第七回 「卒業旅行報告」
(インドネシア・ラオス編)
Indonesia
Laos
インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間
訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ
ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間
訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン
ラオス報告
五日目:バンビエン
翌日、シエンクアンから空路ビエンチャンへ戻った。僕達は夕べの晩O氏から託された一通の手紙を持って市内を歩き回っていた。シエンクアン滞在中大変お世話になりながらも、仕事が多忙でなかなか話する時間を作れなかったO氏。夕べの小さな飯屋での食事の後、ゲストハウスのバルコニーでラオス産コーヒーを飲んで夜涼みしながらいろいろお話を聞くことができた。彼はラオスの農村で印刷技術を広めることで教材を普及させる支援活動に携わっているとのこと(帰国後、朝日新聞や海外就職関連の雑誌で彼の活動が写真入りで紹介されていた)。そんな世界もあるんだ、となかなか勉強になる一夜であった。その彼が最後に一枚の手紙を僕達の前に差し出した。
「ビエンチャンに帰る時、これを家内に渡してもらえませんか。」
O氏の奥さんはタイ人で、ビエンチャン市内でタイ料理店を開いているという。これだけラオス語が堪能なのだから七割以上似ているタイ語だってできそうな感じであったが、渡された手紙から察するに奥さんとは英語でコミュニケーションしているようだった。
そんなこんなでO氏の手紙を預かった僕達、ここでも田中さん持ち前の土地勘が発揮され、店は割と簡単に見つかった。昼前だったので客は誰もいなかった。誰かいますか~、と店先で声をかけると奥から30前後と見られる女性が現れた。Oさんの奥さんであることを確認して手紙を渡す。すると彼女はオー、サンキュー、と一言お礼だけ言うと手紙を持ってサッサと奥に戻って行ってしまった。特に何も期待していたわけではないが、あまりにもあっけなかった。せめて旦那が元気だったかどうかぐらい聞いてくれてもよかったのに。郵便事情が良いとは言えないこの国では、人を通して手紙をやり取りすることがごく日常的で珍しくない行為だからかも知れない。
今日と明日はバンビエンという所に行ってのんびりする予定。北京のキャンパスでせっかくラオス人ブンルット先生と知り合う機会があり、しかもラオス滞在中は案内すると言ってくれたのだが、生憎この時期彼はまだ北京で授業があったため、一緒にラオスの地を踏むことはできなかった。今回の卒業旅行、せっかく北京で築いた現地人脈がほとんど生かされなかったのだが、その代わりと言って先生は、開発間も無いためまだ広く知られていないラオスの高原リゾートを教えてくれた。それがバンビエンである。ビエンチャンからバスで約一時間北上するらしい。早速人々で賑わう市場の近くにあるバスターミナルへと足を運ぶ。「タクシー、ボー(タクシーいかが)?」と中国やインドに比べればあまりしつこくないサムローの兄ちゃん達の誘いを軽く断りながら古いボンネットバスに乗り込む。悪路のせいともボロエンジンのせいとも言えぬ鈍い音をガッタゴットと響かせながらバスは出発。途中いくつも山を越え、村にさしかかるごとにカゴ一杯の果物を抱えたオバサン達が車両を取り囲み、威勢のよい声を上げながら窓越しに商売を始める。あるオバサンがたまたま手にしていた何かの肉を串刺しにした食べ物を見て、小腹の空いていた僕は一瞬それが焼き鳥に見えてしまったが、知らぬ物にむやみに手を出すより到着までもう少し我慢しようと目を閉じた。
やがてバスはゲリラや山賊に襲われることもなく、不発弾を踏むこともなく無事バンビエンに到着。シエンクアン同様ほとんど通り一本の町だったがもう驚くことはない。田舎はいいなぁ、外国人もなかなかここにはいないだろう。僕達がそう言って大きく伸びをした時、通りの向こうから大きな荷物を背負う影・・・。到着して数分もしないうちに、日本人バックパッカーに出会ってしまった。
前人未到の高原、地図になき素朴な農村・・・。そんな妄想を葬り去ったバックパッカーの到来。夢で見るほど胸に詰め込んだ期待を見事なまでに裏切る街というのはアジアに多々存在するが、案外それらを裏切っているのは僕達旅行者一人一人の存在なのかも。定番旅行に飽き足らず、もっと深く、もっと遠くへ行こうとするのが人の性。結果、秘境などという所はもう存在しなくなったかのように見える。男女二人組の彼等、カップルかと思いきや、つい今さっき出会ったばかりだという。男性の方は純粋に釣りを楽しみに、女性の方は雲南省の麗江辺りを長く放浪した後でフラリとやって来た。共にいかにして安旅行をしてきたかを口々に披露していた。しかしサムローの運転手がトイレに行っている間にメーターを勝手に調節して料金をチョロまかしながら移動したなんて、そんなにまでして安旅行がいいのか?! と、半分呆れてしまった。ボッタクリの象徴として度々登場するタクシー運転手を逆にボッてやったという武勇伝のつもりか。アジアをもっと知ろうと思って来てみれば、いつしか自分を極限まで試す競争をしてしまっている旅行家達。ちょっと違うんじゃないかと異を唱えようとする一歩手前でふと自問自答。僕自身だって旅を通して鼻息荒いアジアの人々とぶつかり、日本では発揮しきれないバイタリティが自分を動かしていることに気付いた時、何となくその感激を他人に話したくもなるのではないか。そうではなく純粋にアジアを知るために旅しているのなら、僕は一体何を知っているのか? 若さゆえか、結局答えが出て来ないこのもどかしさ。こうなればとにかく前に進むしかあるまい。僕達も、そして彼等も。じゃぁ、またどこかで、と笑顔で手を振りながら彼等と別れる自分のふがい無さ。心境が山の天気のように著しく変化するのもまた旅。
