第十一回 「雨、歴史、そして微笑み」
          
(カンボジア編)

Cambodia


カンボジア旅の期間:2002年8月13日~8月18日 8日間

訪問地:プノンペン、プレイベン、シエムリアプ




二日目:プノンペン散策

 

 時差のせいか、翌朝は6時頃に一度目が覚めた。窓の外からは相変わらずのバイクの音、そしてシトシトと降り続く雨の音。まだ時間はあるからもうひと眠りしようか、と再びベッドに潜り込み、熟睡モードに入ったのもつかの間、ちょうど7時にいきなり枕元の電話が鳴った。

 「ハ、ハロー?」

間違い電話に違い無いと思いながらも眠気まなこで受話器を取ると、それはツアーリーダーのEさんの声だった。

 「朝早くにすみません。この近くの芸術大学でアプサラ・ダンスの練習が見られるらしいんですけど、よかったら朝食前に皆で行ってみませんか?」

外が雨だった上、何しろ眠かったのでアプサラどころか朝食さえもキャンセルしてしまおうという思いが一瞬頭をよぎった。しかしその直後に今回初めてカンボジアにやって来たのだと気付き、すぐに参加表明をした。少しでもカンボジアの空気を自分の肌で感じ取っておかないと以前訪れたタイや台湾のように帰国後すぐにその印象を忘れてしまう。旅って案外、日常に戻ってしまうと急速に鮮明度が薄れていくものなのだ。

 

 今回もとりあえずカメラだけ持ってロビーに降りると、Eさん、I さんそして女子大生組が既に終結して待っていた。入口で客待ちしていたモトを三台つかまえ、それぞれ2人ずつに分かれてモト運転手の後ろにまたがる。芸大までの道(と言っても一直線らしいが)を知っているEさんを乗せたモトを先頭に一台ずつホテルを出発。水溜まりのしぶきを上げながら走るモトの上、雨上りの朝のプノンペンを風で感じながら振り落とされないように体を固定する。道路は舗装されているとは言えややデコボコしており、水溜りもあちこちにある。そんな場所を走るとモトはかなり激しくバウンドし、たちまち靴やズボンの裾が泥だらけになってしまう。途中通り過ぎるロータリーには国王派の野党フンシンペック党の本部があり、その党首であるラナリット前首相の大きな肖像画がロータリー真ん中に飾られ、そこを中心に道路が放射線状にのびている。もし単独でどこかに行く時はここを目印にするといいだろう。これら通りにはそれぞれシアヌーク、ド・ゴール、毛沢東、ディミトロフ、金日成等の人名が多く使われている。社会主義時代の名残か、東側諸国の指導者の名前が目立つ。

 かくして王立芸術大学に到着。モトの兄ちゃん達には一時間後に戻って来るよう頼み、帰りの足を確保して門をくぐる。象のモニュメント、そして神棚の祭られた大木を通り抜けながら、時々子供が遊んでいる以外人気を感じない静かな校内を歩く6人。かつては旧体制の象徴として弾圧され、存続が危ぶまれた宮廷舞踊であるアプサラ(天女)・ダンスだが、内戦終結と民主化に伴い急速に復活を遂げ、今は多くの学校でそれを教えている。中でもこの大学の舞踏学部が踊るアプサラ・ダンスは有名らしく、その練習風景は一般にも公開されているのだそうだ。しかしどこの教室を覗いてもカラッポであることに少し戸惑い始めた頃、宿舎らしき建物からフラッと現れたのは、僕達と同じような色白の女性。すぐにそれが日本人であることがわかった。

 「アプサラ・ダンスの練習ですか? 先週頃まではやっていましたが、夏休みに入ったので皆もう故郷に帰ってしまったようですね。」

そう教えてくれた彼女は青年海外協力隊としてやって来て、この大学で絵画を教えているのだという。早起きしてここまでやって来て結局アプサラを見られないことを知ると急に腹が減ってきた。ホテルに戻るとするか。とりあえず一見人気の無いこの小さな大学で一人頑張っている日本人がいると知ったことで、少しばかり勇気付けになった。この時急にある教室から流れ始めた民族色の濃い木琴の調べが、そんな僕達を送り出すように軽快に鳴り響いていた。 

 

 「おはようございます。皆さん早いですね。」

僕達がホテルに戻り、フロントの椅子に座って待っていると、やがてMさんとKさんが降りて来た。8人全員揃ったところで、さあ朝食に行こう、と皆で席を立ったその時だった。

