第七回 「卒業旅行報告」
(インドネシア・ラオス編)
Indonesia
Laos
インドネシア旅の期間:1995年7月10日~7月19日 9日間
訪問地:ジャカルタ、プロウ・スリブ、ウジュンパンダン、タナ・トラジャ、ジョグジャ
ラオス旅の期間:1996年2月23日~3月2日 7日間
訪問地:ビエンチャン、シエンクアン、バンビエン
インドネシア報告
四日目:タナ・トラジャ
翌朝5時にホテルをチェックアウトした僕はタクシーでバスターミナルにやって来た。タナ・トラジャの中心地であるランテパオに行くバスは15分後に出発するとのこと、早速切符を購入。数人の欧米人バックパッカー、そして帰郷するトラジャ族と一緒にバスの扉の前で待っていると、一人の若い男が一枚のチラシを持って現れた。
「ランテパオ行くんだろ? このゲストハウスは安くて欧米人にも人気だよ。」
行く前から早くも宿の呼び込みか。悪いけど、もう行く先は決めてるんだと軽くあしらったが、そんな所よりも安くていいだの何だのと、なかなか引き下がらない。やがてバスの扉が開いたので僕は彼を置いてそそくさと乗り込んだ。これしか交通の手段が無いためか、座席は僕の隣の席を除いてすべて満席。しかもあのホテルボーイ、皆に紛れて同じバスに乗り込むと、前の方の席に座るや隣の欧米人相手に車内でも営業活動に励んでいた。バスが出発してしばらくすると、隣の欧米人が望み薄と判断したのか、ホテルボーイは唯一空いている僕の隣の席にいきなりやって来ると、ここに座っていいかと聞いてきた。僕もこの時イヤだ、来るなと追い返せばよかったのだが、窓の方を向きながら勝手にすれば? と答えた。彼は嬉しそうに荷物を持ってこちらに移動して来て、宿は本当にレインボー・ホームステイでいいのか、と僕の心変わりを期待せんばかりに聞いてきた。ああ、それでいいんだよ、と一言答えた僕はそれ以上口を聞かなかった。
山間部に入ったバスはうっそうと生い茂るヤシの林に包まれる。こんな所になぜあるのか不思議だったが突然一軒の屋外喫茶店が現れ、そこでトイレ休憩。テーブルに腰を下ろして楽しみの一つであった本場のトラジャ・コーヒーを注文。「エス・コピ(アイスコーヒー)」でと、覚えたてのインドネシア語で言ってみる。するとその時、先程から付きまとうホテルボーイがまた現れ、僕の座るテーブルに腰を下ろすと、店員を呼んで同じ物を注文した。数分後、氷の揺れる音が耳当たり良い大きなグラスがテーブルの上に置かれた。現地では一般的なのか、ミルクと砂糖は既に混ぜてあった。のどが渇いていた僕は早速ほろ甘く、少しばかり苦みも感じるそのコーヒーを味わう。向かいに座る彼が二、三言雑談がてら他愛の無いことを話しかけてきたので空返事で受け答える。飲み終わって勘定すると、メニューに書かれていた元の金額と少し違う。伝票を見てビックリ、何とコーヒーが二杯分付けられていた。もしやと思いテーブルの方を振り返れば、ホテルボーイはちゃっかりバスへと戻っていた。自分で勝手にコーヒーを注文しておいて他人に払わせるとは、どういう神経してるんだ! たかがコーヒー一杯で激怒するのも大人気無いので一歩手前で自分を抑えたが、それにしても気分が悪い。以降、こいつとは完全に無視を決め込んだ僕であった。
バスがいよいよタナ・トラジャの入口に入ると、警官が一人乗り込んで来た。この地域に入る際、外国人は「入郷税」なるものを取られるとか。外国人から金を取るためならイメージダウンなど怖くもないとでも言いたげな愚策だ。しかし個々がどう考えるにせよ課せられるのなら仕方無い。前の席の欧米人達は一人一人財布を開き、決められた金額を払っていた。警官はやがて僕のいる所に近付いて来た。だがこの警官、僕と目が合ったにもかかわらずそのまま通り過ぎてバスを降りてしまった。あんた、現地人と間違えられたんだよ! 周囲のトラジャ族が皆そう言って笑った。
午前中のうちにタナ・トラジャ散策の拠点、ランテパオの町に入った。ここまで来るとイスラム色が薄れ、スカーフをかぶった女性もほとんど見られない。所々に教会が立ち、田舎なのに若干西洋的な開放感も感じられる。ウジュンパンダンから約5時間かけてやって来たバスの終点は、この小さな町の片隅にある何の特徴も無い小さな路地であった。扉が開くと里帰りの地元民は嬉しそうな声を上げて真っ先に降りて行く。僕も初対面の町に糸引かれるように降りる。と、その時・・・。
「こんにちは。待ってたよ。さあ、車を用意したから行こう。」
三十半ばらしき長身の男とパンチパーマの男の二人が人々の流れに逆行してバスに乗り込んで来ると、少し強引に僕を近くのワゴンに誘導しようとした。もしかしてペトルスの言ってた出迎え?
