉まらない。もちろん自動ロックのような高級なものではなく、ただ壊れているだけのようだ。肩幅位のベッドの上にはバカでかい枕、それに絨毯のような布きれが置いてある。つまりそれが布団だ。壊れて動かないテレビはあるが、ゴミ箱は無い。だがこれでもウズベクでは最高級のホテルなわけだ。 

 

 翌日、タシケントの市内観光に出発した。全体的にタシケントは噴水のある公園が多く、実に落ち着いた街だ。そして街にはどこからか常に音楽が流れている。ソ連のポップスや、中央アジア方面のイスラム色強い民族音楽がほとんどであったが、僕は中学時代、興味本位でモスクワ放送をよく聴いていたので、知っている曲も少なくなかった。あと、この中央アジアには至る所に蝿がいる。外はもちろん、ホテル、機内、レストランにまでブンブン飛んでいる。手や頭に止まられるとうっとうしいものだ。

 ここウズベク共和国について少し説明しよう。この国は北にカザフ共和国、東にキルギス、タジク各共和国、西にアラル海をはさんでカラカルパク自治共和国、南にトルクメン共和国、そしてアフガニスタンと接している。主な民族はトルコ系のウズベク族が70%、残りはイラン系のタジク族。主要言語はウズベク語、タジク語、ロシア語。特産物は綿花で、その生産は世界でアメリカに次ぐ第二位である。最近の日本との交流を見ると、タシケント市長マフムドワ女史が日本を訪問したり、ウズベク民族舞踊団「リャズギ」が来日公演したというニュースを見つけた。この国で盛んなスポーツはラグビーとホッケーだということだ。   

 バスはレーニン広場に着いた。15の共和国の国旗がはためき、オペラ劇場、噴水、図書館等がある。ウズベクの国旗の立った青く大きな建物はウズベク共和国政府だ。ウズベクの国旗はソビエトの赤い旗の真ん中に白、青、白の横線が入っている。白はウズベクの名産である綿花を、青は運河の水を意味するそうだ。このレーニン広場を出ると、チョール・スーという大通りにさしかかる。チョール・スーとはウズベク語で「四つの道」という意味だ。かつてここはシルクロードの中継地点で、中国、モンゴル、インド、サマルカンドへそれぞれ通じていた。今となっては普通道路だ。目立つものといったらただただ大きいモスクワ・ホテルと、クッケル・ダシュという回教寺院だけだった。ここは現在でも使われているモスクで、中には入れないようだった。

 チョール・スー通りを真っすぐ行くと、「勇気の像」という巨大な像が立っている。上半身裸の男の後ろに子供を抱いた女が立ち、二人の足元の地面にはヒビが入っていて、そこには花束が置いてある。1966年、このタシケントを中心にマグニチュード6.5の大地震が起こり、街の40%はあとかたも無く崩れ去り、385人の死亡者を出したという。この時ソ連の15の共和国から大勢の人々が駆けつけ、街は甦った。しかもソ連で四番目の大都市になったというのだからすごい。現在タシケントのほとんどの建物はマグニチュード7までの地震には耐えられるということだ。   

 そして一行はウズベク民芸博物館に入る。チムール帝国時代の陶器の並ぶ部屋があった。湯飲みもきゅうすも日本のものにそっくりだ。この技法はやはり中国から渡ってきたもので、今でもこの陶器を専門に造る工場がウズベク国内で四つあるという。絨毯の展示室では、大王チムールの墓、グル・エミル廟を金の刺繍で象ったものが特に素晴らしいものだった。館内にある古い建物は中近東風のモザイクの壁や柱。だが天井は中国もしくはチベット風の極彩色だ。中の応接間の模様も素晴らしく派手な色彩で飾られていた。メッカに向かっている壁にはドーム型のくぼみがある。扉には中世ペルシャの詩人アル・ハヤンの言葉が彫り込まれている。アラビア文字のペルシャ語で「世界は二つの門を持った宮殿である」と書かれている。つまり人生には必ず生と死があることを宮殿の入口と出口に例えているわけだ。博物館の奥には女性の民族衣装や装飾品が展示されている。耳飾り、胸飾り、冠、指輪、腕輪と、ものすごい数である。これらの飾りを一人が身に着けるのだ。よくもまあ、こんなに重い金細工をぶら下げて表を歩けたものだ。思わず昔のウズベク女性の派手さが、これを見れば手を取るように想像できる。しかも昔の女性は12歳で結婚し、結婚式の時はこれの倍以上の装飾品を身に着けたという。更に嫁入り前の女性は、結婚するまでに何枚もの絨毯を織らなければならなかった。今では到底考えられないことである。