気を取り直して僕と田中さんは市場を散策。ラオスの国旗がプリントされたTシャツ、極細かな刺繍の施された筒型のペンケース、そしてポップコーンを購入。このポップコーンがまた、サクサクした歯ざわりと口溶け具合が心地よく、余韻が長く残るその甘味に素朴ながらも高級感を覚えた。村を一回りした後でふとまた食べたくなり、2000キープを取り出して足早に市場へと戻る。屋台のオバチャンは喜んで山積みされたポップコーンを天秤に計り、ビニール袋に詰め込む。僕はこのサイクルを今日のうちに四回は繰り返してしまった。まさか黄金の三角地帯名産のアレが中に入っているのでは・・・、なんて考え過ぎか。
小さな町を何週か回った後、先程バックパッカーがやって来た農村の道を逆方向に進んでみること約15分。途中曲がり角の坂を少し降りれば急に視界が広くなり、幻想的な水墨画を思わせる山々が間近に迫る。そしてそのパノラマに見下ろされるようにたたずむ赤い屋根のコテージ。ここがブンルット先生の言っていたバンビエン・リゾートか。営業中ではあるようだが、確かにあまり知られていないのか人はまばら。ここまで来たらもう泊まるしかあるまい。
中国の桂林の写真等で見られる、山水画から抜け出たようなその妙な形の山々。ふもとには岩の間を縫うように流れる細く青い小川。触ればゾクッとするほど冷たいその水面に顔を近付けるとそこは小魚の天下。突然頭上からカサカサと音がしてふと見上げるが、そこには木が一本立っているだけ。木には「ピー」と呼ばれる土着の精霊の祠が祭られていた。風も無いのに今の音は何だろうと分析しようとするが、後はただ静けさが続くだけだった。
ある山の岩肌にちょっと急な階段が設けられ、その先に広がる洞窟に入れるようだ。僕と田中さんが早速上がってみると、洞窟の入口には現地人のおっさんが一人座っており、僕達を見ると懐中電灯を手に中へ案内してくれた。どうやらここは鍾乳洞らしい。ロープの張られた進行通路を縦一列になって歩く。日本や中国でいくつか鍾乳洞を見たことのある僕にとって特別新鮮さは感じなかったが、途中体を横にしないとくぐれないような狭い道に入ったりして幾分スリル感を味わえた。やがて狭い道を抜けると、そこから先は広い道がまだまだずっと奥の方まで続いていた。まだ整備中なのか、人が通れないようロープが張られ、電灯も無い真っ暗な世界となっていた。その時、ここまで先導してくれたおっさんが、もし興味があればあのロープのもっと先まで行ってもいいよと言い出したのだ。管理人とは思えないその発言に、冒険心をかきたてられた僕達は早速ロープをまたいでその暗黒世界に挑戦してみた。ロープの向こうで待つおっさんが見える所までは彼が懐中電灯を照らしていてくれていたのでスムーズであったが、少し離れると辺りが全く見えなくなり、手探りで動かざるを得なくなる。加えて足元の岩は大量の水分を吸っており、これがまた滑り易い。とたんに進むペースが遅くなった僕達、結局十分もしないうちにおっさんのもとへと舞い戻った。どう考えてもこんな軽装であそこから先を行くのは不可能、おっさんはわかりきっていたからあえて僕達をロープの外に行かせてくれたのだろう。中国等の鍾乳洞に見られるケバいライトアップには興ざめするものがあるが、懐中電灯一つのありがたみがジーンと感じられる所はここが初めて。
メコンの支流であるナムソン川に沿って歩いて行くと、近くに村がある。子供達が素っ裸で川の中に飛び込み、はしゃいでいる様子をのんびり眺めていたその時だった。向こうから水浴びの帰りと思われる一人の青年が歩いて来て、何やらラオス語で僕達に話しかけてきたのだ。当然ラオス語なんてわからないので、彼の質問には答えられない。しかし我々は日本人だとか、この川はキレイだとかありきたりな話を英語やら身振り手振りやらで必死に表現しながらコミュニケーションを試みると、彼も面白がってその会話についてきた。こんなやり取りの中でまず彼の名前がマイということがわかった。ドゥー ユー ハヴ マダーム? マイはアクセントの強いカタコトの英語を交えて僕達にいくつも質問する。多くは意味がわからず、田中さんと二人で連想ゲームを展開する始末。
「女が欲しいかって意味か?」
「いや、結婚してるかって聞いてるんじゃない?」
「ドゥー ユー ハヴ・・・」
今の質問に答える間も無く、次の質問が始まった。僕達は身構えてその後の言葉に耳を傾ける。
「キース・・・、レコー?」
キースレコー? 現地語だろうか、フランス語の単語を混ぜているのか、さっぱりわからない。
「キスしたことあるかって聞いてるのかな。」
「テープレコーダーを持ってるかって聞いてるんじゃないのか?」
僕達はウォークマンをイメージした仕草をしてみると、彼は「キースレコー、キースレコー」と繰り返しながら手振りで首飾りを表現した。いやはや、さっぱりわからない。するとマイ、川沿いにある近くの家を指差し、僕達に来るよう手招きした。どうやらそこが彼の家らしい。さてさて、どんな所?