 「ちょっと待って!」

この時急にKさんが口を押さえてホテルの外に駆け出した。僕達は慌ててその後を追う。

 「大丈夫ですかー!?」

I さんが真っ先に駆け寄った時、Kさんは顔を真っ青にしてホテルの入口の隅にしゃがみ込んで嘔吐していた。

 「ちょっと今朝、リンゴジュースを飲み過ぎちゃったみたい…。大丈夫だから。」

しばらくしてホテルに戻ったKさんはいつものように元気に振舞いながらそう言った。しかし成田を立つ時からカゼ気味のようだったので、これから先の旅を続けるためにも今日一日は無理しない方がいい、と僕達は休養を勧めた。

 「ありがとう…。じゃ、少し休むことにしましょう。」

朝食を取りに向かう僕達を見送ったKさんはそのままゆっくりとエレベーターの方に引き返して行った。

 

 「いらっしゃい。どの麺がいいですか?」

 「このメニューの肉がのったやつ。」

 「辛さはどのぐらいで?」

 「ちょっと辛目に。あっ、香菜は抜いてね。」

 「飲物は?」

 「コーヒー三つとミルクティー四つ。」

朝食は近くの中華系食堂の麺であった。初めてやって来たカンボジアでも、飯屋で食事する分には言葉に不自由しないこの快適さに、改めて東部アジアにおける中国語の強さを感じる。様々な民族が共存する周辺国と違いクメール族が人口のほぼ九割を占めるこの国でも、都市部の商店、食堂では華人が幅をきかせているようだ。

 ほどよい量の麺を平らげ、アイスコーヒーでのどを潤していたその時、一人の現地人の男が僕達のテーブルにやって来てクメール語で何か話しかけてきた。インドではダッバと呼ばれているステンレス製の積み重ね式弁当箱を片手にぶらさげ、もう一方の手を僕達の方に差し出している。しかし物乞いにしては態度がいやに丁重である。この時男が軽く指差した方向に皆が視線をやると、ちょうど店の入口に一人の坊さんが立っていた。ぜひお願いしますよ、と言わんばかりに微かな笑みを口元に浮かべながらこちらをじーっと見ている。南伝仏教の僧侶は普通、女性に手を触れることはもちろん、目を合わせることさえご法度だと言われている。しかしその辺は寛容なのか、いい加減なのか。托鉢さえも俗人を使いっ走りにするとは、かなりの高僧かも知れない。

 朝食後、僕達はホテルに戻る途中にあるスーパー「バイヨン」で買い物をした。学校のあるプレイベンはここよりも暑く、かつ店が少ないので事前に飲料水をまとめ買いしておくためである。冷房の効いたその中は食品類や日用生活品がきちんとショーケースに並べられており、文字通り日本人が普通に想像する通りのスーパーマーケットであったことにかえって驚きを覚えた。品揃えなんてむしろ欧米の調味料からこの国でしか見られないような小指大のモンキーバナナまで、日本以上に多種多様。わざわざ日本から持参してきたククレカレーまで売られていた。僕はその一郭に並ぶクメール語の絵本に関心を抱く。英語も併記してあったので早速買ってみた。ストーリーは一人の僧侶が豊かな自然が守られることを祈りながらカンボジア各地を周るというだけの単純なものだったが、僕達が幼い頃昔話の絵本等を読んで育ったように、カンボジアの子供はこんな絵本を読んで育っているのかと思うと興味深いものであった。とは言うもの、このような店で売っており、かつ英語まで併記してあるということは裕福なカンボジア人の子供かクメール語を学ぶ外国人がその対象なのだろう。 

 

 「おはようございます。さあ、行きましょうか。」

ホテルのロビーに着くと間も無くブンティさんが現れた。ここでリピーター組とは夜までお別れし、Mさん、Tさん、そして僕の3人は今日一日チャーターした車に乗り込み、早速市内見物へと出発した。

 「ブンティさんって、ほんとに日本語上手ですよね。クメール語とどっちがうまいんですか?」

バイクや車がにぎやかに行き交う中心街を車で通り過ぎながら、この街の最近の変貌について雑談も交えながら途絶えることなく詳しく解説してくれるブンティさんに思わず聞いてしまう。

 「一応日本語が一番できるんだけど、日本では日本語上手ですねって言われて、カンボジアではクメール語上手ですねって言われて、何だか俺って誰?って時々思っちゃいますね。」

