第十二回 「パゴダの国との奇妙な縁」
(ミャンマー編)
Myanmar
ミャンマー旅の期間:2003年1月31日~2月12日 12日間
訪問地:ヤンゴン、バガン、キンプン、バゴー、パテイン
四~五日目:森の中の村
河上の方ではロンジーを体にまとった老女が数人水浴びをしていた。そしてまだ陽が眩しい河下の方にはいくつかのパゴダのシルエットが見える。僕はゆっくりと河の方へと歩いて行った。河辺は非常にぬかるんでいて、ボーッとしてると足がズブズブと砂の中に沈んでいってしまう。とりあえず疲れを拭い去ろうと、不安定な足元をふらつかせながら大河の水を掬い、顔を洗った。目が覚めるようなヒンヤリとした水だった。こんな所で道に迷っている場合ではないだろう、僕はこの旅を楽しむために来たのだろう、と誰かに言われたような錯覚を覚えた。林の方をふと振り返ると、先程山道で見かけたあのヤギの群がまた通り過ぎて行く所だった。ヤギ追いの男が大きな掛け声で群を誘導している。それがまるで日本語で「コリャッ、ダメッ!ハイ!ハイ!」と言っているように聞こえる。僕はまたその群を追いかけるべく、林の方向へと引き返してみた。
しかし林の中に足を踏み入れたとたん、群の姿はまた消えてしまった。おかしいな、どこへ行ったのだろう。山道はT字路となっており、河と平行してまだ続いているようだった。しばらく当ても無く歩いて行くと、周りはやがて竹林となっていき、少し先に人家があるように見えた。
「村かな?」
僕がふと立ち止まると、前方の家から一人の子供が出てきた。その小さな男の子は僕に気付くと、こちらに向かって手を振ってきた。僕も手を振って返事すると、今度はその子供が自分の方向へ手招きするではないか。人懐っこい子供だな、そう思って足を進め、家の前までやって来た。ハロー、ミンガラバー(こんにちは)、と子供に挨拶する。しかしそれ以上ビルマ語を知らない僕はその後どう言葉を続ければいいのかわからない。そうこうしているうちに家の中から一人、また一人と子供の家族が出てきた。最初に出てきた子供より少し大きそうな女の子の手を引いたお母さん、おばあさん、そして学生っぽい女の子であった。「こんにちは」と自分の名を名乗る程度ではあるが、とりあえず知っているだけのビルマ語を総動員して挨拶すると、家族達も笑顔を見せてくれた。入口から中をチラッと覗くと、無数の赤い木の実のようなものが庭一杯に広げられていた。すると先程の小さな男の子が、その庭先から何個か木の実を持ってきてくれた。何だろう、と一口食べてみる。何だか酸っぱい実であった。すると家族達はどうぞ、どうぞ、と僕を家の中へと招き入れてくれた。そこは木造の一軒家。家の入口をくぐるとテーブルがあり、そこに腰を掛けるとお茶でもてなしてくれた。しばらくするとこの家の主が戻って来たので、家族みんなから歓迎を受けてやや気持ちが高まる僕。この家族が誰も英語を理解しないのは、林の中の村であればやむを得まい。とりあえず皆さんの名前を聞いてみた。聞いたままの音で書き留めたので実際の発音とは少し違うのかも知れないが、まずご主人はレテ・アウンさんと言い、36歳。細身ながら筋肉の引き締まった腕を持ち、何か力仕事をしているようだ。顔一面にタナカーを塗ったお母さんはウェウェさん。落ち着いてしっかりした母親の雰囲気があったが、年は32歳で僕と同じであった。おばあさんのキン・ジャイさんは元教師だそうだが、52歳とのことだったのでおばあさんと呼んでは失礼かな。学生風の女の子はトユモー、18歳。常に明るく振舞っていてかわいらしい。彼女が英語・ビルマ語の辞書を持っていたおかげで、この家族と簡単な交流ができた。ただ年齢的にレテ・アウンさんの娘なのか、キン・ジャイさんの娘なのかはよくわからなかった。お母さんと同じように顔にタナカーを塗った女の子はチュドゥレーと言い、7歳。そして最初に会った男の子は4歳のゼネ・マウン。二人共、突然やって来た異邦人の僕にすぐに懐いてくれた。