「あのー、あなた達はどちら様?」
「俺の名前はヘンリック。それとこいつは運転手だ。」
別に彼個人の名前を聞いたつもりではなかったのだが、どこぞの宿だか旅行社だかの呼び込みだろう。僕は宿泊先も今日以降の観光プランも全て手配済だと彼に説明した。
「OK。じゃ、レインボー・ホームステイまで送ろう。もちろん金はいらない。相談はその後だ。」
幾度か説明しても、とりあえず宿まで行ってから話を聞こうと言う。ペトルスの出迎えらしき人達も見当たらないので、とりあえず彼の勧めにのって車に乗り込んだ。いずれにせよプランは既にできており、金も払ってあるので今更変更することはありえないのだから。例のホテルボーイはまだいたのか、一緒にレインボーに連れて行ってくれと、ヒョコヒョコ後を追って車の後部座席に座った。
宿は終点から車でものの10分程の所にあった。二人の若い女性従業員がいつも床をピカピカに磨いている清潔な雰囲気のゲストハウス。チェックインした後、僕は近くのソファに腰を下ろし、顧客獲得に燃えているこの長身のヘンリックにもう一度事情を説明した。
「ああ、ペトルスか。知ってるよ。彼は旅行プランナーだが、ガイドじゃないはずだよ。」
「ガイドは別の二人が来ることになってるらしいんだ。」
「でもその二人も今いないんだろ?」
ヘンリックがそう言った瞬間、ガラン!と宿の扉が開き、三人の男が入って来た。ウジュンパンダンで契約したあのペトルスがヤコブス、アントンの二人を両脇に従えていた。ナイスタイミング!
「待たせたね。少し遅れたけど、こちらは準備完了だ。」
そう言った彼は直後に状況を判断したらしく、僕の前にいる同業者と現地語で何か話し始めた。
「Ling Mu、ちょっとここで待っててくれ。表で彼と話をするから。」
ペトルス達三人、そしてヘンリック達二人は一旦宿を出ると、入口の前で論議を開始。終始カヤの外だったホテルボーイは結局何しに来たのか、いつの間にか消えていた。約10分が過ぎ、表ではまだ口論が続いているのかと思いきや、彼等は至ってのんびりした様子で肩など叩いて冗談を交わしながら穏やかに折衝を進めていた。その後すぐに彼等はドヤドヤと宿の中へと戻って来た。
「問題は解決した。我々は一緒に仕事する。無論あなたはこれ以上金を払う必要は無い。」
双方は共に笑顔で言った。要はペトルスが取った仕事をヘンリックと山分けにしたらしい。それはともかくとして、ライバル同士ケンカもせずに円満に終わらせるインドネシア人って何かすごい。
当初の緊張感はどこへやら、商売敵同士のペトルス派とヘンリック派はあっと言う間に協力関係を結んでしまった。良く言えば争いを好まない人達。悪く言えば調子いい連中・・・。この二日間に渡り、両派は分担して僕の旅をアテンドすることに。例えば車と運転手はペトルス派から、ガイドはヘンリック派から、ウジュンパンダンへの送迎はペトルス派から、といった感じ。いずれにせよこれによって既に支払済の代金が追加されることは無いそうなので、とりあえず合意した。むしろ双方を競争させた方が彼等も気合を入れて対応するに違い無い、という淡い期待もあった。
すぐに車をよこすから一時間後に出発しよう、ペトルス派もヘンリック派もひとまず宿から引き上げようとした。一時間後となると、途中昼食を挟むことになる。先程聞いた話では食事代は含まれていないとのことだったので、ガイド達の分はどうなるのかと聞いてみた。彼等は「それはまぁ、その場その場でお好きなように」と曖昧な返答をすると、ヘンリックの車に乗り込んで去って行った。
彼等が来るまでの間、僕は地図とガイドブックを開いて今日と明日の行く先を指で追って確認した。今日は主にトラジャ族の葬儀を見学、明日はトラジャ族の村やそこにある神秘的な伝統文化を散策する。葬儀をわざわざ見るというのも変な話だと思われるので、事前に説明しておこう。この地に住むトラジャ族は、死というものを出産や結婚と並ぶ、いや、それ以上の人生における大きなターニングポイントと考えている。彼等にとって死ぬということは人間としての完成、そして神々の世界への出発を意味することなので、何よりも盛大なお祭りを行うのだそうだ。又、彼等には他にも不思議な習慣があるらしい。それは追って見ていくとしよう。
