第十二回 「パゴダの国との奇妙な縁」
          
(ミャンマー編)

Myanmar


ミャンマー旅の期間:2003年1月31日~2月12日 12日間

訪問地:ヤンゴン、バガン、キンプン、バゴー、パテイン



 

 二日目:ヤンゴン初歩き

 

疲れていたとは言え、翌朝は7時台に起きた。今日は日曜日。クリスチャンであるノーノーは娘のサクラちゃんを連れて教会に行く。礼拝というわけではなく、近隣の子供達が集まって歌の練習等の活動があるのだ。記念すべきミャンマーの初日。せっかくなので一緒に見てみることに。

 早速トイレに行き用を足す。しかし・・・、水が流れない。すぐ近くの洗面所の蛇口をひねってみるが、やっぱり水が出ない! 周りを見回すと水の一杯溜まった洗面器や「たらい」がやたら多いのに気づく。昨晩の時点ではその意味がわからなかったが、彼等は断水の時はいつもこのように水を貯めて使っていたのだった。さて困った、とりあえず桶から掬った水を便器に加えて押し流す。こんなことなら昨日疲れていてもシャワーを浴びておけばよかった。

 

 快晴のヤンゴンの朝。ノーノーとサクラちゃんで教会へ向かう。まだ3才の女の子である上、家庭ではビルマ語を使っているのでまだ日本語がわからないサクラちゃん。突然の異邦人の来訪を少し怖がっており、全く顔をこちらに向けてくれない。どこに行ってもなぜか子供と犬には好かれる僕であるが、サクラちゃんを手懐けることだけは極めて至難の業であった。

 「♪サンキュー サンキュー ジーザス!!」

 サクラちゃんと同年代の子供達が教会の一室に集合し、歌と言うより絶叫してるだけのような元気な大合唱が響き渡る。周囲では学芸会を見るかのように「あれ、うちの子よ」などと親同士でにんまりしながら和やかな雰囲気が伝わってくる。集う人々の多くはカレン族やカチン族等非仏教系の少数民族とのことだったが、ビルマ族も少しはいるらしい。活動の終わった後、ファーストキッチンのような店でパンとコーヒーの朝食。ミャンマーの朝と言えばスープ麺、モヒンガーじゃないのっ?! と思う所だが、ヤンゴンの若者には最近このスタイルが流行り始めているらしい。でもそのまんまドーナツの中に入っている「キムチドーナツ」とか日本のスズキなんとかという商社から輸入した「スズキコーヒー」なんて妙なメニューもあった。店員に片言のビルマ語で「チュマ ナーメー スズキ バー(僕スズキです)」と言ったらウケた。 

 

 「わたし、停電全然問題ないよ。だけど水ないの、本当に困るねー。」 

ノーノーもそう言ってため息つきながら家へと戻る。その時、ミャンマーに来て最初の吉報が舞いこんできた。留守番していたノーノーのお母さんいわく、今空港から電話があり、荷物がバンコクから届いたので取りに来るように、とのことだった。ああ、やっと贈り物を渡せる! 僕はノーノーと一緒に早速空港に向けてタクシーをブっ飛ばした。早く! とにかく早く!! 言葉はわからないけど気迫で運転手を急かす。

 

 空港着後、入口にある事務所にパスポートを預け、許可証を首からぶら下げた僕、到着口を逆行して中へと駆けて行った。

 

 

 「ここはね、ホテル日航です。私達ね、ここでね、結婚しました。」

 「ここはね、日本大使館。私ね、ここでスピーチコンテストやったよ。N先生の話しましたね。」

 「ここはね、お金持ちの人のマンションが多いよ。サクラはね、ここに来て英語のプライベート・レッスン受けてるよ。」

黒い大きなボストンバッグをよっこらしょ、と足元に置き、足取り軽やかにN宅へとUターンするタクシーの中、車窓に見えるいろいろなものを指差すノーノーの説明をウキウキしながら聞いている僕がいた。荷物が無事見つかりさえすればこっちのもの。やっと普通の旅行者に戻れた喜びが全身にみなぎっている今、暑さなんてなんのその。バッグの中にある大量の頼まれ品や贈り物を渡し、重い手荷物がどんどん軽くなっていく快感を早く味わいたかった。