ややおどけた調子でそう語るブンティさん。実はコン・ボーンさんがカンボジアを脱出する時彼がまだ赤ん坊だったということで一緒に日本に連れてやって来たので、人生のほとんどを川崎で過ごしており、国籍で言っても日本人なのだ。今は基金の現地代表となったコン・ボーンさんの秘書兼通訳として日本とカンボジアを行き来している。

 

 街の看板を見ていると、その建物の位置付けによって言語が微妙に違っていることに気付く。庶民が利用する小さな商店はクメール語だけ、大き目の商店やレストランはクメール語と中国語、政府機関はクメール語とフランス語、そしてホテルや旅行会社はクメール語と英語、外国人が行くような高級レストランやディスコは英語だけといった具合である。政党の看板もなかなか多い。特にライバル同士に当たるフン・セン首相率いる与党人民党とラナリット前首相率いる野党フンシンペック党の双方の看板が競うように掲げられている。街中には時々蛍光色で数字が書かれた看板と小さなブースが見受けられる。よく見ると電話ボックスの一種のようだが、肝心な電話は見当たらない。どうやら電話をかけたい人は手前の商店に申し出て、そこで携帯電話を借り、通話時間によって料金を支払うシステムになっているらしい。

 

 僕達はまずマーケットを訪れた。外からはさびれた小さな店がハモニカ長屋のように連なっているだけのように見えるが、実はこれら店と店の間にある小さな通路を通って中に入って行くと内部は何とおびただしい数の店舗がこれまたどこまでも続いている。小さな通りが入り組んでおり、一つの通りに同じ物を売る店が並んでいるケースが多い。ある通りはすべて文房具ばかりかと思うと、ある通りは衣料品ばかりだったり、車輪のホイールばかりだったり。こうした店揃えは中国の商店街でも見られるが、こんなに同業者が並んでいてきちんとした競争が行われているのだろうかと首をかしげる。ま、消費者からすれば選択肢がそれだけ豊富だというメリットもあるのだろう。織物の店が並ぶ通りでは一軒残らず店先の女性がミシンで実演販売をしており、通り一列きれいに並んでミシンに向かう女性達の姿はまるでどこかの紡績工場のようだった。観光客が楽しめそうな通りはお土産の工芸品、Tシャツ、CD等を売る店が集中している所。フラフラしていると別行動をしていたEさん達のグループとばったり出会う。早速僕達は買い物を楽しむことにした。楽器や仏像、アプサラ(天女)の像、そしてガルーダ(ヒンズーの鳥の神)の仮面等、木製の工芸品、骨董品類が所狭しと並ぶ店舗群は見る者を飽きさせない。カンボジアらしい微笑を浮かべた素朴な仏像や背後に後光ではなくナーガ(七つの頭を持つ蛇)を背負った仏像等それぞれに趣を感じられ、しかも一体2、3ドルで買えるのでつい沢山買ってしまう。笑顔を絶やさない売り子とおしゃべりしながら少しずつ値切っていくと、気が付けば同じような置物をいくつも手に持っている自分がいる。

 「これ、2ドルで買ったんですよ。」

Tさんがカンボジアの絵葉書を手にしていた。彼女の指差す所には子供を2, 3人連れた片足の男がいた。僕が買いに行くと、当初男は3ドルだと言っていたが、あの女性は2ドルで買ったんじゃないのかい? と聞くと、バレたかと照れ笑いを見せてすんなりと2ドルにしてくれた。

 CD屋で売られているCDも3ドルと安い。しかし大部分が欧米のものである所を見るとあまり地元民が利用する店ではないのだろうか。店をきりもりする小学生ぐらいの年齢らしき2人の女の子にカンボジアのポップスのCDは無いかと聞いてみると何枚か代表的な歌手のCDが出てきた。一番人気のあるという男性歌手プリアプ・ソワットのCDを試しに聞かせてもらう。香港やタイのポップスのクメール語カバーがほとんどのようであったが、過去に聞いたことのあるこの国の歌謡曲はどれもエコーの効いたやや伝統的な演歌調の歌ばかりだったことを考えれば、恐らくこれらは今最も新しい音なのだろう。アンコール・ビールのロゴマークや、カンボジアには無いはずのハードロック・カフェのマークがデザインされたTシャツを物色していると、向こうから松葉杖をついた片足の物乞いが現れ、僕を見ると手を上げてハローと挨拶し、通り過ぎて行った。よく見れば彼はさっき絵葉書を売っていた男ではないか。物売りをする傍ら、物乞いも時々やって生計を立てている人もいるようだ。最後に青いチェックのクロマーを買った。それはカンボジア人がいつも身に付けている手ぬぐいのような布。マフラーのように首に巻いたり、手ぬぐいのように襟にかけたり、ターバンのように頭に巻いたりしている。僕もこれを首に巻いてまずは身なりからカンボジア人に一歩近付くとしよう。