一時間後、大きなランドローバーと共にガイドがやって来た。ヘンリックが手配したダネルという名の彼は少し真面目で無口な男だった。トラジャ族の特徴なのか、彼も、ペトルス・ヤコブス兄弟も、運転手も、そしてバスにいたあのホテルボーイも皆、横長の楕円形をした輪郭が共通している。今回はランテパオから30分程の所にある村で行われる葬儀を見学することになった。その前になぜか車は市内の商店に寄る。ダネルいわく、葬儀参加の際に家長に渡すためのお土産を買うのだそうだ。一般的にはタバコ一、二カートンで十分らしい。だがこの時僕が釘付けになってしまったのは店の一郭にあったカセットテープのコーナーであった。中学生の頃、日本のラジオ番組で偶然聞いたインドネシアのポップスをきっかけにアジア音楽にはまってしまった僕は、ダネルにちょっとお願いして買い物の時間を作らせてもらった。いくつもの島々や民族から成るこの国のポップスは当然多種に細分化されるが、大きく分けるとイスラム音楽の影響を受けた大衆向けダンス歌謡であるダンドゥット、ポルトガル人の残した音楽が南国風にアレンジされたクロンチョン、そして欧米風のポップスがインドネシア語で歌われたポップ・インドネシアの三種類がある。この時期最も人気があったのは社会派ロック歌手のイワン・ファルス。誰もがナンバーワンと認めるカリスマ的な歌手で、そのコンサートでは十万人を動員するとも言われ、交通事故から反政府暴動に至るまで毎回必ず何かが起こるらしい。この日いくつか購入したテープの中で、今回はこのイワン・ファルスの少しカントリーウエスタンっぽいロックを車内のBGMにして、ランテパオを出発した。
「さあ、着きました。降りましょう。」
ダネルに言われて降りた場所は、霧のかかったなだらかな山々に四方を囲まれた人気の無い水田地帯。平地のランテパオから一転したこの風景、そしてまるで時間が止まったかのようなこの静けさにまるで別の島に来たような錯覚を覚える。葬儀を行っている村へは、ここから更に15分程田んぼのあぜ道を歩いて行く。まだ日焼けで体中がヒリヒリしているので歩くのは少ししんどかったが、やがて森の木々の間から奇妙な建物が見えてきた。トンコナン・ハウスと呼ばれるその高床式住居は、まるで船のように両端がV字型に吊り上った独特な屋根を持つ。但しここにあったのは倉庫か儀式用のみに使われているだけのようで人が住むには小さい物だった。途中現地でカラバオと呼ばれている農耕用の巨大な水牛や、無邪気に駆け回る子供達との出会いを経て森を抜けると、やはり儀式用と見られるいくつかの小さなトンコナン・ハウスを中心に大きな広場が現れた。そしてこの広場を囲むやぐらには多くの村人達が静かに座っていた。
「では、あの人にお土産を渡して下さい。」
僕はダネルからタバコを受け取ると、向こうからやって来た一人の中年女性にそれを渡した。死んだ家長の未亡人だろうか、その女性は表情を変えずにタバコを受け取ると、「テリマカシ(ありがとう)」と一言だけ言って握手の手を差し出し、そして僕達をやぐらに案内した。そのやぐらは外国人観光客用に設けられているらしく、オランダ人の老夫婦が数組座っていた。トンコナン・ハウスのある広場の真ん中では、黒豚が解体されている所だった。既に上半身と下半身が分離された何頭かの豚を、サロンと呼ばれる腰布を巻いた男達がナタを片手に更に細かく切り刻んでいる。黒い角柱型の帽子をかぶり、大きなタスキを付けた老人のスピーカーによる指示に従いながら、皆汗だくで真っ黒に日焼けしながら黙々と作業を行っていた。老人の黒い帽子はちょうどスハルト大統領や、テレビの宗教番組に出てくるイマーム(イスラム教の導師)がかぶっているものと同じなので、この地域にはイスラム教徒も多いのかと思ったが、ダネルの説明によるとあの帽子は国民帽と呼ばれ、宗教は特に関係していないのだそうだ。