 

 実は今日の11時にN宅で、もう一人の文通友達であるタンダちゃんと会う約束をしていた。その時間はもう過ぎていたのだが、多分そこはミャンマータイムで遅れて来るだろうという思い込みがあったので、すっかり安心していた。ところが家に着いてみれば、彼女はちゃんと約束の11時ピッタリに来てくれているではないか! 昨日シャワーに入らなかった僕の頭は汗でボサボサになっており、初対面でこの姿は格好悪過ぎと思い、失礼を承知で彼女をもう少し待たせてシャワー、ではなく「たらい」の水で頭を洗った。しかもこの時間帯は無情にも断水に加え、停電にも見舞われたため、真っ暗な洗面室でシャンプーやタオルを手探りで探ししながら頭を洗うはめに。時々滑ってコケながら、昨日横着してシャワーに入らなかった自分にブツブツ文句。

 さてさて、とりあえずお待ちかねのタンダちゃんとの初顔合わせが叶った。目鼻の整った少しインド人風の美女であることは写真で知っていたが、スックと立ち上がった瞬間、背がほとんど僕と同じぐらいで、モデルのようにスタイルのいい女性であったことに驚きを隠せなかった。中国、タイ、インドの接点にあるミャンマーには和風から南国系、エキゾチック系といろいろなタイプの容姿とエレガントな雰囲気を持ち合わせた女性が多く、知られざる美女大国だったのだ。

 

 彼女の出身はノーノーと同じく西部の港町パテインで、今はヤンゴンの祖母の家に住みながら、N先生のW日本語学校とは別の日本語の塾に通っている。ミャンマー外語大日本語学部を卒業しているものの、ミャンマーの教育事情は少し複雑な所があり、卒業とは言え実際は二年間しか在学していないのだそうだ。加えて日本人と話した経験が無いため、かなりゆっくり話さないと会話が思うように通じない所はあったが、ノーノーも交えて明日以降の旅程を相談した。

 

 今回の旅ではいくつかの都市を訪ねる予定であるが、今の僕の計画はこうだ。まず今日は午後から一日ヤンゴンを散策。N先生の学校の生徒がボランティアガイドとして案内してくれることになっている。翌日は中部の仏教遺産で有名なバガンへ飛び、一人で遺跡散策。戻ってからはノーノーと東部の神秘的な奇跡の岩の寺院のあるキンプンへ。そして西部のパテインへはタンダちゃんと行くこととなった。ただしミャンマーのみならずアジアのほとんどの国では独身の男女が公の場で一緒に行動するのはよろしくないという風潮があるため、タンダちゃんは今回、クラスメートのチョー・チョー・キンさんという女性の友達を連れ立っての登場だった。つまりパテインへ行くのもこの三人で、ということになるわけだ。さしずめ監視付きデートといった所だろうか。男女交際が比較的オープンな中国、韓国、フィリピンでさえ以前このような「三人デート」を体験したことがある。ましてや保守的な仏教国と言われるミャンマーなら尚更だろう。彼女は試験があって、今週一杯は忙しいとのことなので、しばらく雑談をした後、来週の再会を約束してひとまずお別れした。

 