 民族楽器の展示室があった。ここの代表的な楽器は、まずドイラというタンバリン型の打楽器。三味線によく似ているドゥタール、バイオリン式の弦楽器で、胡弓に似ているギジャーク、これらはすべて19世紀より盛んに使われたものである。その中でもルバーブという楽器が関心を引いた。ドゥタールと同じ弦楽器だが、ドゥタールほど大きくはない。形も実にいいのである。僕はこの楽器がとても気に入った。思わずホテル内のベリョースカ(外貨ショップ)に行って3,000円を払って実物を購入してしまったほどである。形もそうだが、弾いた弦のベ~ンという音色も日本の琵琶に似ている。笛にはやはり日本の尺八に似ているものもあったが、ウズベク独特の面白い笛があった。粘土でロバや羊が色とりどりに象られているものだ。これらの笛を見ていると、首筋に傷が付いている。イスラム教では人や動物は神が造ったものであり、人間がそれらを真似て作ることは偶像崇拝と見なされ、禁じられている。だが首の傷によって、すでに死んでいるものを象ったということで、戒律には引っかかっていないのである。ウズベクで行われる「ナウルーズ(春の祭り)」では、この笛を吹きながら瞑想する儀式があるそうだ。ウズベクの弦楽器や打楽器のほとんどは今のアフガニスタンから来たものだという。そしてアフガンの楽器はインドが起源なので、インド人がこの地を訪れてまず驚くことは、やはり楽器や音楽の類似性なのだそうだ。 

 ところでこの旅にはYさんの他にインツーリスト(ソ連旅行社)のガイドとしてウラジーミルさん(通称ウラさん)というロシア人が同行している。日本語が上手で真面目な人だ。あんまり真面目なので冗談が通じないと評価する人もいるが、バスの中で歌を歌ってくれたり、ソ連についても詳しく話をしてくれる。市内観光の際は現地のガイドのロシア語の説明をウラさんが日本語に通訳するのだ。 

 

 昼食の時間。一言でここの料理について述べると、油っこいものが多い。必ず出るものはトマト、キュウリ、ハム、そしてナンと呼ばれる南・西アジア一帯にある平たいパン。炭酸の入った味の無い水。慣れない僕達は食欲が薄れてすぐに腹一杯になるのだが、メインの料理はいつもその後に来る。大抵油っこい羊料理かボルシチ・スープだ。たまにデザートとしてスイカ、ハミウリか酸っぱいヨーグルトが出る。こんな料理が毎日朝、昼、晩とまったく同じ。たまにアイスクリームが出る程度だ。ま、ハミウリについてはとろけるように甘くて最高においしい。あと、この旅で欠かせない飲み物はチャイというお茶だ。味も日本の緑茶に近いものから紅茶に近いものまである。そしてこの土地の水には石灰が多く入っており、飲むことができない。聞いた話だが、以前にフランス人の観光客五人がバザールでハミウリを買って五等分して食べた。その後のどが渇き、一杯なら問題無いだろうと水道の蛇口をひねり、五人は水を飲んだ。次の日全員が脱水症状を起こし、病院に運ばれたが、間も無く三人が死亡。残り二人はハバロフスクへ運ばれ、モスクワから医者がミグ25で駆けつけ、危うい所で命を取り留めたという。これが中央アジアの生水の恐ろしさの一例である。僕はすぐにのどが渇くので、旅行カバンの中はほとんどミネラルウォーターなのだが、貴重なのであまり飲めない。無論中央アジアで冷たい水や麦茶なんて存在しない。この国のミネラルウォーター、つまり炭酸水は苦手で、飲むと気持ち悪くなる。ジュースが置いてあればその日はラッキーだが、無い時も多い。結局の所、チャイが一番身近で便利な飲み物なのである。

 食事を終え、部屋へ帰ろうとした。僕と父の部屋は16階にある。だがエレベーターはとても狭く、各階に止まって大柄な外人が入ってくるので、16階に着く頃には窮屈で出られない。僕はそんなエレベーターにうんざりしていたし、運動不足だったので、階段で行くことにした。階段は螺旋状になっていて、さすがに16階はきつい! 着いた時には、ハアハア息を切らしていた。そこにはジェジュールナヤという鍵番のおばさんがいて、ヘトヘトの僕を見て笑いながら「ニエット! リフト、リフト!」と言ってきた。何でエレベーターを使わないのかと言っているようだった。そして、そこに座って安めと近くのソファーをすすめてくれた。僕が座ると、鍵おばさんは、何やら身ぶり手ぶりで話しかけてくる。意味は分からないが、にこやかに聞いていると向こうも喜んでくれる。本当に人懐っこいおばさんだった。   

 再びタシケント市内観光へ出発。次の行く先はバザールだった。あちらこちらから聞こえる商人の声。だが売っているものは果物、野菜ばかり。土産になりそうな物は一つもない。日本人が珍しいらしく、地元の人達が立ち止まってジロジロ見る。周りにはいろいろな人達がいる。素足で駆け回るウズベク人の子供、金髪のかわいい姉弟を連れたロシア人の親子、緑の制服にカウボーイハットをかぶったロシア兵士。タシケントの町には割と西洋人が目立つ。ロシア人はもちろんのこと、今年はアメリカからも大量の観光客がソ連を訪れているのだ。理由の一つは米ソの首脳会談によって関係が非常に良くなったこと、もう一つは昨年のチェルノブイリ原子力発電所の爆発により旅行を中止された人達が今年の夏に流れこんできたということである。  

