第十四回 「熱風アラビア道中」
          
(バーレーン・シリア・カタール編)

Bahrain

Syria

Qatar


バーレーン旅の期間:2006年4月27日 1日

訪問地:マナーマ、ムハラク

 

シリア旅の期間:2006年4月28日~5月3日 6日間

訪問地:ダマスカス、パルミラ、アレッポ

 

カタール旅の期間:2007年5月4日 1日

訪問地:ドーハ




ダマスカス: サハラから来た男

 

「それでな、そのノルウェー女性がいかにしてイスラムと出会ったかと言う経緯を説明すると・・・。」 

 彼のイスラム話はまだまだ続く。先進国の人にもイスラムに改宗する人が増えてきているという話をしたいんだろうけど、正直会ったことも無いノルウェー女性の人生なんてどうでもいい。なぁ、バシール、もう十分だ。哲学的な話はちょっとわからないんで、話題を変えないか?! イスラム圏が好きである僕もさすがに根を上げ、ついに彼のイスラム話にストップをかけた。ああ、すまん、ついつい。バシールはやっと我に返って普通の青年に戻った。ところで、ここはどこ? 

 「ダマスカスのスークだ。ここを抜けたらサラディン廟とウマイヤド・モスクだよ。」

僕はホテルに帰って休みたいと言ったのだが、その意思伝わっておらず、彼は既に僕を観光に案内し始めていたのだった。

 

  来てしまったのなら、ま、いいか。しかし残念なことに今日は休日の金曜日。いつもは賑わっているはずのスーク、まるで早朝の商店街のように軒並みシャッターが降ろされている。これではただのトンネルと変わらない。そのまま素通りして表に出ると、すぐにサラディン廟が現れた。十字軍の猛攻を撃退したサラセン帝国の武将で、後に宰相となった英雄サラディン。アラブの英雄でありながら本人はクルド人であること、イラクのフセインが自分は彼の生まれ変わりだと言い張っていたこと等は有名。そんな偉人の墓だけど、廟そのものは意外にも小さい。盗掘を避けるため本物と偽者の二つの棺が置かれていた。で、どっちが本物の棺? バシールもはっきりわからないご様子。おいガイド、大丈夫か?

 

 廟に隣接するはシリア最大のモスクである世界遺産ウマイヤド・モスク。ツルツルの大理石が敷き詰められた中庭のそれはそれは広いこと。元々はローマ人によって建てられた教会だったそうで、ローマの水道橋風の柱やステンドグラス等西洋的な建築スタイルをベースにイスラム風の細密画がきめ細かに施されていた。歴史が変わり、支配者が変わるごとに改築が繰り返され、各時代、各文化の鮮やかな色彩を全て残している、正にシリアの歴史をそのまま語っているかのようだ。ちょうど日本の神社の本堂周囲に稲荷の祠があるように、モスク本殿の周囲には聖者の廟が点在し、白ターバンを巻いた男性や黒ベールの女性で賑わっている。意外にも彼等の多くはイランからの参拝者だという。と言うのも、この聖者というのがシーア派だそうで、シーア派国家イランから巡礼者が沢山やって来るのだとか。モスク自体はスンニー派なので、ここでは同じモスクでスンニー派とシーア派が仲良く参拝していることになる。イラン人とおぼしきある一団は、右手で自分の胸をバシーン、と打ち付けながら輪になって歌い踊っていた。シーア派の人々がムハンマドの後継者と崇めるアリーの死を悼む時のポーズだ。 

 「シーア派に対してはちょっと間違いを指摘したいと思うんだが・・・。」 

バシールがそう言いかけたので、僕は即発言を却下。ここは懐深いモスクなんだ。仲良くしようぜ。

  そう、このモスクの懐深さときたら、僕の想像を超えていた。一般的に異教徒が礼拝所に足を踏み入れることが可能なモスクはそう多くは無いと言われる。しかしここは礼拝所に入って写真を撮ることもOK。と言うか、地元信者達も携帯カメラ片手に自分の子供の写真をパシャパシャ撮っている始末。礼拝中でも、隅っこに座っている分には何のお咎めも無かった。しかも女性も中に入れる。ヘジャブ(ベール)着用が義務付けられるが、持っていなければ貸してもらえる。意外にもオープンな雰囲気のモスクにしばし興奮して、エスニック模様の絨毯が敷き詰められた礼拝所の中を存分に歩き回る。その時、バシールの姿が見当たらないことに気が付いた。少し探してみたが、どこにもいない。ま、親切だったけどちょっと変わった奴だし、この距離なら自分でホテルに帰れるから、気にしなくてもいいか。そう思って引き続き礼拝所内を散策し、祈る人々等を観察していた。 