 

 市場を満喫した僕達4人は続いてツールスレン虐殺博物館にやって来た。ここはポル・ポト政権時代に拷問や虐殺が行われ、かつてS-21と呼ばれた収容所跡である。このポル・ポト政権、一体どんなものだったのだろうか。

 王位を父親に譲り、非同盟中立の民主路線を歩んでいたシアヌーク政権に対し、ベトナム戦争における重要補給ルートとしてこの国を確保したいアメリカはロン・ノル将軍を支援してクーデターを実行。親米軍事政権を樹立した。しかしロン・ノル政権の腐敗と独裁的体質に人々の支持は次第に離れていき、やがて反政府運動が激しくなっていく。この中心にいたのが文化大革命の影響を受け、中国型共産主義を目指すポル・ポト派、すなわちクメール・ルージュであった。彼等はロン・ノル政権打倒後すぐに急速な共産主義化を実行。まず政権を握ってから48時間以内に首都の市民を地方に強制移住させる「大下放政策」を行った。都市部の人々を旧体制の生き残りと見なし、後から人民になった者という意味合いを込めて「新人民」と呼び、本来の人民である農民から人民のあり方を学ばせるためという名目で農村へ追放したのである。彼等の政策は極めて極端で、農業に不可欠な機械を西側の産物だとして使用を禁止。国民の大多数が仏教徒であるにもかかわらず宗教も廃止。これに伴い多くの寺院が破壊され、文化遺産のアンコール・ワットも被害を受けた。更にはお金さえも廃止して原始共産制を追及した。又、彼等はこれまでの教育をすべて否定し、教師、僧侶、医者等の知識人を見つけ出しては殺害した。知識人と見なす範囲は更に拡大し、外国帰りの者や外国語を話す者、しまいには眼鏡をかけている者まで虐殺の対象にされた。知識人でない人々に対してもポル・ポトは監視の目を光らせ、一方的に押し付けた膨大なノルマに達せなかった農民、古い伝統文化を守っている者、不平不満を漏らした者、少数民族その他多くの人々が特に理由も無く逮捕され、虐殺されていった。何をもって反体制派としたのかという基準がいかに単純であったかはポル・ポトの有名な言葉が語っている。

 「泣いてはいけない。泣くことは現体制に不満があるものと判断する。笑ってもいけない。笑うことは過去の体制を懐かしんでいるものと判断する。」

このような国を挙げた大虐殺により、彼等が実権を握っていた70年代の間に全人口800万人のうち200万から300万人、つまり3人に1人が殺された。又、人々の間に子供が生まれると、子供達はすぐに両親から引き離され、特別キャンプで洗脳教育が行われた。純粋無垢な子供こそ人民の中心であるとして彼等は泣きも笑いもしない殺人ロボットとして育てられ、虐殺の担い手となっていったのである。

 

 車が停まると片足の無い物乞いがいっせいに歩み寄ってくる入口をくぐって中に入る。そこには静かな白いすすけた建物が二つ。元々高校の校舎であったこれら建物をポル・ポト率いるクメール・ルージュが収容所として使ったそうだ。まず第一棟に入ると、尋問室として使われたいくつかの小部屋があり、それぞれの部屋に錆びたパイプベッドが置かれていた。ベッドには逮捕者をつないだと思われる鎖や足かせが残っており、床は血のりのような赤茶色の染みに染まっている。壁には当時の情景が白黒写真で示されているが、薄ぼやけていてベッドの上に何やら黒ずんだものがあるようにしか見えない。しかし半分想像に頼りながらそれを見ていると、血だらけの人間がそこに横たわっているように段々と見えてくる。

 「ここに来るたびに何かを感じます。ほら、もう鳥肌が立ってきました。」

ブンティさんは言った。確かに何とも言えない寒気を感じる。僕達は三つある部屋のうち二つしか見なかった。もう一つの部屋にも入ろうとしたが、説明のつかない異様な恐怖を感じ、すぐに部屋を後にした。死の匂いがまだ残っているようだった。

