第一回 「炎天下!ソ連の秘境」 

 (ウズベキスタン・タジキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン編)


Uzbekistan

Tajikistan

Kazakhstan

Turkmenistan


ウズベキスタン旅の期間:1988年8月5日~11日 6日間

訪問地:タシケント、サマルカンド、シャフリサブズ、ブハラ、

ウルゲンチ、ヒワ、フェルガナ、コーカンド

 

タジキスタン旅の期間:1988年8月12日~13日 2日間

訪問地:ペンジケント、ドゥシャンベ

 

カザフスタン旅の期間:1988年8月14日 1日

訪問地:アルマアタ

 

トルクメニスタン旅の期間:1988年8月15日~16日 2日間

訪問地:マリ、アシハバード




病み上がりのシルクロード散策

 

夜、ホテル・シャフリサブズに着いた。腹の痛みはますますひどくなるばかりだ。Kさんが手慣れた手つきで、僕の背中に指圧をしてくれた。Yさんからも沢山の薬を頂いた。みんなとても親切だった。部屋はとても広く、今までのホテルの中では最高だったが、腹の痛みは全く治らない。痛みは頭にも響いてきて、熱も出てきた。せっかく初めて日本を出て長年の夢だった中央アジアに来たのに、ここで倒れるとは情けない。

 翌朝は午前4時に起きてバスに乗った。これからウズベク三番目の都市、ブハラへ向かうのだが、途中シャフリサブズの市内観光があった。だが頭痛、腹痛、発熱、睡眠不足に暑さが加わって、とても歩ける状態ではなかった。頭も足元もフラフラで、目もぼやけてほとんど見えない。ここ中央アジアでは公衆トイレが見当たらない。早くどこでもいいからトイレに行きたい! だが僕は結局、途中どこにも降りずにブハラまでずっとバスの中で眠ってしまった。 

 やがてブハラ市内に入り、ホテル・ブホロに到着した。僕が部屋のベッドで横になっているとYさんがやって来た。同じツアーのNさんが医者なので、今なら診察して頂けると言う。これは天の助けと思い、父と一緒にNさんの部屋に向かった。注射を一本と薬を頂いた。そのお蔭かやがて熱や頭痛が大分引いてきた。しかし僕は今朝の食事に出た妙なカレーも食べられなかったし、まだ安静にしておくことが必要だったので、父の言う通り昼食と夕食、そしてブハラ市内観光をキャンセルし、ずっとホテルで休んでいた。

 

 その日の夜には痛みはほとんど治った。ツアー同行者の一人は僕が病気になったのは、やはり油っこい食べ物に当たったからだと言った。またある人は、夜中移動等のハードスケジュールで疲れたのだと言った。そしてまたある人は、同行者が皆大人ばかりで、若い話し相手がいなかったから、精神的に疲れたのだと言った。どれもよく当てはまっていた。でもはっきり言ってそんな事はどうでもよかった。治ったのがとても嬉しかったのだ。15日間、異国の地でずっと寝たきりというのが怖かったのだ。ブハラを見られなかったのは残念だが、明日からは他の人達と一緒に町を歩き、自分の目でまた未知の国の新しい発見ができるのだ。   

 翌日僕達はウルゲンチへ行くためブハラの空港へ向かった。空港はいつものように様々な国から来た人達でごったがえしている。ソファーに一人で横になって眠っているインドの観光客、戦争に勝ったと父に話していたアフガニスタンの人、胸に金日成バッジが輝いていた北朝鮮の人。技術研修だろうか、作業服姿の黒人もいた。 

 飛行機の滑走路の周りはだだっ広い草むらだった。なぜか草むらには至る所にかかしが立っていた。出発までの時間がとても長く、機内はサウナのように暑い。中央アジアは乾燥地帯なので、夏は40度から50度ぐらいの暑さはざらにあるが、日焼けをすることはない。汗もあまり出ないのだが、この機内は別である。早くも汗でびっしょりになってしまった。飛行機のタイヤの表面はみぞがはげ落ち、真っ平らになっている。僕の方に倒れたまま元に戻らない前のイスや、接触の悪いシートベルトには参ってしまった。アエロフロートの飛行機は三種類ある。一番長い距離だったハバロフスクからタシケントの便はイリューシンという大型のジェット機で、新潟からハバロフスクの便や、共和国から共和国へ移る時の便は、細長くスマートな形をしたツポレフ。そして共和国内の都市から都市へ向かう便はアントノフというプロペラ機である。ちなみにこのアントノフは中国で時々墜落する航空機だそうだ。僕達は今、そのアントノフに乗っている。