 「では、教室に行きましょう。ボランティアガイドの方が待ってます。」

長年使いこんでそうなシャンバッグを肩にかけたN先生に促されて席を立つ。ここから徒歩十分ぐらいだというW日本語学校へと向かった。

 N夫婦宅のマンションから一歩外に出ると、道路は将棋盤みたいに縦横の直線によって結ばれた比較的分かり易い街並み。首都だと言うのに道路がきちんと舗装されていないのか、車が通る度に路肩に砂埃が舞う。そんな直線道路を挟んで古いイギリス植民地風の建物が並んでいる。いずれも二階より上が住居で一階が店舗となった「ショップハウス」と呼ばれる建築スタイルで、デリーやクアラルンプールの街角でもよく見られた。これら洋風の白い建物、遠目からはコロニアルな異国情緒も感じるが、よく見れば生活感あり過ぎるほどに至る所が煤(すす)で黒ずんでいる。これら建物が庶民にずっと愛され、使われ続けてきたことに本当の意味での東西融合が伺える。歩道が建物の一階部分に食い込んでいるので雨が降っても大丈夫。暑い日は日除けになるので、新聞屋に果物屋、串揚げのような料理の屋台等が歩道の隅を陣取って活気立っている。仏教国であるミャンマーではあるが、同時に多民族国家なので、仏教のパゴダの他にも教会、モスク、道教寺院やヒンズー寺院とバラエティに富んだ宗教施設が街を彩る。空港周辺が緑化されているのはどこの国でもあることだが、ここでは市内も同じように緑が一杯。並木通りには、タコ足のような蔓が垂れ下がった、まるでジャングルに生えていそうな大木が使われていた。こうした木々の枝には沢山のカラスが群れており、昼間からカァカァと騒いでいる。でも日本で問題になっているようなゴミを漁ったり、住民を威嚇したりするカラスとは雰囲気が大分違う。人など構わずに木の上で勝手に過ごしているといった感じだ。

 

 街を歩く人々の多くは男女共にロンジーと呼ばれる巻きスカートのような民族衣装を着て、肩からはシャンバッグを下げているスタイルが多い。独特で面白いのは、ほっぺたにまん丸の模様を描くようにタナカーと呼ばれるおしろいを塗りたくっている女性が少なくないこと。特に炎天下ではヒンヤリして涼しい上、日よけの効果があるそうで、他の南国同様日焼けを好まない女性達がよく利用している。女性のみならず子供でも塗っていることもある。それにもう一つはコーンヤーという噛みタバコ。石灰を混ぜたクリームを塗りたくったタバコの葉に、ビンロウと呼ばれる木の実や漢方薬のようなものをくるんだ嗜好品で、男性や年寄りがクチャクチャとこれを噛みながら、時々赤いツバを吐いている。これは決して血ではなく、コーンヤーを噛んでいるとツバが変色するのだそうだ。実際タバコのように習慣性の強いものらしいが、人々はこれを健康の薬だと思って噛んでいる。以上が街行く人々を見て、これぞミャンマー! と感じさせられる四大アイテムと言ってよい。

 

 そしていよいよW学校に到着。二棟からなる校舎のうちの第一校舎である。狭い階段を昇ってまずある事務室に顔を出すと、そこのソファに座っていた女性がすぐに立ち上がった。先程のタンダちゃんやチョー・チョー・キンさんと同じような伝統的なワンピースの衣装を着ていた。

 「初めまして。私の名前はメイ・ミョー・ミュッです。」

 「こんにちは。メイ・ミョー・ミョーさん?」

 「メイさん、でいいですよ。」

流暢な日本語を話す少し色黒のその女性が今回のガイドさんだった。

 

 W学校を後にし、僕とメイさんはおしゃべりしながら日差しの強くなったヤンゴンの街を歩く。やはり日焼けはキライなのか、きちんと日傘を持参しているメイさん。

 「へぇ。メイさんって、日本語だけじゃなくて中国語も上手なんだね。」

 「はい。小さい頃から僧院で中国語や日本語を習って親しんでいました。」

その昔日本にも寺子屋という塾のような教育施設があったが、ここミャンマーではそれが今も生きているらしい。この国では知識人の部類に入る僧侶達がお寺の一郭を開放し、これまで培ってきた知識を出し惜しみ無く、無償で庶民達に伝授しているのだそうだ。この国においてお寺は信仰の場所というだけではなく、気軽に相談をしたり、いろいろな文化を学んだりできる市民センターやカルチャーサロンの役割も果たしているとのこと。そう言えばキリスト教圏でも教会はボランティア活動に勤しみ、イスラム圏でもモスクが学校を運営することが多い。これら国々の宗教施設って、僕達が想像する以上に生活に身近なのだ。そう考えてみると普段檀家の法事や葬式ぐらいしか行っていない日本のお寺の方がむしろ特殊で、庶民から遠い存在となっているのかも知れない。