 第一棟と第二棟の間にあるかつての校庭には高い鉄棒と井戸の跡がある。これらも拷問用に使われ、鉄棒に宙吊りにされた逮捕者は真下の井戸で水責めにされたという。毎晩ここから響く悲鳴に収容施設である第二棟の人々は恐れおののき、しまいには気が狂ってしまう者もいたらしい。今の井戸周辺は草がぼうぼうと茂り、人々を恐怖のどん底に陥れた当時の面影は既に感じられない。ヒヨコを数羽従えたニワトリが無邪気に駆け回っていた。

 僕達は第二棟へと入って行く。暗がりの階段を上ってまずは収容施設のあった二階から見て回る。一つの部屋の中にレンガを積み重ねた壁が迷路のようにめぐらされ、半畳も無い程狭いスペースの独房が沢山作られていた。各独房の中には小さな鉄の箱が必ず置かれていたが、これが何なのかはよくわからない。便器か何かだと推測する。一方隣の部屋にはレンガの壁は無く、かつてはただの教室だったようにだだっ広く何も無い部屋だった。壁にかけられた絵には当時の情景が描かれている。鎖でつながれた沢山の人々がこの部屋の中にギッシリと横になった状態ですし詰めにされている。窓際の隅っこから外に向けて穴が空けられている所を見ると、そこで排泄が行われていたと思われる。途中からこの空虚な部屋を直視できなくなり、廊下に飛び出して頭を抱えるTさん。

 一階に降りてまず入った部屋には、ポル・ポトによって殺害された数え切れない人々の顔写真が壁という壁を埋め尽くしていた。彼等は殺害する前と殺害した後に必ず写真を撮影したという。どの顔も生気を失った無表情であった。中にはとても反体制派とは思えないような幼い子供や、同じ仲間であったはずのクメール・ルージュの制服を着た者の写真もあった。更にその隣の部屋には彼等がどのような方法で拷問や虐殺を行ったのかを忠実に描いた絵が展示されていた。黒い制服姿の何人かの兵士が裸にされた一人の逮捕者をムチでたたいている絵、骨と皮だけになった裸の男の手足を棒にくくりつけ、まるで獣を運ぶかのように2人で担ぐ兵士の絵。後ろ手に縛られた人ののどを兵士がナイフで切りつけている絵。泣き叫ぶ母親を押しのけた兵士が赤ん坊の足をつかんでヤシの木に叩きつけて殺している絵等、どれも衝撃的なものばかりであった。これらの残虐行為はほとんどまだ幼いポル・ポト兵士が自ら進んで行っていたという。まだ幼い子供であるから大人に誉められれば嬉しい。誉められたいから率先して上層部の命令に忠実に従う。国際社会が罪に対する裁きをすべてポル・ポト達上層部に求めている今、末端にいた彼等はどこで何をしているのだろうか。全てがジャングルのゲリラに戻ったわけではないだろう。幼い頃の洗脳はそう簡単には解けないだろうが、普通の市民を装っているのだろうか。最後の部屋は暗黒の時代の張本人達に関する展示であった。当時個人崇拝用として使われたポル・ポトの胸像の顔面には黒インクで大きく「×」が付けられ、名も知れぬ誰かの怒りがぶつけられていた。ブンティさんが胸像を指差して言う。

 「彼はこうした行為を実行することで国がより良くなると本気で思ってたんですよ。本気じゃなきゃ、ここまで徹底しませんよね。そして最後は誰も信用できなくなった。」

混乱を乗り越えた現在、この暗黒の時代に関する教育はなぜか高校になってから教えられることになっているとか。進学率の高くないカンボジアにおいてこれは半ば歴史の隠蔽のようである。民主化した今のカンボジア政府の要人にもかつてはポル・ポトと手を組んだことのある者が多く、あまり過去のことが知れ渡るといずれ現政府に追求がいくのではないかという恐れがこうした教育にも反映されているようだ。

 

 二つの建物を一通り見て回り、入口前の事務所に戻った僕達。そこにいた他の欧米人や日本人の観光客も皆一様に重苦しい顔をしていた。ブンティさんは僕達を奥の部屋へ連れて行き、ここでビデオを見ることができると言った。