 隅っこに座って休んでいる人々の中で、僕に手を振る数人のグループがいた。明らかに東アジア系の顔をしており、かつ中国人であることがすぐにわかった。それぞれ宋さん、孟さん、張さんと言い、製紙機械メーカーから出張でシリアに来ており、今日はオフだったので観光中だとのこと。僕が挨拶して握手を交わしてもしばらくは僕を中国人だと思っていたらしい。中国に住んでいた人間からすれば異国での中国人との出会いというのもまた格別の懐かしさを禁じ得ないわけで、そのまま座り込んでしばらく彼等とダベっていた。

 

 「シリア人に機械の操作方法を教えるのは至難の業だ。製紙機械は危険だから気を付けろといくら説明しても聞かないし、ルールを作っても守らない。既に事故で腕を切り落とした人が一人、指を切り落とした人が二人。計三人も負傷者を出したよ。」

技術指導の中国人達の苦労話を聞いていると、僕も思わず中国駐在時代のことを思い出してしまった。指導というわけではないが、国民性や価値観の違いゆえ、どうしても伝わらない、理解し合えないという経験は数知れずであった。言葉が通じない相手ならあきらめもつくが、中国語で話していても伝わらないのが何よりやるせなかった。しかしここシリアの地へ仕事でやってきた中国人もまた、彼等なりにいろいろ苦労をしている。シリア人もどこか別の国に行けば、もちろん苦労するだろう。文化の違いとはそういうものなのだな。 

 こうしてモスクで腰を下ろしていると、参拝に来る人々が時々僕達の所にやって来て、歓迎の言葉をかけてくれる。単にハロー、ウェルカムと単純な英語で握手の手を差し出してくる者、一緒に腰を下ろして束の間の異文化交流を楽しむ者、少しだけ習ったと言って片言の日本語をトライしてくる者。きれいな服で着飾った人形のような小さな女の子達が駆け寄って来て、はにかみながら無言で握手の手を差し出してきた時は、子供ながらもドキッとしてしまった。あの子達は大きくなったら超美人になるぞ。何はともあれ、モスクって居心地悪くない。 

 

 とは言え、やはり我々異教徒の外国人に構ってくるのはせいぜい男衆と子供だけであろう、他はまずありえまい、とタカをくくっていたのだが、我々の前にふと立ち止まり、流暢な英語で声をかけてきたのはラシアさんという地元の若い美女であった。英語・フランス語を話し、海外にもよく出かけ、かつこんな外国人に自分から声をかけてくるなんて恐らくシリアでは普通のクラスの人ではないに違いない。バシールと違ってイスラムでありながらイスラムを客観的に語る論調が印象的だった。彼女は両親同伴だったので、しばらくいろんなおしゃべりで盛り上がった後でお別れした。 

 ところで中国のお三方、一体いつまでここでおくつろぎ? 彼等がここからずっと動かないことを少し不思議に感じ始めた時、向こうからもう一人の若い中国人がやってきた。 

 「おお、ガイドさんが来たぞ!」

三人は待ちかねていたようにその場から立ち上がる。李さんという彼はダマスカス大学でアラビア語を学ぶ中国人留学生。回(ホイ)族というイスラム教徒の少数民族出身だ。今日一日彼等三人のガイドとしてダマス市内を案内するのだという。とまぁ、そんな成り行きで、今日は図々しくも彼等のツアーに便乗してしまうのであった。

 

 マルジェ広場まで歩き、その近くからバスに乗ってキリスト教徒地区バブ・トゥーマに向かう我々。そこはかつてローマ商人が設計したというだけあって、街並みがややヨーロッパ風だ。迷路のように細く入り組んだ石畳の道のあちこちに教会が点在する。そして何より驚いたのはこの地区を歩く人々。女性は原宿を歩く若者とほとんど変わらないスタイルで曲線美を見せつけながら闊歩している。ショッピングアーケードには派手で艶やかな服が並び、雰囲気が垢抜けている。そしてこの地区の人には白い肌、金髪、青い目を持つ人が意外と多いのだ。アラブ人かフランス人かと言えば完全にフランス人に近い風貌である。かつてフランス統治の時代、彼等キリスト教徒のアラブ人はフランス人と文化的な壁が薄かったので、混血がかなり進んだらしい。又、以前レバノンでも知った事であるが、長い歴史の中でこの地域は西洋が侵略する際の第一歩となった場所であるため、ギリシャ・ローマの時代から混血が行われているのだ。 

 李さんが全員分おごってくれたシャワルマというケバブをほおばりながら、時々道行く美女に見惚れ、たまに教会の中を見学したりしながら市内見物を満喫し、公園で一休み。公園では地元の子供達が何と「ドッジボール」や「だるまさんが転んだ」をやって遊んでいた。これらの遊びって世界共通だったのか、何か急に親近感が湧いてきた。 