 タシケントを歩いて気が付いたことは、まず女性のほとんどがクイナックと呼ばれるカラフルなワンピース型の民族衣装を着、頭にはスカーフのような布をかぶっていたことだ。そしてマジックかなにかで眉毛を一直線につなげ、やたらと金歯をはめている。又、ウズベク人はほとんどと言っていいぐらい眼鏡をかけている人はいない。モンゴル遊牧実の視力は5.0と聞いたことがあるが、ここでもやはり、遊牧民の血が入っているからであろうか。バザールの奥に入っていくと、「ヤポンスキー(日本人か)?」と声をかけられた。チュビチャイカと呼ばれる、ウズベク人の男性がかぶるつばのない帽子をかぶった男だった。身なりは明らかにウズベク人だが、異民族が混じっているのか、目は青かった。彼は何やら妙な木の実のような、種のようなものを売っていた。

 「シュトー エタ?」

旅行前に覚えたロシア語フレーズでこれは何かと聞いたものの、彼の答えるロシア語は僕には聞き取れない。一掴み僕に渡し、食べてみろという仕草をするので口に入れてみたが、苦い! とても食べられるものではない。だがせっかくの好意だったので、平然とした表情を保っていると、男はこの妙な実を買わないかという身振りをしてきた。僕は首を振った。すると今度はその種売り男の隣に座っていたウズベク人の男が僕の時計を指差し、自分の時計を見せて取り替えないかと言ってきた。僕の時計は時々止まってしまうので決していいものではなかったが、この時は「ニエット(ロシア語でNOの意味)!」と言って逃げ出した。 

 バザールを出た所で、ウズベクの観光案内パンフレットや絵葉書を売っている店を見つけた。何か買って行こうと思ったが、店員は例のマジックで眉毛をつなげて金歯をはめたばあさんだ。父が英語で値段を聞いても全く通じていない。僕は買い物のために覚えたロシア語フレーズでいくらかと聞いたが、ばあさんは「・・・ルーブル、・・・カペイカ。」と答え、その・・・の部分がどうも分からなかった。やはり数字も勉強しておくべきだった。だがこんなことあろうかと思って、鉛筆とメモを取り出し「ナピシーチェ ズジェーシ パジャールスタ(ここに書いて下さい)」と対抗する。ばあさんは、計算をし始めた。それがまた遅い。ウズベク人はとてものんびりした民族性なので、計算がとても遅いという話は以前に説明会でも聞いていた。ロシア人と接した日本人は彼等ののんびりさにあきれるそうだが、そのロシア人がウズベク人ののんびりさにあきれるほどだという。そして計算を何度も何度も間違える。同じツアーの同行者のTさんは700円位の物を買おうとしたが、店員が大幅な計算違いをし、値段が1万円以上にもなってしまい、何度間違っていると言っても聞かないので、買うのを諦めたそうだ。

 かくしてばあさんの計算がやっと終わり、指定された金額を払って僕等は引き上げようとした。すると後ろからばあさんが大声で呼び止めた。父が店に眼鏡を置き忘れたのだ。  

 ホテルを出てから戻るまで随分時間が経ったと思うが、不思議な事にこの国では夜の8時頃になっても9時頃になってもまだ明るい。9時半頃にやっと日が沈み出し、10時には真っ暗になる。モスクワの時間に合わせていることに原因しているようだ。気温は、午前中はポカポカして暖かく、午後から酷暑となる。夜は涼しく、明け方は寒い。

 

 その日の夜中、僕達はウズベク二番目の都市、サマルカンドに飛んだ。シルクロードの中心として有名な街だ。空港からバスでサマルカンド・ホテルに向かった。この街にはレギスタン広場というチムール帝国時代に作られた回教学校跡がある。写真で見たことはあったが、ウズベクへ来てこの広場を見なければ、来た意味がないという程の所だそうだ。明日それを見られるので少し興奮した。僕達を乗せたバスがホテルの近くまで来た時、急に停車した。バスの前方には大きな松明を持ち、大声で叫びながら踊っている行列があった。こんな夜中に何事かと思ったら、この行列は結婚式だった。子供から老人までが歌い、踊り、アコーディオンをかき鳴らし、何かしきりに叫んでいる。それが日本語で「リョウドヲ ヨコセ」と言っているように聞こえる。僕達がバスを降りて写真を撮っていると、小さな女の子が何かボソボソ言いながら近付いてきた。だが何を言っているのか全く見当がつかない。同じツアーで旅ベテランの名物おばさんであるKさんに後で聞いてみると、あの子供達はチューインガムか何かを欲しがっていたらしい。僕はまだ旅の初心者だったのでそれを感じ取れず、せっかく彼等と交流するために持ってきたガムや貝殻もこの晩は使えなかった。一方Kさんはと言うと、かなり旅行に慣れているようで、積極的に踊りの中に交じっていた。ちょっと羨ましかったが、僕にはまだできないな。ホテルにチェックインした僕は、明日を楽しみにしながら絨毯のような薄くて固い布団をかぶって眠った。