 「いつもなら係員がいるんですがねぇ。ちょっと探してきます。」

彼はそう言って僕達をその薄暗い部屋に置いてどこかに駆けて行ってしまった。MさんとTさんもトイレに行くと言って一緒に出てしまったので、たった一人残された僕は部屋の中を少し歩き回った。正面のスクリーンを少しめくってみると、なぜかそこには先程の展示室で見たポル・ポト派兵士による虐殺の絵がかけられていた。兵士が赤ん坊の足を持ってヤシの木に叩きつけている、あの最もショッキングな絵であった。僕は気味が悪くなり、皆の後を追って部屋から駆け出した。

 

 車に乗り込む僕達。あまりにショックが強かったため、誰も声が出なかった。

 「ちょっとすごいものを見てしまいましたよね。もう大丈夫ですか?」

 「いえ、カンボジアに来たら知っておかなくてはいけないことですよ。」

ブンティさんの言葉に対してそう答えるのが精一杯だった。何はともあれ、これがカンボジアの歩んできた歴史である。

 

 残虐行為の限りを尽くしたポル・ポト政権はその後どうなったのか? 後に政権から分裂したヘン・サムリン派と、それを後押しして侵攻してきたベトナム軍によって政権崩壊に追いやられた彼等は国土に無数の地雷を埋めると西部のジャングルへと退散して行った。ジャングルで体勢を整え直したポル・ポト派、その後は反ベトナム路線を掲げてかつてのシアヌーク派、旧ロン・ノル政権の流れを汲むソン・サン派と共に三派連合を結成、プノンペンのヘン・サムリン政権を相手に西部で泥沼の内戦を続けてきた。一方新政権であるヘン・サムリン政権もまた親ソ・親ベトナムでポル・ポト派とは路線こそ違っていたが共産政権であった。しかしヘン・サムリンの引退後に頭角を現したフン・セン首相は元々イデオロギーにはこだわっておらず、全権を握るとすぐに社会主義を放棄、複数政党制に踏み切った。こうしたプノンペン政府の民主化に伴い、対立していた三派連合の中で最もリベラルなシアヌーク派が政府に歩み寄りを見せ、これがカンボジア和平へと動いて行く。その和平から結局取り残されたポル・ポト派は内部抗争による分裂を繰り返しながらも最後まで政府に抵抗。その後ナンバー2であるイェン・サリの派閥の大量投降やポル・ポトの死去によって勢力は大幅に衰退し、最後の一人となったタ・モク司令官が逮捕されて完全に消滅した。フン・セン政権そしてシアヌーク派を率いるラナリット党首が連立を組むことにより、内戦後の復興や民主改革が進められたが、双方の間の権力闘争やはびこる腐敗等、まだ問題は山積みである。

 

 「気分転換にここでご飯でも食べましょうか。」

途中屋外にテーブルが置かれたオープンカフェ風の食堂を見つけ、野菜とソーセージのピラフを注文した。正直まだショックは引きずっており、まだ思い出すだけで背筋が寒くなっていた。しかしジューシーなソーセージとさっぱりした野菜の入ったこの店のピラフは非常においしく、次第に気が落ち着いていった。

 「さて、明日から友好学園に行きますが、特別授業では何をするんですか?」

ピラフを一口ほおばったブンティさんが箸を置いて言った。今回のスタディ・ツアーのメインイベントは学校訪問時に体験する特別授業である。ツアー参加者は皆学校の教壇に立ち、各々に授業の枠が割り当てられるのだ。基本的に授業のジャンルは自由。絵を描ける人は図画を、縫い物ができる人は洋裁を、特に何も無ければ日本の事を話したり、ゲームをして遊ぶだけでも十分文化交流になる。従って僕も逃げるわけにはいかなかった。

 「私はKさんと洋裁をやろうと思っています。実技はKさんの方がプロですからお任せして、私はその関連で世界のいろいろな衣装や日本の着物等について紹介しようかと。」

Mさんは言った。Tさんは特に考えていなかったので教壇に立つ誰かのサポートをしたいと言っていた。一方僕は人に教えられる技能は別段持っていなかったが、今回は地理の授業という名目で、これまで旅してきた東南アジアについて知っている事を話してみようと思った。将来この国にとって周辺国との良好な関係は最も重要であり、そのためにも若い世代にはこれら国々に対し、偏見ではなく親近感を持ってもらいたかったからだ。事実コン・ボーンさんの著作でも、カンボジアで悲劇が起こった原因の一つとして異民族・異文化に対する無知から来る偏見があると指摘されていた。準備してきた教材はカラーコピーした各国の国旗と過去に旅行した時の写真だけ。授業の段取りは正直出たとこ勝負という感じだ。