ラペットゥと呼ばれるお茶の葉とピーナツを和えたミャンマー独特のつまみを出され、しばらくはにこやかに歓談をした。歓談と言っても言葉は全然通じないので、絵を描いたり、シャンバッグからミャンマー土産を取り出して披露したり、写真を撮ってあげた程度。どうしても意思疎通させたい事柄がもしあれば、辞書を使って何とか通じ合うことができた。それだけでも何だか昼間の憂鬱が今となれば軽く笑い飛ばせるほど楽しい一時を過ごすことができた。
この時、レテ・アウンさんが自分の仕事場が近くにあるけど、よかったら見に行かないか、と身振り手振りを交えて言った。ほう、一体どんな所なのだろう。彼は何をしている人なのだろう。興味あったので一緒に行くことにした。途中で停めてきた自転車を取りに行き、準備を整えた後で出発。ウェウェさん達から先程の赤い木の実をお土産として両手一杯頂いた。僕は自転車を押しながら、ゼネ・マウンを肩車したレテ・アウンさんの後をついて行く。村の細道を縫うように歩いて行くと、庭先で遊んでいた子供達も、縁側で休憩している大人達もみんな僕に向かって笑顔で手を振ってくれた。何だかまるで、街で一旗上げて故郷に凱旋したかのような歓待ぶりにちょっと気恥ずかしかったが、これこそが東京のホームパーティーで会った面々が一様に絶賛する心優しきミャンマーの人々なのだな、と理解した。
村の細道を抜けるとそこは何と、昼間に僕が自転車で通り過ぎたニャンウーとオールド・バガンを結ぶ直線道路であった。そして彼の仕事場はその道路沿いにある掘っ立て小屋。竹を組んだだけの小屋の中にあるのは大きな炉のようなものと、いくつかの椅子だけ。そこでは年長の男性が炉の前にしゃがみこんで作業をしている所だった。彼はレテ・アウンさんのお父さんだとのこと。コレを作ってるんだよと、レテ・アウンさんとお父さんは完成したてのナタやバール等の道具を見せてくれた。彼等は鍛冶屋だったのだ。この小屋の炉は面白い形をしていて、上部がアコーディオン状の蛇腹になっており、その上に竹の棒が取り付けられ、天井に固定してある。そしてその棒の先から紐が垂れ下がっており、レテ・アウンさんが少し離れた椅子に座りながらその紐を引いて操作すると、蛇腹がそれに合わせて上下に動き、炉の中に風が吹き込まれる仕組みになっていた。炉の前ではお父さんが道具の焼き上がりをチェックしており、彼の指示に従ってレテ・アウンさんが調節しながら紐を引いているらしく、正に息がピッタリのチームプレイであった。彼等の作業の様子をしばし見学した後、通じなかったかも知れないが、バガン最終日となる明後日にまた挨拶に来ますね、と言って仕事場を後にした。
自転車で一本道をひた走る。道を挟んで右も左も赤い色をした大地が広がる。その大地をススキの草むらが覆っている。そしてあちこちにタケノコのように、ニョキニョキと立ち並んでいる大小様々な赤いパゴダ。そんな風景を眺めながら夕暮れを迎えた。僕はススキの草むらに自転車を停め、パゴダとパゴダの間に沈みゆく夕陽をぼぉっと眺めた。長い一日だったなぁ、と溜息を一つついている間にも丸かった夕陽はやがて線のような形となり、地平線に溶けていった。途端に辺りは暗くなってくる。急いでニャンウーに帰ろう、と自転車を探したが、一面胸の高さまであるススキの草むら。一体どこに停めたのかわからなくなってしまった。しかし時は待ってはくれず、文字通り真っ暗になるのはあっと言う間だった。ここから徒歩でニャンウーに帰るにはあまりに遠い。車もやって来る気配は無い。焦りながらひたすらススキの穂をひっかき回す。ひっつき虫のような草の実を体中にくっつけながら夢中で探す。途中野良犬がやってきてワン!ワワンッ!と吠え付いてきた。暗いので犬の姿もよく見えない中、吠える声だけが辺り一面に響く。これが闇の怖さなんだ、一言そうつぶやいたその時、草むらに横たわる僕の自転車が遂に見つかった。この暗闇の中でそれはほとんど奇跡的な再会だった。僕はとにかく急いで自転車を起こして道路に出た。そして光を求めて全速力で走った。