 それにしても彼女と少し中国語で話してみたが、少なくとも一年か二年は中国に留学していたのではないかと思うぐらい流暢であった。彼女は中華系というわけではなく、大学で中国語を専攻しているわけでもなく、普段中国人を相手に仕事しているわけでもなく、そしてミャンマーから出たことも無い。ただお寺でお坊さんから習っただけである。日本でその辺の中国語教室で勉強するだけで中国語がベラベラになる人がいったいどれだけいるのだろう。しかも彼女は日本語だって流暢。英語もできそうな感じだった。ま、僕は人のレベルを試すほど英語力は無いので確認はしていないが。いやはや、こんな人材がウジャウジャいるのかと思うと、ミャンマーって今後すごい国になっていくのでは? 一時期ビジネスの世界でベトナムが注目されたように、「これからは真面目で、温厚で、外国語に強い人材が多いミャンマーだ」なんてマスコミに騒がれる日もいつか来るのかも知れない。

 

 途中日本の「ミスター・ドーナツ」を発見! なんだ、ミャンマーにもあるのかと思って興味半分に近付いてみれば、看板もディスプレイもそのままミスドなのに、名前の部分だけ「Jドーナツ」と書かれていた。ここまで大っぴらにやって大丈夫なの? と他人事ながらちょっと心配になってしまうお店だったが、意外と店内は賑わっていて大繁盛。今朝、教会の帰りにもこうしたファーストフード店で朝食を摂ったが、最近ドーナツ系の軽食を出すフランチャイズ店が若者の間で流行っているらしい。話のネタにちょっと入ってみよう。メイさんはもうお昼を済ませたとのことだったが、ちょっと付き合ってもらう。やはり店頭に並んでいたのは、甘ったるそ~な水っぽい砂糖がたっぷり乗った、正に・・・、あのドーナツであった。何か妙に懐かしくてつい何個か食べてしまう。味も確かにミスドであるが、本物の方が砂糖を表裏万遍無く塗りこんでいるのに対し、こちらは上の部分だけ塗られているという点だけが違っていた。さてはこの店のオーナー、以前東京のミスドで修行してたのでは? それにしてもこの国で食べると何だか最高の贅沢品を口にしているような気分になってしまう、そんな一時だった。

 店を出た僕、一瞬我が目を疑った。関東バス?! 東京の自宅の前の通りをいつも走っているあのおなじみのバスが今、確かに通り過ぎて行ったのだ。日本車であるというアピールのために、わざと日本語の社名を残したワゴン車等が異国の街角を走っている光景はパキスタン等でもよく見かけたのだが、とりわけミャンマーでは一昔前に日本で使われていたバスやタクシーといった交通機関がれっきとした庶民の足として現役を貫いている。中には床が木製のバスや、車掌が立っていたとされるブース(車掌が実際乗っていたのはさすがに見たことはない)が残ったバス等、今となっては子供の頃に乗った記憶しか無いお宝級のバスにお目にかかることも珍しくはない。東京でのイベントを通して日本に住むミャンマー人と接することもあるが、逆に彼等も日本に来た時、バスやタクシーを見たら懐かしさを多少感じるのではないかな、と思ってしまうほどそのままの状態で使われているのだ。どのバスも人が後部にぶら下がっているぐらい満員状態で、日本にいた時以上に酷使されているのではないかと思うほどであった。バスだけじゃない。日本語表記の残った中古車に見せかけようと、「日野自動車株式会社」というたどたどしい筆跡がわざわざ車体に書き殴られたトラックもあった。それにしてもこうした日本車が元気に走り回るヤンゴンの街角。どこ行ってもワーゲンのサンタナばかり走っている上海の街よりもずっと親しみを覚えるのだった。

 