しばらくやぐらの椅子に座ってこの様子を見ていたが、老人のスピーカーの声以外会場は至って静かで先程から何の変わりばえも無い。子供達は屈託無いが、やはり葬式なだけあってとりわけ大人達の表情は固く、ダネルを通訳に通してもちょっと話しかけられる雰囲気ではなかった。実はトラジャ族の葬儀は三日三晩行われ、メインイベントである神輿の踊りは二日前に既に終わってしまったのだそうだ。故人を神の国へと導くために巨大な神輿が登場し、海を表現しながら踊る村人達の中をくぐって旅立たせるという盛大な儀式らしい。今行われているのはその儀式を無事に終えた村人達の労をねぎらうための打ち上げといった所なのだろう。まあ、葬儀は決して定期的に行われるものではないので文句は言えまい。あと30分ぐらいここにいればあの黒豚を一切れ分けてもらえると思いますが、どうします? とダネルに聞かれた。切り口にまだ鮮血がしたたる黒豚を見ても特に食欲は湧かなかったし、それまでの時間がムダに感じたので、早々と引き上げることに。同じやぐらのオランダ人達は一休みするためにここに来たのか、あるいは故人の知人なのか、その変わらぬ風景を先程からただじっと眺めている。神秘的な少数民族というイメージが先行したためか、ちょっと期待はずれの葬儀であった。
そこは死の世界かと思った。葬儀の広場を出て20分程の所にあるスアヤと呼ばれる絶壁。岩肌にはまるでアパートのベランダのような四角い穴が何箇所かくり貫かれ、その一つ一つに何体ものミイラのような人形が両手を前に出してこちらを見ていた。背丈はほぼ等身大。木製らしいが肌の色は灰色か茶色。皆ボロボロの服をまとい、真っ白い目を光らせている。中には目がはがれ落ち、くぼんだ穴だけの目をした者もいる。ここは村の祖先達の墓地で、これら人形はタウタウと呼ばれる。元々人が死んだ際、故人を忘れないようにそっくりの容姿をした人形をこしらえ、崖や洞窟の墓地に立たせておくというこの地独特の風習があるらしい。その昔、ある所の戦士がこの土地の姫に求婚した所、姫の父親である王は条件としてこの戦士に無理難題を与えた。両手を一切使わずにこの険しいスアヤの山を頂上まで登れというものだったが、戦士はこれを奇跡的に成し遂げ、やがてこの土地の王になったという。以後、王の子孫や貴族達がこの神聖な山にあやかろうと、スアヤに埋葬されることを熱望したため、いつしかここはタウタウの集合住宅となってしまったのだそうだ。よく見れば素朴な木彫りの人形に服を着せただけのようだが、年季が入るごとに人形のリアリティは更に増しているように感じる。まるでそこに魂が宿り、年を取っているかのように。
「やあ、楽しんでるかい?」
奇怪な人形達を前に背筋が寒くなっていた所で偶然ペトルスと出会い、少しばかり気が落ち着いた。彼はウジュンパンダンから連れて来たオランダ人のカップルを案内していたようだった。
スアヤから少し離れた所にある静かな森の中。ダネルの後について入って行くと、彼はある大きな大木の上の方を指差した。その大木には小さな扉がいくつか据付けてある。鳥の巣箱かなと思いきや、それらは赤ん坊の墓であった。まだタウタウにもなれない小さな子供の遺体はこうして大木の幹をくり貫いた穴に安置していたのだそうだ。するとどこから現れたのか、数人の子供が僕達の周りにやって来て「ブラブラ、ブラブラ」とつぶやく。何かお菓子が欲しいという意味のようだった。森の中とは言えここが観光地の一つであることをわかっていて彼等はこの辺りのどこかに一日中潜んでいるのだろう。お菓子をねだることもできぬまま死んでいった大木の中の赤ちゃんの思いが、この子供達を動かしているような気がしてならなかった。
不思議な死者の人形達と対面した後、僕達はランテパオの近くに戻ってちょっと遅い昼食を摂った。そこはホテルの屋外レストランのような比較的豪華な店。僕とダネル、そして運転手の三人が同じテーブルに腰を下ろした時、ふと気になった。ガイドと運転手の分の食事代は今回のツアー代に含まれていないが、支払はどうするのか?