「きれいに熟してるわね。これはプラムの実よ。この国では唐辛子に和えて食べたりするの。」
村で両手一杯持たされた実を一掴み手にすると、ミャー・ミャー・エーさんは言った。何とかネイション・レストランまでたどり着いた僕、ミャンマーのカレー料理を食べながら長かった今日の一連の出来事を語っていた。気が落ち着いた所で席を立ち、ホテルに戻るべく再び自転車に乗った。ニャンウーの市場に突き当たって右折し、ホテルのある方向へと急いだが、まだ一日目だったのでどこかで曲がる場所を間違えたのか、ホテルがあるはずの場所にどうしてもたどり着けなかった。そこで近くで客待ちしていたサイカーという輪タクのおっちゃんに聞いてみた。おっちゃんは、ああ、そのホテルならあっちの方向を左折だよ、と簡単に説明してくれた。僕は言う通り自転車を走らせた。するとその時、後ろから「違う、違う、そっちじゃないよ。」と声がしたかと思うと、サイカーをこいだおっちゃんが追いかけてきた。そして彼はスッと僕を追い抜くと、何とホテルのある場所まで誘導してくれた。チェズーティンバーデー(ありがとう)!ビルマ語で感謝するとおっちゃんは笑顔を見せてそのままUターンし、元来た道を引き返して行った。
翌日、僕はミャー・ミャー・エーさんのお兄さんが運転する車に乗り、ミャンマー人の聖地と言われるポッパ山へと向かった。その山はバガン郊外にあり、昨日のオールド・バガンへの道同様一直線の道路をひらすら直進する。昨日の道よりも幅は狭く、対向車線から車がやって来ると、どちらかが一旦道をはみ出して草むらの中に入らないとすれ違うことができない。昨日のパゴダ散策で見慣れた赤い平原が次第に遠ざかり、辺りは鬱蒼とした木々が生い茂る丘陵地帯へと変わっていった。車はそれなりにスピードを上げているので、一瞬で通り過ぎるだけであるにもかかわらず、路肩で遊ぶ子供達は車に乗っている僕を瞬時に外国人と判別できるのか、必ず遊ぶ手を止めて「ハロー」と手を振ってくる。外国人を見慣れているのだろうか。今聖地と呼ばれる場所の多くは、同時に観光地でもあるのだな、と感じさせられる。
車は間もなく巨大な山にさしかかった。巨大と言っても、山として高いというわけではないのだが、この一帯だけは雑木林のある比較的平坦な土地に四方を囲まれており、そんな中で独特な台形型の山がデーンとそびえているものだから、非常に目立つのである。頂上にはパゴダのような金色の塔が輝く奇妙な山。ここがミャンマー人の精霊信仰の聖地、ポッパ山だ。入口から頂上まではやや険しい階段が伸びている。その脇には土産類を売る露店が並んでいるのだが、売り子はいたって静かで、売り子なのか、休憩している参拝者なのか区別がつかないほど。階段を昇る人達は誰も靴を脱いでいないので、聖なる山なのにおかしいな、と思っていた。そんなこんなで山の中腹ぐらいまで昇ると、これまで以上に急勾配な上り階段が現れた。ほとんど手すりに手をかけながらでないと昇れないぐらいの角度である。そして階段の前には参拝者達の脱いだ靴が並べられていた。つまりここからが参道ということなのだった。えっ、これから始まるの? うわぁ~、と、思わず溜息。