これが忘れられない感動の出会いとなるのか。よくテレビであるような。などと二人で変な期待をしながら初のラオス人のお宅訪問。マイに先導され、高床式民家を囲む竹の柵に取り付けられた扉を開くと、そこには小さなテーブルが置かれ、その上に瓶のジュースやコーラが十本位並んでいる。本業とは思えないが、飲料品店をやっているらしい。家の階段の前に来ると、マイの母親らしき女性が薄暗い中から顔を覗かせた。サバイディ(こんにちは)。ほとんどこれしか知らないラオス語で挨拶すると、女性はタイ等で見られるような合掌の挨拶で応えてくれた。マイに勧められて竹編みの涼しそうな床に腰を下ろすと、彼の兄弟らしき若者が先程の入口からコーラを二本持って来て僕達の前に置いた。マイはこのコーラを指差して何か言葉を発した。以前フランス料理店でアルバイトしていた田中さんはフランス語の数字だけは知っていたので彼がフランス語でコーラの代金を言っていることが聞き取れた。何だ、金取るのか。その時はこの家の珍しさが優先して、対して気にもしていなかった。他の家族はまだ帰って来ていないようで、家の中は先程の母親と兄弟の三人。三つある部屋をそれぞれ案内してもらったが、僕達のいる広間を含めほとんど電気が通っていない。奥の方の台所だけ唯一蛍光灯が一本ぶら下がっていた。日が暮れるにつれ、向かいに座るマイとその兄弟の顔が暗く薄ぼやけてくるのがわかる。僕達は引続き身振り手振りやカタコトの英語を使って対話を試みた。家族は何人か、結婚しているか、兄弟は何人いるのか、学生か等々、極めて簡単な質問であるにもかかわらずこれらをそれぞれゼスチャーゲームで表現するのが一苦労。兄弟と理解していたマイの隣の若者との関係について聞くだけでさえ、フレンドもブラザーも知らない人達にどうやって質問の意図を理解させればいいのか。いやはや力不足。ほとんど満足いく回答も得られないまま疲れ果て、最後はほとんど作り笑顔で互いの健闘を称え合うだけだった。ぬるいコーラを飲み終え、そろそろおいとましようかと腰を上げた時、マイはすかさず「キープ!」と叫んだ。この一言だけは理解できた。やれやれ、コーラの代金を払えってか。疲労もあってか、何だかちょっとしらけ気味の僕達。とりあえず財布からキープ札を取り出して彼に手渡し、村を後にする。悪く言えば新手の物売りだが、よく言えば何も出せない経済環境の人達が本来売り物であるコーラを持ち出してまで歓迎してくれたのだ。だが生活上タダってわけにはいかないので代金だけは徴収させてもらった・・・。せっかく実現した初の現地人家庭訪問。そう考えてあげる方がいいのかも。ともあれ当初とは別な意味で忘れ難い思い出となった。
町で一軒の飯屋を発見。ここのビアー・ラオは常温なので、やや違和感を感じながらもタイでポピュラーな飲み方「サイナムケン(ビールの氷割り)」でまずは乾杯。初めての店なのにちょっと振り向くと「ハイ!」と挨拶される。はて誰だったかと思い返せば、昼間に市場でたまたま道を尋ねてきた欧米人旅行者だったりする。この町で飯屋はここだけなのか。店を出ようとすると、入口近くで自転車を押しながら歌を歌っている者あり。決して美声ではないその声の主、まさかと思えばやっぱりマイ。偶然再会した彼と途中まで一緒に帰った。田舎道の涼しい夜風が頬を撫でるような柔らかく心地の良いラオス最後の夜。立ち並ぶ大きな木々の葉が風に震動する。小型モーターがブーンとうなるような奇妙な音。人々はこれを精霊達の会話だと思ったのか。怖くもすがすがしく、物寂しくも優しい空気を持つ国。マイの一件ぐらい目をつぶれ。この永遠の田舎に最後もう一度乾杯!