「まあ、それはお好きなやり方で結構です。」
先程ゲストハウスで両派が口を揃えて言っていた曖昧な表現をダネルも真似していた。では、今日は自分の分だけ負担させてほしい、僕はそう言った。ダネルは了解しました、と一言だけ言うと運転手と共にスッと席を立ち、店の奥にある運転手用の小食堂へそそくさと消えてしまった。何も言わなければやはり僕がこの二人の分も負担していたのか。複雑な気分だった。この優雅なバルコニーにたった一人残されての食事。二畳半で一人冷や飯を食らうのに似た空しさを感じていた。
夕方、僕はレインボー・ホームステイの食堂でコーヒーを飲みながら、この宿をきりもりする女の子二人や食堂のコック達から簡単なインドネシア語を教わっていた。
「サトゥ、ドゥア、ティガ、ウンパッ、リマ・・・。」
一、二、三から習い始めたが、どうせ十まで覚えても町中でそれを耳にすることはまず無い。ほとんどの場合、千や万といったケタがついてくるからだ。しかし聞いていると文法もさほど難しく感じられず、覚えた単語を適当に並べれば即使えそうな言葉のように感じた。通りのことを「ジャラン」と言い、二つ重ねて「ジャラン・ジャラン」と言えば散歩するという意味になる等、重ね言葉がよく目立つ。しかしやはり最も実用的なのは料理の名前だろう。今晩は好物のサテー・アヤムもナシ・ゴレンも無いので代わりにサテー・ロントンとナシ・プティでどうかと聞かれた。発音も似ているのでとりあえずいいよ、と答えると、テーブルの上に置かれたのは串焼きではなく、マトンと餅を皿に盛りつけた不思議な味のする料理とただの白いご飯であった。
食後、宿の外を少し散歩しようと表に出る。外には街灯が無く真っ暗な道であったが、少し暑かったのでそのまましばらく歩いていると、暗闇の中から「コンニチハ」という日本語が聞こえた。現地人らしきアクセントだったので少し警戒して辺りを見回すと、近くの家の庭で数人の現地人が酒でも飲みながら座っているようだった。暗くて何人いるのかはほとんど見えない。なぜこの暗がりで日本人とすぐにわかったのか。気味が悪くなった僕はすぐさまUターンして宿へと戻った。
その夜自室で一人ベッドに横になっていると、どうしたことか僕の心の中はちょっとした孤独感と空しさで締め付けられていた。北京留学を始めた頃に初めて一人旅をした香港での寂しさによく似た気持ちだと思う。当初の目的通り興味深いトラジャの文化を見てきたにもかかわらず、この脱力感は何だろう。本当の葬儀を見られなかったことで不完全燃焼しているのか。ガイド達に振り回されたことや、日焼けの痛みでうまく身動き取れないことへのストレスか。一緒にいるのがガイドだけなので、どんなに面白いものを見てもその感動を分かち合える人が他にいない寂しさだろうか。僕の周りには一人旅の好きな人が沢山いる。彼等はこんな時どうやって気分を紛らわしているのだろう。皆が皆必ずしも旅の目的を持っているわけでもないのに、どうやってあんなに旅を楽しんでいるのだろう。香港以降、僕は韓国、マレーシア、インドで非常に充実した旅ができた。しかしそれは現地の友人のサポートがあったからに他ならず、結局一人旅という一点にしぼれば、香港の時と今とで何も成長していないのではないか。どうやらこの憂鬱はそんな気持ちから来ているようだった。
僕は香港にいた時、とにかく誰かに助けを求めようとし、挙句の果てにサギに出会ってしまった。僕はあの失敗から何か学んだだろうか? 一人でいる以上、それを現実として受け止め、自己の責任で行動すること・・・だろうか。自分達でここタナ・トラジャを効率的に回る器用な旅人も沢山いるだろうが、僕は僕の責任でガイドを雇った。こうした憂鬱も現実として受け止め、どうやって乗り越えるか、明日からどうやって行動するか、自己の責任で旅を作っていかなければならない。これからは旅費も自分で稼ぎ、旅の時間も限られてしまうのだから。