第七回 「卒業旅行報告」
(インドネシア・ラオス編)
Indonesia
Laos
インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間
訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ
ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間
訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン
ラオス報告
三日目:シエンクアン
「おしゃれなパン屋があるな。朝飯にどうだ?」
「いいね。入ろう。」
ビエンチャンの胃袋、トンカンカム市場に面する通りの向かい、スカンジナビアン・ベーカリーという名の洋風のパン屋があった。ラオスに来てパンなんて、と言われそうだが実はラオスの朝はパンから始まる。フランス統治時代の名残だろうか、市場の周りは細長いフランスパンを売る出店がひしめきパンの香りで一杯。僕達が見つけたパン屋の二階は喫茶店になっており、一階で買ったパンを二階で食べることができる。店内は東京の都心にあっても引けを取らない位きれいでしゃれた空間であった。クロワッサンやドーナツをつまみながらうまいコーヒーをすすっていると、ビエンチャンでは朝、昼、晩ずっとここでもいいなとさえ思ってしまう。今朝の話題はもっぱら夕べ出会った不思議な母子の話で持ち切りだったが、僕はちょっと一息ついて窓の外を眺めた。歩けば砂埃の立つ通りを闊歩する赤いネッカチーフを巻いた子供達、シンと呼ばれる伝統的な巻きスカートを身に着けたスリムな女性達。人々の顔立ちは色白で日本人や中国人に近く、若者が圧倒的に多い。
この国は結果的にパテト・ラオ(共産勢力)が実権を握ったわけだが、街を見る限り共産化している雰囲気は感じられない。かつての王政側が懸念していたような、悪の帝国に後ろ盾された収容所国家とは違うような気がする。結局同じラオス人が作るのだから、付き合う外国に多少の違いは出るものの、国の運営自体は現体制も旧体制も対して変わらなかったのでは? 王族や独立運動家同士の内部抗争が多くの犠牲を払う内戦へと発展したのは、米ソの介入を招き、超大国間の代理戦争の様相を呈したためである。ベトナム戦争やカンボジア内戦の影に隠れてはいるが、この国も冷戦という時代に翻弄された過去を持っているのだ。
結局パン屋の居心地が良過ぎてギリギリまで長居してしまったが、僕達は通りを流すサムローを拾い、急ぎ足でビエンチャン空港へと向かった。いよいよラオスに残る最大の不思議、ジャール平原へと飛び立つ。飛び立つのはいいが、今回の機体は何とセスナ機。ジェットによる滑走も無く、プロペラだけでフッと舞い上がるその離陸に初めての者は少し戸惑いを感じた。すると前の席に座る男性がこちらを向いて、何も心配する必要はありませんよ、と日本語で話しかけてきた。ただでさえ10人ちょっとしか乗っていないこの機内にまさか日本人がいたなんて。O氏というこの人、曹洞宗が関わるNGOのメンバーで、ラオス農村の教育推進を手助けしているそうだ。この路線の利用は数知れず、話ぶりからして冷静そのものだった。とりあえず他に日本人がいたということで安心感を得た僕達、窓の外の風景を眺める余裕も出てきた。険しい山岳地帯の上空、舗装されている道路はまず見られない。所々に内戦時代米軍が爆撃した跡と思われる大きなクレーターが口を開けており、その周囲は今もハゲ山となっている。地図で見るとビエンチャンからさほど遠くはないのに飛行機以外の移動が難しい理由は、インフラの未整備もあるが、モン(ミャオ)族という少数民族の分離独立派がゲリラ活動している拠点でもあるかららしい。ゲリラくずれで強盗団に成り下がっている集団もいるとか。その時いきなり田中さんが僕の肩を叩いて窓の上を指差す。見れば荷物棚の方から広がるドライアイスのような白い気体。あぁ、雲が入ってきたんですよ。O氏は言う。その正体は空調の冷気であったが、常連の人達はそれを親しみ込めて雲と呼んでいた。
「えっ!? まさかこれが滑走路?」
「ええ、そうですよ。何か変ですか?」
機体はシエンクアン空港の滑走路に着陸した。この滑走路、何とただのジャリ道であった。周りは何も無い平原。よく見るとジャリ道から歩いて約50メートルの所に竹編みの小屋が一軒建っており、何とそれが空港のターミナルビルのようだった。いくら国内線と言ったって、これだけローコストな空港は世界でも珍しいのではないか・・・。純粋に空港と聞いて想像する光景が粉々に打ち砕かれる音が一瞬聞こえ、頭蓋骨を震動させながら不思議な快感となって胸の中にこだました。感動を押さえ切れない僕達、当然かのようにさっさと小屋へ向かおうとするO氏を引き止め、記念写真のシャッターを押してもらった。十数人の人々の流れについて竹の小屋へと移動する。出迎えも無くこんな野原に着いてしまった僕達、一体シエンクアン市内までどうやって動けばいいのか。小屋の周囲は車もわずか一、二台ぐらいしか見られない。ほとんどくぐるだけのように小屋の中に入り、そして出口に出ようとした。するとここまで一緒に来たO氏、何と出口の所で、この国では珍しいネクタイ姿の地元民から歓迎を受けていた。O氏は流暢なラオス語で彼等と親しげに言葉を交わす。ちょうど日本で言う文部省に当たる機関の幹部がわざわざ出迎えに来たのだとか。一方僕達もO氏の連れの日本人だと思われた様子。皆さんどうもご苦労さん、ドサクサにまぎれて彼等からの歓迎の握手を何食わぬ顔で受ける二人であった。
竹の小屋の前に停まっていた二台の車うち一台。それはO氏送迎用に政府が用意したジープであった。そしてふとした縁から、僕と田中さんもちゃっかりそれに乗り込み、シエンクアン市内へと向かうことに成功した。O氏、なかなかの大物だ。
「今から私がいつも利用している宿に行くから、お二人もそこに泊まったらどうですか?」
泊まる場所も決めていなかった僕達にO氏は更にゲストハウスまで紹介してくれた。かくして空港の小屋から野原を縫うような一直線の道を走ること約20分。たどり着いたシエンクアン市内は何とこれまた通り一本だけの小さな町であった。この町での宿泊先はログハウス風のビントン・ゲストハウス。宿の主人はほとんどラオス語しか通じないものの、運転手や案内人等一人何役もこなすやり手。特に仕事を手伝っているわけではなさそうだが、この宿にいる子供は大変人懐っこく、いつも宿泊者の所に寄って来ては愛嬌を振りまく。O氏はさすが幹部の出迎えを受けるだけあって、ボランティアとは思えない程多忙な様子。腰を下ろす間も無く仕事に出かけなくてはならないようだ。それでも彼はわざわざ僕達のために明日一日ジャール平原を案内するよう、宿の主人にラオス語で頼んでくれた。終始落ち着いてテキパキした感じのO氏だが、ここに来るまでのたった数十分でまるで快適な旅をプレゼントされたかのようにお世話になりきってしまった。
先程のジープに乗って出発するO氏を宿の入口まで見送った僕達はこの町を軽く散策。何とまだ平原に行く前から早速謎の石壷を発見した!発見場所はゴミ焼却所。ボイラーの上にデ~ンと一個置かれていた。目立つ場所なので誰かが飾りとして置いたようにも見えるが、なぜゴミ焼却所でなくてはいけないのか? 彼等の美的感覚はミステリアス。街灯も何も無い夜の帰り道は少し怖い。前方に何か気配を感じ少したじろぐと、そこには道の真ん中で堂々と小便する犬がいた。