 かくしてプレミア級日本バスを通り越した博物館級の韓国製中古バスに乗ってまずは国立博物館に入る。早速僕にだけ外国人料金が適用される所など、まるで十年前の中国だ。内部は見た目以上に広くて奥行きがあり、旧王朝時代のきらびやかな玉座に始まり、昔の庶民の生活用具、近代の芸術作品、少数民族に関する展示等がテーマ別となって広々とした空間に陳列されている。どこまで続くのか、今日中に見終わるのか、少し心配になるほど豊富な展示量。絵画と書の展示コーナーなどは迷路のように曲がりくねった幅の狭い見学順路が延々と続いていた。ここでよく描かれていたのは「ナッ」と呼ばれる精霊、と言うか土着神の絵。顔は白い肌の美男美女であるが、頭の上に鬼のような仮面をヘルメットのようにかぶっている。バンコクの王宮の門の前に立つ尖った兜姿で牙を生やした像にそっくりな鬼の仮面である。彼等は普段は優しい人間の姿をした神であるが、一度怒らせてしまったら最後、頭の上の仮面がカシャっと装着され、恐ろしい鬼と化して人々を襲うのだそうだ。でもメイさんいわく、鬼の顔の方が本当の素顔なのだという。でもどう見たって鬼の顔が配置的に仮面だと思うんだけどな・・・。ま、日本にも顔面を白塗りにしたメイクの顔を素顔だと主張する歌手もいるが。

 少数民族のコーナーでは百を越すすべての民族の伝統衣装を着せたマネキンが全フロアを使った展示室を囲むように並んでいた。ビルマ、カレン、カチン、シャン、パオ、モン、チン、ヤカイン、カヤー、ワ、ラフー、ヤオ、ナガ、インダーと、一同に集合した各民族の衣装が照明のやや暗い展示室を極彩色に彩る。でもよく見ると、百以上の民族と言っても、重複している民族も多々見受けられる。例えば同じタイ族でも住んでいる地域によって更に部族が細分化されており、それぞれの部族を一民族として扱っているので、正確には百以上も民族はいないのだろう。また、バングラデシュからの違法居住者とのレッテルを張られ、公式には民族として認められていない西部イスラム教徒のロヒンギャ族はこの中に含まれていなかった。それだけでなく、都市部ではそれなりに大きな勢力を持っているはずの中華系やインド系の衣装がこの中に無かったのはなぜだろう? 中国もそうだが、民族を政府が認定している国では、この「民族」という概念にやたら政治的要素が介入してしまうものなのである。

 これだけ見て回っているのに、僕達以外の見学者は一人として見当たらない。各展示室で見張りの係員がヒマそうに腰掛けているだけ。しばらくして、近くで展示品を眺める地元のおっさんが一人いるなと思ったら、展示室を一回りするとそのまま係員とおしゃべりを始めた。単なる係員の友達のようだった。

 

 博物館を見終わった後、僕達は寝釈迦で有名なチャウッタージー・パゴダに行くべくタクシーに乗ろうとした。タクシーもまたかつて日本で使われていたであろう緑色や黄色の見慣れたお姿であった。しかしこのタクシー、本来地元民の感覚ならここからパゴダまでは150チャットで行ける距離なのだそうだが、200チャットからガンとして下げようとしない。メイさんが目的地を言った時に連れの僕が外国人であることを見破ったようだ。日本円にすればたかが5円とは言え、僕を一瞥しただけで料金を吊り上げやがって、とちょっと腹立たしくもなる。しかしこの通りではあまり長く車を停めていられなかったため、もう少し粘りたい気持ちを抑えて乗り込んだ。

 やがてやって来たパゴダ。随分上の方まで続いている石の階段に沿って、仏具やお土産類を売る出店が並んでいる所など神社の縁日のよう。一つ違うのは石段を昇る時点で靴を脱がなくてはいけないこと。ゆっくりペースで上まで昇ってみると、現れた寺院には何と壁が無く、そのまま屋根の下に金色の袈裟を身にまとった巨大なお釈迦様が横になっていらっしゃるのだった。全長約15メートルはあるだろうか。白くてまつ毛の長いパッチリした目と、まるで口紅をつけているような赤い唇が妙に色っぽい仏像である。そう言えば中国でも観音様は女性の姿をしている。男性か女性かわからない中性的な雰囲気に聖なるものを感じる民族性がこの辺りにはあるのかも知れない。人々は寝釈迦の周りにしゃがみこんで手を合わせ、無心に祈った後は家族や連れ達とその場で車座になってくつろぎ始める。そんな平和な時間を過ごす人々に寝釈迦はうっすらと微笑みかけながら見守っているようであった。ふと天井を見上げると、そこにはビルマ文字や漢字が一面に大きく書き込まれていた。漢字ははっきり言って左手で書いたのかと思うぐらい下手である。何であんな下手な書がこの境内に飾られているのか? ビルマ語の方は読めないが、漢字の方はよく見ると全て人名。どうやら建立資金をお布施した人の名が刻み込まれているようで、その中に中国人か台湾人がいて、恐らく漢字を知らないミャンマー人がメモに書かれた漢字の人名をそのまま記号と同じように模倣して書いたのだろう。