 かくして飛行機は飛び立ったものの、今までの暑さに取って代わって、今度は冷房が効いてきた。今度は寒い! まるで冷蔵庫だ。鳥肌が立ってきた。   

 

 しばらく辛抱した僕達はやっとウルゲンチに到着。始め地図で確認した時、ウルゲンチとヒワは、カラカルパク自治共和国に属する都市かと思っていた。旅行前の説明会で確認した時も旅行会社の担当者がそうだと言っていたはずだが、実際に来てみると全くウズベクと変わらない雰囲気だった。後でウラさんに聞いてみると、ここは国境ぎりぎりだがウズベク共和国だそうな。そして今回カラカルパクの方には行かないようである。僕は少しがっかりした。 

 

 空港からバスに乗り、ホテル・ホレズムに着いた。ホレズムというのは、今はウズベク共和国西端でウルゲンチを州都とする州の名前だが、昔はかつてチンギス・ハンの軍勢に滅ぼされた帝国の名前でもあった。この町には淡水湖が多く、それ以外にはあまり印象の無い所だった。なぜなら本来僕達が観光する所はここではなくて、ここから少し離れた隣町であるヒワだからだ。

  かくして僕達はヒワ遺跡「イチャン・カラ」に到着。ここは城壁都市になっていて、居住している人々は昔のままの生活を営んでいる。目の前には大きな城の門がそびえていた。赤いネッカチーフをつけたピオネールの子供達も見学に来ている。 

 ヒワはその町自体が博物館と言われるだけあって、非常に見応えあった。門をくぐると日干しレンガの民家が並び、家の前では子供がゴザを敷いて寝ている。広場に出ると、ラクダに乗って記念撮影する場所や、チャイハナと呼ばれるシルクロードの喫茶店等がある。昔の聖者の廟の前でウズベク人がひざまづいている風景をここでもまた見ることができた。地元の子供だろう、その小さな体で迷路のようなヒワの町を駆け回っていた。その姿がとてもかわいい。特に僕の足ぐらいまでしかない女の子は、僕達の団体のあとを「ボンジュール」と言ってついてきた。以前にフランスの観光客が教えたのだろうか。Kさんがその子に「こんにちは」を教えると、女の子も「コンニチハ」とたどたどしくまねる。そのやりとりが気に入って、ツアーの人達がカメラを向けると、女の子は恥ずかしがって逃げてしまう。町角を振り向けば、民族衣装の老人が日なたぼっこをしている。何やら歌を口ずさんでいた。 

 町を出ると広い王宮があった。チムール帝国が滅亡した後、この地域には三つの国が誕生した。東からコーカンド汗国、ブハラ汗国、そしてヒワ汗国である。この王宮はかつてのヒワ汗国の王、アララク・ハンのものであった。宮殿の中は敷地の広さにしてはちょっと狭く、中には玉座があるだけだった。だがタイルのモザイクで色とりどりに作られた天井や入口には目を見張った。入口には三つの扉があり、真ん中は客の入る扉で、最も玉座に近い右側の扉は、王専用の入口だった。そして左側の扉は、この城を訪れる吟遊詩人のために特別に設けた入口だった。アララク・ハンはとても詩を愛好し、自らも詩を作っていたそうだ。

 王宮には中庭がある。そこには日本のものにそっくりな井戸があった。ヒワは国内でも特に暑い。のどが渇いていた。だがこの冷たい水を飲むことは、危険で僕にはできない。早く何か冷たい物が飲みたい! 町の中にはベリョースカがあり、運良く冷蔵庫に入った飲み物が置いてあった。あの時のペプシコーラの美味しさ!! 今も忘れられない。僕にとって正にそこはオアシスだった。

 ヒワの町の真ん中に、イスラム・ホッジャの塔がそびえている。中に入って登ることができるので、僕達も20カペイカ払って挑戦してみた。Kさんは高所恐怖症で、途中で降りて来た。僕はどんな塔かと思ったが、想像通り中は真っ暗。階段は急で狭い。一人登るのがやっとなので、上から降りて来る人に出会うと、道をあけるのに一苦労。しかも階段は螺旋状なので先が見えない。天井が低く、頭を何度かぶつけた。しばらく登った末、やっと上の方から光が見えてきた。僕達はとりあえず塔の頂上(?)に着いた。狭かったが、そこから見下ろしたヒワの町は最高にいい景色。記念撮影もしたが、窓が小さいので、景色の一部しかカメラに収められなかった。下りは登りよりも困難だった。だが下から登って来る地元の人達は、僕達が注意深くゆっくり降りていくのを最後までにこやかに段の脇で待っていてくれた。一番下までたどり着いた時、そこにずっと立っていたウズベク人の管理人が「アスタロージュナ(気をつけて)」と手を取ってくれた。 