この上り階段でよく目にするのは猿。手すりの所に座りこんでおり、クー、クー、と何かを欲しがっているような鳴き声を出す。子猿などはカメラを向けたり、じっと見ていたりすると、恥ずかしがって顔をそむけるので、まるで人間の子供のようで愛らしかった。しかしこの猿達、人間にとっては少し厄介者のようだ。この階段を昇り降りする者に襲いかかって食べ物を奪うことも時々あるらしい。被害者の多くは一日中ここにいる物売り。何せ山の上での商売なので、食べ物等を運んで昇り降りすることが多いわけだが、その途中で襲われるケースが多く、僕もまたその瞬間を間近で見てしまった。草や葉っぱの入ったカゴを頭に乗せていた物売りのおばさんが僕の前を歩いていたのだが、突然ウキーッ!と猿が飛びかかってきた。おばさんが悲鳴を上げてそのカゴを落とすと、猿は落ちたカゴから草を抱えられるだけ抱えて飛び去って行ったのだ。おばさんはひっくり返ったカゴを拾うのも忘れて顔を真っ青にしていたが、周囲の同業者はあらあら、運が悪かったわねぇ、とでも言わんばかりに笑っていた。子猿は人間の子供のようだったが、大人の猿はまるで人間の山賊のようだった。
そしてやっとのことで山の頂上に到着。頂上には白い壁に金色の塔の立つパゴダのような寺院があった。精霊信仰の拠点と言われているだけあって仏教色は薄く、祭壇には蝋人形のようにリアルな人間の姿をした神像が何体か並んでいた。歴史上の偉人かとも思ったが、うち一人はその昔卓越した能力を使ったと言われるボー・ボー・アウンという聖者らしい。実在したのか伝説上の人物なのかはよくわからないが、こうした聖者達の霊を「ナッ」と呼んで祭っているようだった。以前日本のテレビでこの寺院が紹介されており、神のお告げとやらで女装した男性のシャーマンが打楽器をドンチャカとかき鳴らして踊り狂う様子が映されていたが、そのような人はどこにもおらず、立ち並ぶ塔の上に下げられた鈴が風に揺られて上品な音を響かせているだけの静寂な空間であった。頂上から眼下に広がる周囲の風景は、意外にも赤い平地ではなく、一面緑に生い茂る森。ここから地上を見下ろしながら、昔の人々は神の世界に来たと認識していたのだろう。
ポッパ山を後にした僕、途中の村で不思議な光景を見かけた。庭先に大きなウスと言うか、すり鉢のようなものがあり、これまた餅つきの杵のように大きなすりこぎが取り付けられていた。そのすりこぎ、何と牛の力で回されていた。すり鉢の周りをゆっくり回る牛の姿をいろんな所で見かけたので、思わず運転手さんに車を停めてもらい、とある村でその作業を見せてもらうことにした。
すり鉢を動かす牛の所には二人の男がおり、作業の傍ら親切に説明をしてくれた。彼等は料理に使用されるピーナツ油を作っていたのである。すりこぎの上部にあるくぼみにピーナツをセットし、牛が動き出すと、ピーナツが磨り潰されながらすり鉢の底の方に落ちていき、最後にエキスを沢山含んだ油が下の排出口から出てくるという仕組みである。昔と変わらぬ工程による油作りを興奮しながら見ていると、彼等はもう一つの現金収入を紹介してくれた。家の裏には5, 6メートルありそうなヤシの木々が茂っている。二つの壷を腰にくくりつけたその家の少年。木を両手で抱き抱えるようにしながらその柔らかい体を折り曲げ、両足の裏を木の表面にしっかりつけると、そのまま出初式の消防士のようにスルスルスルッと登りだした。少年が木の上でヤシの実を採っている間に、先程ピーナツの油を作っていた二人のおじさんのうち一人が、木の下に落ちていたヤシの葉を一枚拾うと、それを切ったり折り曲げたりして見事な鳩を作ってくれた。