 パゴダの近くに、水の溜まった壷が何個か置いてあるのを見かけた。メイさんはその壷の水を柄杓に汲んで飲んでいた。ここを通る人は誰でもこの水を自由に飲んでOKらしい。壷を置いた人は見ず知らずの人に水を飲ませてあげることで、功徳を積んでいるということなのだ。しかしこの壷の水、普通の生水なので外国人がそのままグビグビ飲むには適していないかも。僕は手と顔を洗うだけにとどめておいた。

 再びタクシーに乗った僕達はいよいよミャンマー仏教の総本山、シュエダゴン・パゴダへとやって来た。パゴダ以前に、まず入口に立つ二頭の狛犬のあまりのデカさにただ圧倒。昇り階段も先程の寝釈迦パゴダとはスケールが違い過ぎる。何と、階段が億劫な人のために境内まで直行のエレベーターまで完備されているのだ。もちろん階段でもよかったのだが、ここは時間の短縮とミャンマーのエレベーター体験という意味で乗ってみた。この時一緒に乗り合わせた現地人が手に持った花をいきなり僕達に売りつけてこようとした。物売りがエレベーターを利用する気持ちはわかるが、エレベーター内での販売行為はちょっとルール違反じゃない? ま、ルールなんて元々無いんだろうけど。かくして扉が開くと、金色の仏塔と燦燦と照る太陽に反射して、まぶしい大理石の床が目の前に広がる。しかし入口をくぐるや、隅っこの小部屋にいたオバサンが大きな声でこっちに来いと僕を呼ぶ。やれやれ、入場料か。外国人はすぐに見破られるんですね。中に入って散策している時にも、たまに私服姿の係員が建物の影からスッと現れては英語で呼び止め、入場料と引換えにもらったワッペンの提示を求める。まるで探偵に尾行されているみたい。何もそこまでしなくても・・・、と思うのだが、外貨がのどから手が出るほど欲しいミャンマー政府としては、観光客が不愉快に感じようが何しようが、とにかくしぼり取るだけしぼり取れ、という考え方なのか。もっといい方法考えないと強制両替と同様、観光客の評判はどんどん悪くなるのにな。

 しかしこのパゴダ。日本人が普通に想像するお寺のイメージからかけ離れ過ぎている。大小様々な金色の仏塔がどこまでも立ち並ぶ林そのもの。仏塔の先には小さな鈴が付いており、風に揺られてチリン、チリン、と鳴る真夏の風鈴のような響きが、人々で賑わいながらも静かで荘厳なこの境内を安らぎで包み込む。各仏塔の中には、かくれんぼするかのようちょこんと座る仏像。人々が小さなバケツに入った水を柄杓で掬い、その仏像の頭からゆっくり、何度も水浴びさせている。よく見るとその脇には人がしゃがみ込んでやっと入れるぐらいの小さなスペースがあり、中では地元の男性が瞑想にふけっていた。やはりミャンマー人のセンスなのか、仏像はいずれも女性的。でもお上品というわけではなく、どこかその辺の人にも似ている庶民的な雰囲気を漂わせている。そしてどれ一つとして同じ顔をしている仏像はいない。中には北京留学時代に仲の良かった友達によく似ている仏像もあった。このように仏塔や仏像が同じ場所に無数に乱立しているのは、古くから様々な人々が功徳の一環として寄進をしてきたから。日本のお寺で寄進者の名前が提灯に記されているのと同じように、こちらでは仏像の顔を寄進者にどこかしら似せて作っているのかも。