 「Ling Muさんは中国にいたことがあるから、中国について話してみるのもいいかも知れないですね。学生達は中国の最近の経済発展に興味を持つと思いますよ。」

ブンティさんが言った。なるほど、最近の中国について語るというのもいい考え。時間を見て話してみるとしよう。

 

 食後、僕達はシアヌーク国王の王宮を見学した。一見タイの王宮と大差無い建物だが、カンボジア人に言わせればこちらがオリジナルでタイが真似をしたらしい。どこの国でもこうした論争は発生するものだ。しかし最も大きな宮殿の屋根の尖塔には四方それぞれに向かって白い顔が四つ彫られていた。あんな所に顔があるのは何とも不気味だが、これはカンボジアならではのデザインである。東洋的な建築が並ぶ中で一箇所だけ西洋風の建物があった。これはかつてナポレオン三世のお妃が当時のカンボジア王に贈ったという迎賓館で、今は各国から送られた宝物を展示する場所となっていた。最も荘厳だったのは中央の王宮寺院に鎮座する大仏。何と二千個ものダイヤモンドが埋め込まれた、見るもまぶしい仏である。その豪華絢爛さにあやからんばかりに僕達もカンボジア風の参拝方法で拝んでみた。正座ではなくお姉さん座りのように足を横に崩し、その状態で両手を合わせ前方にひれ伏すというなかなか難しいポーズであった。

 この広い王宮の庭園はどこを歩いていても壁という壁には何やら王宮の生活を描いたような無数の人々の絵で飾られている。正に壁画の回廊だ。音楽を奏でる人々や仏を拝む人々。比較的新しい絵かも知れないが、戦乱を乗り越えてここまで来たカンボジアの人々の平和への憧れがストレートに表現されているようだった。

 「いずれスタディ・ツアーも恒例になってリピーターが多くなったら、現地集合もありえますね。」

 「その時は王宮の宝石大仏の前で集合しましょうか。」

僕達は回廊を散歩しながら、そんな雑談をして笑っていた。しかしこのツアーの現地集合というのは、近い将来計画されているらしい。カンボジア和平から十年ちょっと。ついに現地で待ち合わせをする日本人まで現れる時代になったのか。

 

 王宮を見学した後、僕はブンティさんにお願いしてカセットテープ屋に立ち寄ってもらった。探しているカンボジアの歌があったのである。それは「A Happy Year」という新年を祝う明るい歌。フランス語の影響で「H」が発音されないためHappyがAppyと発音されるからか、冠詞の「A」が母音の「An」に変化し、更にはアジア英語らしく「N」と「L」の発音が区別されないため、結果的にこの歌は「アラッピヤー」と現地で発音されている。過去のスタディ・ツアー参加者からテープを貸してもらったりしてメロディだけは元々知っていた。早速ホテル近くのカセットテープ屋にぎっしり並べられたテープの中から探してみる。並んでいるテープの約半分はタイ・ポップスのテープであった。この国はラオスのようにタイ語の通じる国ではないはずだが、やはり隣国の影響力だろうか。自国のテープは複数の歌手の歌が収録されたオムニバス版が多い感じがした。MKSというグループはカンボジアのSMAPだろうか。テープのジャケットはアンコール・ワットを背景にイケメンの四人が水かけ祭りよろしくこちらに向かって水をかけているデザインだった。「アラッピヤー」のテープはあるかとブンティさんを通して店員に聞くと、手渡されたのは何と市販の空テープ。何でもこのテープに録音されているとか。空テープに録音されたものをテープ屋がそのまま売っているなんて他の国ではまず無かった。中国の広州のテープ屋でそれに近いものはあったが、オリジナルジャケットの白黒コピーぐらい貼り付けていた。しかも店内に並ぶ通常のポップス・テープよりやや割高なのだ。この空テープの品質がいいからだという。納得いかない理由ではあったが、とりあえず「アラッピヤー」が手に入った。後は機会を見つけてこの歌を覚えるとしよう。

 