僕がその早業に呆然としていると、おじさんはこっちに来てみな、と僕を家屋の入口に手招きする。そこにはお皿の上に碁石大の白いお菓子のようなものが盛られていた。このお菓子はタンニュと呼ばれており、正にココナツの樹液を固めて作ったものらしい。何個か食べてみると、どことなく栗のチョコレートを食べているような錯覚を覚える。ただ、あまり沢山食べるとちょっと気持ち悪くなるかも。続いて、おじさんからコップに入った半透明の液体を手渡された。これもまたココナツミルクから作ったお酒だという。一杯飲んでみるとなるほど、どぶろくのように少しお腹の方が暖かくなってきた。テーブルにはヤシの葉で編んで作られた、かわいらしい小さなバッグのようなものが並んでおり、その中に例のタンニュが詰め込まれていた。このバッグも、彼等の手にかかればお手のものである。するとおじさんはその中の一つのバッグをプレゼントだと言って僕にくれた。いや、ちゃんと買いますよ、と言っても彼等は大丈夫だとお金を受け取ろうとしない。食べ物も、飲み物も、梱包材も全てヤシの木に頼って生計を立てている人々なんだなぁ。僕はとりあえずこのバッグに入ったタンニュは彼等の好意として受け取ったが、その他にお土産としてタンニュを少し買いたいと言い、ビニール袋一袋分を買って、村を後にした。
ニャンウーまでの帰り道、運転手さんは昨日自転車で回り切れなかったニュー・バガンに少しだけ寄ってくれた。ダルマヤズィカ・パゴダという大きなパゴダの屋根の上に上がって見た景色は正に大平原一杯に散りばめられた仏塔の数々。日照りは強く、あまり長い時間いられなかったが、付きまとう物売りもいなかったので、じっくりとそのパノラマを目に焼き付けることができた。
この日は昼間のうちにホテルに戻り、プールでひと泳ぎなどして休息を取った。
翌日、僕は自転車にまたがり、ニャンウーの一郭に広がる市場を見て回った。前回カンボジアで見たものと同様、薄暗い空間に似たような物を売る店が所狭しと並び、それが雑踏や喧騒と共にどこまでも広がっている。ただしこの市場は、とある細い道を境にして外国人向けと地元民向けの市場にはっきり分かれていたのが印象的だった。地元民向けの市場の方がより活気があり、衣類や食材、日用雑貨品の並ぶ店先で売り子達のさぁ、いらんかねぇ、というビルマ語の口上があちこちから飛び交っているが、このエリアでは僕はまるで空気のような存在で、売り手も買い手も始めから僕のような外国人観光客など、我関せずと言わんばかりに全く目を向けてくることは無かった。しかし観光客が多い土産物を売るエリアに一歩足を踏み入れると、ここぞとばかりに英語で声をかけられた。時にはカタコトの日本語でも声がかかった。
しばらくこの対称的な市場を行き来しながらさまよったが、特に買いたい品物も無かったので、初日と同じくオールド・バガンへの一直線道路をひた走ることにした。
道の両側には平原が広がり、無数のパゴダが点在する風景が現れる。僕はその中からある一つのパゴダを無作為に選び、中に入ってみた。表から見ると赤茶けた遠い昔の廃墟のように思えた。しかし中を覗くと茶色い袈裟をまとった肌色の仏陀が鎮座しており、正に全てを悟っているかのような細く優しく、そして威厳に満ちたまなざしで見つめられ、思わずゾクっとした。中は真っ暗なはずなのに、ちょうど仏陀のいる場所にだけ陽の光が射す構造になっているのか、闇の中で仏の姿だけが妙にハッキリ見えるのだ。ここは廃墟ではない、生きていると思った。これだけ林立する平原のパゴダ。今でも誰かがこれら一つ一つを訪れて信仰の対象としているのだろうか。つい数日前まで誰かがきちんと掃除をしていたかのようにきれいな状態であった。
場所を移動して再び自転車を進めると、茶色いパゴダが見えたので近付いてみる。どこかから「ハロー!」と声がした。また土産屋かと警戒しながら辺りを見回すが、姿が見えない。ふと上を見上げると、声の主はパゴダの屋根修理のためにレンガを交換している男だった。気がつくと塔の周囲には数人の小さな子供と、赤ん坊を抱いた女性がいた。やはりこれらパゴダは地元住民達がメンテナンスをしているのかな? 仏教の功徳を積む行為にもつながるわけだし、ありうるだろう。