 「いやー、それにしてもすごい規模のお寺だね。」

 どこまで行っても金色の塔の林がずっと続いているこの幻想的な空間をまばゆいばかりに見つめながら言うと、メイさんから意外な返事が返ってきた。

 「いえ、このミャンマーには日本で言うお寺に当たる建物は存在しないんですよ。ここもお寺ではありません。この国にあるのはパゴダか僧院のどちらかです。」

本来釈迦の骨や髪の毛等、体の一部が祭られているという仏舎利信仰から始まった仏塔崇拝の実践の場であるパゴダは確かに寺院という概念とは少し違う気はしていた。僧院というのもキリスト教で言う修道院のようなものだとしたら、それもまた寺院とは違うものかも知れない。むしろ以前訪れたタイの方がもう少し寺院らしい体裁を構えていた。するとここは原始仏教に最も近い国なのか。

 所々に特定の動物が祭られた祠のようなものがあり、人々が主にその近辺に座り込んで祈っている。これには非常に面白いミャンマーならではの習慣が背景にあった。ミャンマーには、日本の「十二支」に似たようなものがある。しかし「十二支」が年ごとであるのに対し、ミャンマーは曜日ごとに各担当の動物がいる。つまりこの国では例えば月曜日に生まれた人は寅年、火曜日に生まれた人は獅子年、といった表現をするので、誕生日以上に自分の生まれた曜日が非常に重要視されている。人の名前からも生まれた曜日がわかるほどらしい。しかもミャンマーでは一週間に八つの曜日が古来より設定されており、水曜日を午前と午後に分けて、午後の方を「ヤフー曜日」と言って別の曜日にしていた。曜日が八つあるなら、各曜日をつかさどる動物は八種類いる。そんなわけで、パゴダの周囲にはこれら八種類の動物の祠が置かれ、参拝者はそれぞれ生まれた曜日の動物が祭られた祠から参拝するというルールになっているのだそうだ。そう言えば日本でミャンマー関係のイベントに参加した時、何人かのミャンマー人から、あなたは何曜日の生まれですか、と聞かれて戸惑ったことがある。日本ではそんな事気に留める人など普通はいない。日本ではなぜあんなに人の血液型に興味を示すのか、と外国人は首をかしげるが、国が変われば価値観や見方が全く変わってしまうことの典型的な一例と言える。

 

 パゴダを囲む白塗りの壁の隙間から日が西へ沈んでいくのが微かに見えたので、ここで引き上げることにした。帰りは横幅の広いどこまでも下に続いている参道の階段を降りて行く。両脇に並ぶお土産屋にはミャンマーならではの可愛らしい張子の置物が所狭しと並んでいて、思わず足を止める。一番驚いたのは日本の姫ダルマに非常によく似た「ピッタニタン」という置物。見た目はもちろん、転がしても起き上がる仕組みまで日本のダルマと同じである。確かに日本のダルマも元々は達磨大師をモチーフにした縁起物なので寺院で売られているが、この「ピッタニタン」のベースは達磨大師とは関係無いようだ。では何なのか、と聞いてみたがメイさんも詳しくはわからない様子。わかっていることは大人気の縁起物としてミャンマー全国で見ることができるということだ。また、二羽で一組のフクロウの置物も人気。これは日本で言う招き猫みたいに商売の縁起物として店先に飾られていることが多い。大きさは携帯ストラップぐらいのものから1メートルはありそうな特大サイズまである。現地ではサウンと呼ばれるビルマの竪琴は日本でも有名だが、この竪琴を象ったミニチュアの置物もあった。日本の番傘にそっくりな伝統的な傘の飾りもある。鮮やかな原色に花の刺繍の入った布が張られていて、これはタンダちゃんやノーノーの故郷パテインの名産なのだそうだ。

 