 夜、Kさんを除く全メンバーはホテル一階に集合し、夕食に行くため入口前のモトをつかまえた。今晩の行く先はカンボジア料理店の「カルメッテ」である。今朝芸術大学に行った時と同様、2人ずつモトの後ろにまたがる。僕は少し出遅れて、Tさんを乗せたモトに急いでまたがると一行の中では一番最後に出発した。芸術大学からホテルに戻る際、「カルメッテ」は確かロータリーを通り過ぎた道路沿いにあることを、あの時同じモトに乗っていたIさんから聞いていた。さほど遠くもないし、みんなと一緒だからと安心しきっていた僕、実はここでちょっとしたハプニングに遭遇した。僕とTさんのモトは出発が出遅れただけでなくスピードもやや遅く、さっきまで僕達のすぐ前を走っていたIさん達のモトもあっと言う間に遠く引き離されてしまった。恐らくこのモトを始めほとんどのモト運転手は「カルメッテ」の場所を知らず、Eさんの指示を受けた先頭のモトの後について行っているだけだったと思う。しかし先頭どころか他のモト一台さえも見失ってしまった今、このモトはきちんと目的地へ行けるのだろうか。そう思い始めた時、車両がガッタンゴットンと飛び跳ね、お尻が痛くなってきた。モトはいつの間にか舗装されていない裏道の道路を走っていたのだ。

 「ちょっと待ってくれ。カルメッテの場所はわかるのか?」

僕は一旦モトを停めて問う。運転手は英語がわからないので僕の問いは通じない。しかしやはり場所はわかっていないようだった。まずい、完全に皆とはぐれてしまった。僕はとりあえずロータリーの場所まで戻るよう指示した。意思疎通はやや難しかったが、何とかモトはメインストリートの方へと戻り始めた。そしてロータリーに着いてから僕はもう一度モトを停めたが、ここは放射線状にいくつもの通りが伸びているため、「カルメッテ」があるはずの通りどころか僕達のホテルのある通りがこの中のどれなのかすらわからなくなっていた。これ以上このモトに「カルメッテ」を探させるのはもう限界だったので他のモトをここでつかまえることにした。当然今まで乗っていたモトには半額の料金しか払わなかった。僕とTさんはしばらくターミナルに立たずみ、新たなモトが来るのを待っていた。やがて一台のモトがやって来たので呼び止める。

 「レストラン・カルメッテまで行ってくれ。」

 「ニャム、ニャム?」

ニャム、ニャムは確か食べるということ。食べる場所かと聞いているのなら、ちゃんと通じているかも知れない。だが先程の二の舞はごめんなのでもう一度確認した。

 「レストラン・カルメッテ、知ってるか?」

 「イエス、イエス!」

運転手は笑顔でそう頷く。

 「どっちの方向だ?」

 「イエス、イエス!」

 「知らないのか?」

 「イエス、イエス!」

ダメだ。やっぱり通じていない。やむなくこのモトは断った。ロータリーからは遠くなさそうだったし、ここは歩いて行ってみようかとも考えた。しかしその時、急に雨が降り出した。

 「寒い…!」

薄着だったTさんがそう言って体を震わせた。仕方無い、ここは一旦ホテルに戻って出直すとしよう。そしてもう一度道行くモトを一台つかまえた。幸い僕はアンコール・ワット行きのフライトチケットを後で取りに行く旅行会社の名刺を持っていた。この旅行会社は僕達のホテルの斜め向かいにある。住所もクメール語できちんと書いてあった。僕はこの名刺をモトの運転手に見せ、急いで後ろの席にまたがった。

 モトはロータリーから伸びる通りを一旦外れて裏道を走り始めたので少しヒヤッとさせられたが、近道をしただけだったらしく約五分ちょっとでホテルに到着した。入口では「カルメッテ」から引き返してきたEさんとIさんが待っていてくれた。初めてのアジア旅で初めてのハプニングを体験したTさん、2人の姿を見ると少し涙ぐんでいた。本来なら道を知っている人と知らない人がペアになって乗るべきだったのに、気が付かないですみませんでした、とEさんはそう詫びた。ま、何はともあれ合流できてよかった。今度はきちんとビギナーとリピーターでペアを組んでモトに乗り込み、再び「カルメッテ」へと向かった。とりあえず一件落着したこの晩のカンボジア料理、実態はほとんどベトナム風春巻とタイスキのようにしか思えなかったが、そんなことはさておいて、とにかく夢中でおいしく食べまくったことは言うまでもない。

 

 食後、ホテルに戻った僕は今日マーケットで買った絵葉書を取り出し、何人かの友人にこの国の最初の印象を書き綴っていた。この時最も衝撃を受けたツールスレン博物館のことを少し書こうとした瞬間、背筋が凍るように冷たくなり、体中鳥肌でいっぱいになった。まだショックが完全には拭えていないようだった。