子供達は少しはにかみながらも手を振って挨拶してくれた。「ハロー、バー」とか、「ハロー、ボンボウ」とか、語尾にビルマ語らしきニュアンスを付け加えているのが印象的だった。その直後、今度は色白のアジア系外国人の女性がふらりと現れたので、思わず日本語で声をかけたら、やはり日本人であった。するとそこにいた子供達がパゴダの中を案内するからおいで、という身振りをするので、僕とその女性は彼等の後について行った。狭いらせん状の階段を昇り、上の窓から風景を見て深呼吸し、折り返し階段を降りようとした。途中子供が突然振り向き、今通り過ぎた場所の天井を指差した。するとその薄暗い天井に何と、巨大なハチの巣がぶら下がっているではないか。しかも大きなハチが何匹かへばりついている。先程昇った時も、今降りてきた時も暗くて全然気がつかなかったが、天井に頭をぶつけそうになるほど狭いこの階段、もしうっかり頭がこの巣と接触でもしていたら・・・、なんてことを想像するとゾッとするのだった。
この日本人女性は途中途中馬車をつかまえて観光しているそうなので、とりあえずここでお別れしたのだが、その後ミャー・ミャー・エーさんのネイション・レストランで偶然再会した。彼女はこれからヤンゴンに戻るそうだが、飛行機ではなく、長距離バスを使って帰るのだそうだ。これだけの距離で陸路を使うのは、外国人ではあまり聞いた事が無いため、本人はこの旅最大の挑戦だと言っていた。定刻通りに動かない上、故障も多いと聞く。とりあえず無事に着いて下さいね、と言葉をかけてバス乗り場まで見送った。
僕も今日、夜のフライトでヤンゴンに戻るので、レテ・アウン一家の所へ挨拶に行こうと思った。地図によると、昨日僕が迷いこんで偶然たどり着いた所はウェチイン村というらしい。しかしもう一度あの場所へ行けるのだろうか。
山道に入ると、やがて高床式の家が並ぶ村にさしかかった。誰もいない。聞こえてくるのは家畜の鶏とブタの鳴き声のみ。村人達は畑仕事から戻って来ていないのか、昼寝中なのか、はたまた怪しい異邦人が来たと思って、声を潜めて隠れているのか。どの家にも、そして隣接するパゴダにも人影は見当たらなかった。
一回ニャンウーとオールド・バガンを結ぶ直線道路に出た。昨日は確かシュエズィゴン・パゴダを見た後に山道を歩き出した。つまり村への道はこの近くにあるはずだ。ただ昨日はこのパゴダの物売りに振り回されてずっと腹が立っていたため、記憶が断片的である。はてさて、こっちだったかなと、ある一本の道を進もうとすると、いきなり犬が現れ、ワンワンワン!! と吠えられた。もちろん驚いたが、もっと驚いたのはその後であった。
「あなたが行きたいのはこっちじゃなくて、そっちだろ?」
この時フッと現れた老僧。確かおとといも同じ場所で、同じ人に、同じことを言われた。この坊さんがたまたまいつも犬を連れてここを散歩しているだけなのかも知れないが、それにしてもデジャヴのような不思議な感覚を覚えた。
僕は老僧の指差す方向の山道に入ろうとした。すると、たまたま村の女性が前の方を歩いていた。赤ん坊を抱き、小さな子供を二人連れている。二人の子供が僕に気付き、笑顔でハロー、と手を振ってきた。それにつられてか女性も僕の方を振り向いて笑顔を見せた。僕はミンガラバーとビルマ語で挨拶し、ウェチイン村はこっちでいいのか、と手振りで尋ねてみた。しかしウェチインという言葉自体は通じているもの、それがどこにあるのかという質問の意図がどうにも通じず、困っていると、女性はこっちに来なさい、と笑顔で一軒の高床式の家に案内してくれた。どうやら彼女等の家のようで、そこには旦那におばあさん、高校生らしき女の子に赤ん坊がもう一人。これで全家族なのだろうか。彼等は家の縁側に腰掛けるよう促したが、何せ言葉が通じないので笑顔を交し合う以外どうしていいかわからない。よく見るとこの家族のご主人は絵を描いていた。どこかで見たようなタッチの絵だな、と思ったら、バガンのあちこちにある土産屋で売られている風景画であった。パゴダが並ぶ風景を描いた洋風の絵で、どれも同じような構図なのだが、あの土産用の絵もこうした村人達が描いているのだろう。正にここバガンでは村の隅々まで観光が主産業となっているのだな。この時僕は、人の名前を言えば彼等もわかってくれるかな、とふと思い、レテ・アウンさん達の名前を一人一人挙げてみたが、それがミャンマー人の名前であることはわかっても、知人ではないようだったのであきらめた。僕は笑顔で彼等に別れを告げると、再び直線道路へと戻ってみた。