 ノーノー宅に帰る前にCD屋さんに寄ってもらい、今流行りの歌手のテープやCDを買いあさった。アジアのポップスが好きな僕、この国に来る前からミャンマーポップスにも興味があったのだが、かつてこの国の歌謡界を独占していたメイ・スウィ、ヘーマネー・ウィン、ミミ・ウィンピ、ポーダリー・ティンダンといった大物歌手は次々と海外移住、もしくは引退をして、すっかり世代交代が完了した後のようだった。今は女優としても人気のトゥン・エインドラボーを筆頭に、ティリ・ココやヤーダナー・ウー、そしてシュエ・タイといった歌手の人気が急激に上昇している。ま、従来の歌手同様外国の歌のカバーが多いのは相変わらずだが。やはり政治的にやや鬱積がある分中国と環境が似ているのか、ロック界も従来かなりの支持基盤を築いてきた。全てビルマ語ではあるもののかなりヘビーなロックを歌うゾウ・ウィン・トゥー、そしてレー・ピュー&アイアン・クロス等は今でも若者の間でカリスマ的なロッカーである。たださすがに80年代から歌い続けてきた彼等も既に40代半ば。若手では確かにエレス(ALEXと書いてエレスと読む)というのが人気ではあるが、全体的にはそろそろ世代交代という所まで来ている。しかし彼等に代わる後継者が育っていないので、その分新規参入のヒップホップ系歌手に支持層を持って行かれてしまっている。現にヒップホップ系はいろいろなグループが続々登場して十代の人気を独占しており、さすがの僕もチェックしきれないぐらいの勢いだ。そんなわけでミャンマー音楽界は今激動の時期なのである。しかしその割には制限の多いお国柄ゆえか、コンサートもそんなに多くないし、彼等のテレビ出演はほとんど無い。唯一メディア上で登場できるのは意外にもCM。この国のCMはまるで音楽番組かビデオクリップかのように歌手が終始歌っているという賑やかなもの。宣伝している商品自体は歌手が歌っている背景にちょこっと写真やロゴが表示されているだけ。歌だって必ずしも商品と関係があるわけでもない。画面下にはカラオケのように歌詞のテロップまで出ている。人々は番組と番組の間に挟まれたこうした何気無いCMから流行を掴み取っているのかも知れない。

 

 軽トラを改造したミニバスに乗って、N・ノーノー夫婦のマンションに無事到着。そこでメイさんとお別れした。彼女は後日東南部の名所チャイティーヨー・パゴダを見に行く時もガイドとして同行してくれることになった。

 初日のヤンゴン散策を終えた僕、ノーノー宅に戻ると、台所の小さなテーブルに夕飯が用意されていた。ジャガイモを添えた野菜炒めとご飯に中華風のスープ。僕の帰って来た時間が悪かったのか、食卓は僕一人。ノーノーは長電話中だし、N先生は専用の椅子に腰掛けてテレビ観賞中。先に述べたように、この家にはN夫婦以外にもいろいろな人々が同居しているのだが、各々部屋でくつろいだりして思い思いに過ごしている様子。後で聞いてみると、この家ではそれぞれこうして時間のある時に各自食事を摂っているらしい。何とも大らかなお家である。

 

 明日は早朝からヤンゴンを離れ、一人バガンへと飛び立つ。ミャンマー中部にある世界遺産の街だ。僕は寝る前の少しの間英語を話すノーノーのお兄さんとおしゃべりしていた。N宅の夜は気が付けば一人、また一人と寝室に戻って行き、段々とひっそりしてくるのだが、一番夜更かしなのは意外にもノーノー。何でもホラー映画が大好きらしく、夜一人で起きて衛星放送の怖い映画を時々見ているらしい。でも何でまたそんな映画を真夜中に一人で見たがる? 彼女に聞いてみると、サクラちゃんが夜寝付けない時、広間でテレビ見ながら過ごしているうちに、最初は怖かったけど、次第に面白く感じるようになったのだという。しかしこの夜テレビに映っていたのはホラーではなく、中国の内蒙古電視台。テンゲルという有名なモンゴル族の歌手による、オルドスの草原でのコンサートの模様が放送されていた。ミャンマーで内蒙古電視台が受信できることに驚いたのもさることながら、僕は北京留学時代に内蒙古の友人と一緒にテンゲルと食事をしたことがあり、まさかミャンマーで彼のコンサートを見られるなんて、と妙に懐かしく感じ、ノーノーが寝室に戻った後もしばらく見入ってしまった。