 この塔にはこんな話がある。昔チンギス・ハンがこの地を攻め、すべての建物を破壊した。ある日彼の軍隊はこの塔に遭遇した。チンギス・ハンが馬から下りて、この塔を見上げた所、あまりに首を上に向かせたため、かぶっていた自分のかぶとを落としてしまった。彼は自ら身をかがめてそれを拾った。この塔は唯一自分をかがめさせた建物として、彼は壊さずに通り過ぎて行ったという。  

 ほとんどどれも同じような、日干しレンガの家が立ち並んでいる。その中にトンネルがあり、先へ進むとバザールがあった。スイカやハミウリを売っている店があちこちにあり、ウズベク人達が雑踏している。正にシルクロード的な風景だ。やはり僕達がバザールを歩くと人々は皆振り向くが、もうあまり意識しなくなった。チュビチャイカをかぶった男の人が「ヤポンスキー?」と声をかけてくる。僕は「ダー、ヤー ヤポンスキー(私は日本人です)」と返事する余裕も出てきた。表通りに出ると、帽子を売る店があり、そこで売られていた中国の人民帽に少し似た帽子に目がいった。土産には丁度いいかと思ったが、値段がわからない。すると店の人は父の胸のポケットを指差した。ポケットにはタバコが入っていた。父がそのタバコを彼に渡すと、彼もすぐさま帽子をこっちに渡してくれた。買った(取り替えた?)帽子をかぶって町を歩くと、ウズベク人の女の子がすれ違い様に笑う。日本人がかぶるとそんなにおかしいかな? それにしても社会主義国で物々交換とは思いもよらなかった。いや、社会主義国だからこそ、物々交換が今日まで成り立っているのではないだろうか。もちろん公ではないが。ある同行者は、ハミウリを買うときはいつもボールペンと交換するそうだ。僕達が最初に日本円とルーブルを交換した時、1ルーブル硬貨を手にしたが、この硬貨、新しいようで中央アジアではまだ広まっていないらしい。ツアーの人達の多くがこの1ルーブルを使うと、相手が日本円と勘違いして受け取らないという。お金の方が使えないなんてややこしい所だ。 

 バザールを出て地下のチャイハナで一休みし、バスでウルゲンチのホテルに戻った。夜10時頃、部屋でくつろいでいると、外からイスラム教のコーランを読む声が聞こえてきた。日没後の礼拝が始まったのだろう。とても涼しく、気持ちのいい夜だった。明日はウズベク東部にあるフェルガナとコーカンドの二都市を観光し、再びタシケントに戻る予定だ。   

 

 部屋のドアをノックする音がかすかに聞こえる。「おはようございます!」 8時、Yさんのモーニングコールで一日が始まった。朝食後、僕達はアントノフで早速フェルガナに向かった。中央アジアでは主要な都市が国境沿いにある場合が多く、その都市が一体どちらの国に属するのかがわからない時がある。先日のヒワもそうであったが、フェルガナも僕が地図で見た限りでは、キルギス共和国に属しているように思えた。旅行会社での説明会の時も確かそう聞いていたし、Yさんもバスで国境を越えてキルギスに入ると言っていた。ところが改めて聞いてみると、ここはやはりウズベク共和国で、キルギスには入らないということだった。またがっかりせざるを得なかった。 

 それだけでなく、我がツアーはバスの予約が取れなかったのか、僕達は別の日本の旅行会社(N旅行社)のツアーバスに便乗させてもらう形になった。 

 僕達のツアーは意外に女の人が多かったので、最初は風呂も無いし、食べ物も特異なのに、よくこんな所へ行きたがるものだと思っていたが、想像以上に彼女等はたくましかった。そしてこのツアーの参加者のほとんどが小、中学校あるいは高校の先生だという。僕にはとてもKさんが中学の先生には見えなかった。この日までにこのツアーで腹痛を起こした人は僕を合わせて七人。そのうち五人は男性だ。腹痛メンバーの中には、僕の腹痛を治してくれたNさんや、添乗員のYさんもいた。しまいにはウラさんまでが腹を壊して現地のホテルで寝込んでしまったので、僕達のガイドがいなくなり、同乗しているN旅行社の日本人ガイドのAさんが引き受けることになった。Aさんは一見普通のおばさんだが、ロシア語はペラペラで、各都市の解説はもちろん、その都市にまつわる伝説や面白い雑学等もよく知っていた。   