村自体はシュエズィゴン・パゴダからもう少し離れていたはずだ。そう思ってしばらくオールド・バガンの方向に向かって自転車を走らせた。するとその時、道端から僕を呼ぶ声が聞こえた。はっと振り向くと、何とそこはレテ・アウンさんの仕事場ではないか!彼が先日と同様お父さんと一緒に仕事に励んでいる所、僕が通りかかったのを見つけてくれたのだった。これまた何という偶然!探してたんですよ~っと再会を喜び合い、僕は自転車を停めて再び鍛冶屋の工房にお邪魔した。そこではレテ・アウンさんにお父さん、そして二人の子供チュドゥレーとゼネ・マウンも遊びに来ていた。
二人はかまどの中で真っ赤に焼けたナタを取り出し、水の中に入れて冷やす作業をしていた。お父さんはしきりに何か言っているのだが、ただでさえビルマ語は全くお手上げな上、モゴモゴとなぜかさるぐつわをしているかのような話し方なので理解不能であった。しかし何でそのような話し方をするのかは、しばらくするとわかってきた。コーンヤー。つまりミャンマー人が好む噛みタバコをやってるのだ。これをクチャクチャ噛むとしゃべりにくくなるのかも知れない。
レテ・アウンさんはこのお父さんと交互にナタを冷やしている水を手にすくってから、遠くを指差し「ジャパン、ジャパン」と言っている。ミャンマーの水はきれいだから、日本に輸出できればいい、と言っているのだろうか。うーむ、ちょっとわからなかった。
チョドゥレーとゼネ・マウンは宝くじのくじ券を使ってトランプの真似事のような遊びをしていた。一度か二度写真を撮ったら二人共嬉しかったらしく、何度も「ダボー、ダボー」と言ってせがむ。ビルマ語を知らない僕も「ダボー」が写真の意味だということがだんだんわかってくるのだった。
一段落着いて、レテ・アウンさん達はちょっと家で休憩しようと言い、村の家まで行くことにした。かくして竹林の森に入り、昨日迷い込んだあの家に到着。そこには入浴を終えたばかりの娘、トユモーだけがいた。彼女はタオルで髪を拭きながらも天真爛漫な笑顔で僕を迎えてくれた。入浴と言っても、この家に風呂やシャワーがあるわけではなく、みんなすぐ近くにあるイラワジ河で水浴びをしているようだった。しばらくしてキン・ジャイさんとウェウェさんも戻って来た。早速中国茶を振舞われ、束の間リラックスしていた。二人の子供はおとといと今日で僕が教えた「こんにちは」という日本語をすっかりきれいな発音で覚えていた。特にゼネ・マウンはよく懐いてくれて、僕の膝の上に乗ってじゃれるのが好き。僕は今日でバガンを去ることを告げた。もちろんビルマ語ではなく英語と若干の手振りで告げたのだが、やはりニュアンスは伝わるのか、膝の上にいたゼネ・マウンがいやだ、行くな、と駄々をこねだした。わかった、それじゃ、ゼネ・マウンをこのシャンバッグに入れて、一緒にヤンゴンに連れて行くよ、と冗談を言うと、今度は泣きそうな顔でいやだ、いやだと逃げようとした。言葉が通じない環境だと、お互い勘が敏感になるのだろうか、何だか田舎の親戚を訪ねているかのような、暖かい時間であった。
名残惜しいが、そろそろ時間だ。ゼネ・マウンが「ダボー」と最後にまたせがんだので、みんなと集合写真を撮り、今回のバガン訪問で最も印象に残ったこのウェチイン村を後にしたのだった