 ところで李さん、それにしても何でまたシリアでアラビア語を勉強しようと思ったの? 僕の問いに彼は答えた。 

 「アラブの国の中でシリアは一番人が良いんだ。エジプトやヨルダンはイギリス統治の影響で資本主義が浸透し過ぎていて、何でもかんでもカネ、カネだし、湾岸諸国は裕福だというだけで、自分達が優れてると思い込んでいて、他国の人を見下しがちだ。その点シリアは純朴で、程よくオープンで、安全で、物価も安くて、宗教間の対立も無い。」 

なるほど。それに女性もキレイだし。これ重要。大いに納得しているうちに陽も傾きかけてきた。僕は彼等中国人達に別れを告げ、一人マルジェ広場へと戻った。 

 

 広場は地元民達で異様にごった返していた。広場真ん中で俳優らしき男性が何やら振付をしている様子をテレビカメラが撮影していたのだった。撮影が終わるまでしばらく野次馬に混じり、その後ホテルに戻ると、フロントにメッセージが届けられていた。バシールだ。「モスクではぐれてしまい、探したけど見つからなかったので、心配してホテルまで来ました。今晩また来るので後ほど会いましょう」。そうかぁ、彼のことすっかり忘れて中国人達と市内散策してしまい、ちょっとかわいそうなことしたな。シャワーを浴び、しばらくくつろいでいると、フロントから電話がかかってきた。 

 「あのモロッコ人が来たよ。」

 バシール、すまなかったな。いや、こちらこそすまなかった。お互い詫びを述べた後、一緒に夕食を摂ることにした。途中CD屋を見つけ、サモ・ゼイン、ロパ、アサーラ、アリ・アルディク、シャハド・ベルマダ等今流行りのシリア・ポップスの歌手のCDをバンバカ買いあさった。これだけ買っても200ポンド(400円)。その時、バシールがすかさず200ポンドを出してプレゼントだと言って買ってくれた。ちょっとそれは悪いよ、バシール。しかし彼は僕の金を受け取らないので、夕食をご馳走する形でお返しすることにした。 

 ともあれ、我々は小さな食堂に入り、いつものシャワルマとペプシのパクリのようなオリエンタル・コーラで乾杯。この時間はお互い身の上話に花を咲かせた。 

 彼はモロッコ南部サハラ砂漠の小さな町から来た。普通モロッコ人はフランス語がうまいので、パリに出稼ぎに行くケースが多い。しかし現実パリで安定した職と住居を得るにはカネとコネがいる。そこで何も持たない彼は、先進国の中で最も手が届き易いギリシャを選んだ。しかしギリシャと言えどEU加盟国だからそう簡単には踏み込めないので、第一歩としてまずトルコで働こうとここまでやって来た。しかし書類不備があって国境で押し戻され、やむなくここダマスに身を置いているというのだ。 

 「なんでオレがマルジェにいるかって? いつもお世話になってる入管がすぐ近くにあるからさ。書類ができ次第またトルコに向かう。多分あさって頃だな。」 

そうか、では僕がこれからパルミラ、アレッポと回ってダマスに戻ってくる頃にはもう彼はイスタンブールの職安で情報収集でもしていることだろう。 

 「そこで、なんだが…。」 

バシールは口を開いた。 

 「トルコに着いて仕事が見つかるまでは稼ぎが無いので、その間の宿代500ポンドを何とか助けてもらえないだろうか。」 

う~ん、やっぱりそこでカネの話になってしまうのか。昔フィリピンでも少しお世話になったオバサンから別れ際に携帯をねだられたこともある。500ポンドとはいえ、この手のお願いって、やっぱり引いてしまう。 

 「もちろん君は今旅の最中だ。これから先いくら発生するかわからない。だから無理にとは言わない。余分が無ければ忘れてくれ。」 

彼は少し申し訳無さそうな顔で言った。とりあえず僕は先程のCD代200ポンドを彼に払ってもらっていたので、その分は即返し、今晩の飯はごちそうすることで話を終わらせた。 

 喜捨(ザカート)。経済的余裕のある者が無い者に対して施しを行うという教えがイスラムの中にあるので、こうしたやり取りは結構頻繁にあるようなのだ。バシールもきっと初めて僕を見た時、騙そうとまでは思わなかったにせよ、ホテルを紹介してマージンをもらったり、ガイドをしてチップをもらうことで小遣い稼ぎをしようと僕に近付いてきたのだろうと思う。ま、今回は借りを返しただけに留まったので後味悪いことは特に無く、お互い頑張ろうぜ、とエールを送って別れた。意外と涼しいダマスの夜であった。明日はパルミラに出発する。