 フェルガナは木が多く涼しい町で、ヒワと対象的だった。市内をバスで走り抜けると、大きな看板が沢山掲げてあった。「共和国内の人民は団結し、55万の綿花を集めよう!!」という標語が書いてあるそうだ。その周りには、ウズベクの各都市の名前の下に数字の書かれたプラカードが立っている。例えば「ヒワ 4万8000」といった感じ。全部足し合わせると55万になるのだろう。さすがはソビエト、計画的だ。バスはとある記念碑の前で停まった。ウズベクには、いや、全ソビエトには至る所に戦死者の記念碑があるので、あまり珍しくなくなった。そしてこの記念碑は第二次世界大戦(独ソ戦)で散った143名のために建てられたもの。中央アジアは戦地ではなかったが、ソビエト領内ということで多くの若いアジア人達がモスクワやボルゴグラードへかり出され、ドイツ軍と戦い、死んでいった。そして今、彼等はアフガニスタンへかり出されている! 

 バスはさらに先へ進む。いつかのシャフリサブズの様なのどかな町並みになっていく。ここはフェルガナ郊外のリシュタンという村だ。モスクの形をしたトルコ風呂が見える。バザールで降りたが、そこは今までのように商人がゴザの上にハミウリを広げているのではなく、祭りの縁日のような小さな店舗が並んでいた。都会の雰囲気は無いがとても賑やかだ。ロシア人の一人も見当たらない素朴な村に、大きな都市でも珍しがられた日本人が足を踏み入れたのだから大変。すれ違う人からずっと遠くにいる人までがこちらを珍しそうに眺めている。歩いている人さえ立ち止まり、こちらが立ち止まれば周りに群がってくる。珍しくカセットテープを売っている店を見つけた。とは言っても、日本で売られているものとは大分違う。古いカラテープに歌が吹き込んであるだけのものだった。だがその中に一つだけ知っているロシアの歌手の名があったので値段を紙に書いてもらうと、なんとそれが一つで11ルーブル、日本円で約2,320円! 日本で売られているCDとほぼ変わらぬ値段だ。僕が店を離れると、二人のタジク系の男が何やら話しかけてきた。何を言っているのかは全然わからなかったが、どうせ彼等のことだ、どこから来たのかを聞いているのだろうと思ったので、ヤポンスキーと答えると、一人の男は「オー、ヤポンスキー」と、ニコニコしながら頷いて人混みの中に消えた。だがもう一人の男は今去った男の連れではなかったのか、しつこく何か言っている。しかも先程の男と違い、顔は真剣だ。恐らく日本人は金持ちだから、時計をくれとか、円とルーブルを交換してくれ等と言っている可能性も高い。ツアーの同行者もこうした連中に捕まっている。僕はわからないというジェスチャーをして手前の店に入った。そこは日用雑貨品の店だった。ロシア製らしきカラーテレビも売られていた。日本人から見れば大きくて古めかしい物だったが、ここではずばぬけて高い値段だった。この時、兄弟らしきタジク系の子供二人が好奇心いっぱいの目で僕を見上げているのに気付いた。僕はポケットからガムを二枚取り出して二人にあげると、兄弟は声をそろえて「スパシーバ(ありがとう)」と言って喜んでいた。 

 コーカンドに向かうため僕達はバスに乗り込んだ。するとその小さな兄弟が再び現れ、バスが走り出すまでずっと手を振ってくれた。ささやかながら初めて地元の人と交流ができたようで、僕も嬉しかった。  

 

 しばらくして僕達はイスラムの墓地を見学した。このイスラム墓地はすべて土葬で、市内には他にもキリスト教徒、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒の墓地があるそうだ。それにしてもイスラムの墓地は日本のものと違い、形も大きさも本当に種々様々である。モスクのような形や、台形をひっくり返したような形、単純な直方体等の墓標が並び、かまぼこ形の大きな棺がある。墓石に故人の写真の入ったものは特に立派に見えた。その墓地に交じって二つの廟がある。一つはコーカンド汗国の王マザク・ハンの廟で、比較的小さな廟だったが、もう一つの廟はモスクと間違えそうなくらい大きな廟であった。こちらは同じく王であったウマル・ハンのもので、詩人としても名高い人物であった。廟の入口にあるからくさ模様の木造の扉には、アラビア語で書かれた自作の詩が彫られている。 

 この墓地は男性優位なイスラム教にもかかわらず、男女の墓が入り交じっていた。だが葬儀の時は、女性は参列に加わることはできず、葬った翌日に墓参を許されるのだそうだ。 

 僕達は270万人の市民が40日間で造り上げたというフェルガナ運河を通過して、コーカンドに入った。ここにはチムール帝国時代に使われていた「冬のモスク」がある。そう言えばサマルカンドのシャーヒ・ジンダ廟群を訪れた時、廟群の近くに「夏のモスク」という現役の回教寺院があると聞いたが、残念ながらこちらは既に使われていない。そこは現在現在歴史博物館となっている。かつての王のハーレムの模型や、ウズベクに住んでいる動物の剥製、その他民芸品等が展示してあった。実はこの博物館には何年か前にNHKのシルクロード取材班が訪れ、彼等を驚かせたものがある。こんな所に、日本のものではないかと言われている壺があるというのだ。それもただの日本の壺なら珍しくない。ここにある壺は、同じものが日本には無いという。早速拝見してみると、展示品の解説には日本のものということが書かれていた。なるほど、確かにこの壺に描かれている絵は平安時代の宮廷だった。だが完全に日本のものと言える絵はごく一部で、周りには西洋的なバラの絵が描かれている。しかも壺本体には竜の彫刻があり、中国的だ。この壺は恐らく日本のものではなく、外国の壺に日本人が絵を描いたものでは?、と想像した。見れば見る程不思議な壺だ。これもシルクロードの影響だろうか。本来館内は撮影禁止なのだが、めったに来ない日本人が日本の壺を見に来たということで、警備員も特別に目をつぶってくれた。しかし残念ながらこの壺は、現在どこの博物館にも貸し出すことはできないということだった。   

 僕達は博物館を後にして町の中心部に入った。今日は礼拝日の金曜日ではないので、現在でも活動を行っているモスク(回教寺院)を見学できるそうだ。最初に訪れたのはマルブーガバヤ・モスク。昔はメドレセ(回教学校)であったが、今は普通のモスクとなっている。信者達は礼拝前に手足を洗って身を清め、一日五回メッカに向かって祈る。毎週金曜日、モスクは市民でごった返す。そこで祈れるのは男性のみで、女性や子供は中には入れない。革命前イスラム教は政治的権力を握っていたが、ソビエト政権樹立後、共産主義政策のもと宗教は抑圧された。当然学校教育からコーランの授業は外されたが、それにもかかわらず聖職者を目指す者は大勢いたという。彼等は大学または短大卒業後、ブハラの神学校で約3年学び、その後タシケントの神学校で更に詳しく学ぶ。卒業できれば僧職につけるが、中にはもっと勉強したい人がいて、彼等はエジプトに留学するそうだ。 

 続いて訪れたのはジャミ・モスク。明らかにシルクロードの面影が残されている建築。寺院を支える90本の柱は、シルクロードを通じてインドから持ち込まれたものだ。天井は中国風。ちょっと不思議なのは、イスラムの寺院なのにユダヤ教のシンボルであるヒランヤが彫られていた。境内でAさんが現地ガイドの解説を通訳していると、孫を連れ、民族衣装をまとったウズベク人の老人が、僕達の団体の中に交じってきた。僕達が移動すると、老人も孫としっかり手をつないでついて来る。その光景はとてもほのぼのしていて思わず周囲に笑顔がこぼれた。 

 モスクの周りはチャイハナになっていて賑やかだ。ここで多くのウズベク族やタジク族達が出会い、談話している。フェルガナやコーカンドは全体的にウズベク系よりもタジク系の方が多いようだ。そして地元の人々はあまりロシア語を話せないらしい。彼等の挨拶は両者の右手と右手でパチンと大きな音をたてる握手だ。出会った時の挨拶は長く、その間ずっと握手していて、やがて椅子に座り、話が始まるといった具合だ。だがロシア人の場合、挨拶はこれまた変わる。彼等は男であれ女であれ、抱き合ってキスをするのが習わしだ。ジャミ・モスクから出ると、自転車に乗ったタジク系の少年が手を振ってきた。僕もそれに答えると、少年は口に手をあてて投げキスを飛ばす。いやはや、ひょうきん者だ。 

 バスは果てしなく続く綿花畑を一直線に進む。いつしか僕は眠ってしまった。目を覚ますと、フェルガナの空港に着いていた。僕達はアントノフに乗って、またサウナを味わった。しかもウズベク人の体臭はちょっときつい。独特の匂いで、それが前、後ろから漂ってくる。その匂いに慣れてきた頃、飛行機はタシケントに到着した。この時点で、N旅行社の人達としばしのお別れ、今夜は再びホテル・ウズベキスタンへ。

 

 

 明日はウズベクを離れ、タジク共和国に向かう。タジクは以前ペンジケントの遺跡の日帰り観光で一度訪れているが、今回は首都のドゥシャンベに飛ぶ。ウズベク共和国一周も終わりを迎え、いよいよこの旅行も後半に入る。