第十回 「ひと冬の夢」 (フィリピン編)

Philippines


フィリピン旅の期間:2001年1月23日~1月29日 6日間

訪問地:マニラ、セブ、ボホール

 




五日目:セブ滞在延長

 

 翌朝、と言っても11時頃、センター・ポイントをチェックアウトした僕は荷物を担いで一路ビルのいる宿へ。とりあえずマニラへ立つ前に彼等、そしてネリーにお別れを言わなければと思った。エレベーターで彼の部屋のあるフロアに上がると、早速アイルランドの音楽が半開きになっている扉の内側から聞こえてきた。そして相変わらずのベレンママさんの豪快な笑い声。ほんとに親子のように連中はいつも一緒にいる。

 「おはよう!」

 「おう、Ling Mu。昨日は楽しかったか?」

 「またトップスに行っちゃったよ。」

あんたとネリーはすっかり恋人同士だねぇ! ベレンママさんはそう言ってガッハッハと高笑いした。

 「結婚する時はあたしに任せときな! 次回あんたがまた来たら、あたしと一緒にミンダナオに行くんだよ。そしてあんたの母親代わりにご両親の所行って挨拶に行ってあげるから! その代わり飛行機のチケットはちゃんと用意するんだよ。あと携帯と…。 」

相変わらず気の早いおばさん。次は仲人になろうとでも言い出さんばかりだ。このペースに乗せられちゃいけない。

 「とりあえず昼メシにでも行くか。ついでだからネリーも誘ってみたら?」

ビルが言った。最終日だし、それはいい考え。

僕達三人はすっかりおなじみとなったロビンソンへ早速向かい、昼休みのネリーをピックアップ。タクシーに乗って初日にビル達と食事したメキシコ風のバンド演奏がある料理店へ。

 「次は来年か再来年ね。」

ネリーは僕のグラスにコーラを注ぎながら言った。店の制服姿の彼女もまたかわいい。次々ときれいに飾りたてられた料理が運ばれてくる中、これが最後の食事かと思うと妙に寂しくなる僕であった。

 「Ling Mu、セブの旅をもっと充実させる方法があるが、聞きたいか?」

この時ビルが食事の手を止めて言った。

 「もし君さえよければ予定を一日変更したらいいと思う。」

予定では僕は今日のフライトで、ビルはあさってのフライトでマニラに戻る。そこで僕がもう一日セブに滞在し、一方ビルがマニラ行きを一日早め、二人のフライトを明日の便に変更して一緒にマニラに行こうというのが彼の提案だった。そうすれば今日一杯もう一度ネリーと一緒に過ごすことができる。

 「予定変更したらマニラではほとんど何もする時間は無いが、どうする?」

 「2分だけ考えさせてくれ。」

元々マニラに着いたらすぐにアンティポロに行ってフレディ・アギラーのライブを見ようと思っていたが、それを次回に回すことには特に問題無かった。ただもう一件、一万ペソを取られながら半分ぐらいのサービスしか受けられなかったことについてあの旅行社にクレームし、キャッシュバックを念頭に置いた交渉をするつもりだった。しかし予定変更すればマニラ着は5時以降になり、かつ翌朝の上海行きは早いのでクレームに行く時間は無い。行きつく所はボッたくられた分を授業料としてあきらめるか否かの判断であった。しかしせっかくの休日。これ以上不愉快な思いをするより、ビルの言う通りセブで知り合った仲間達と一緒に過ごした方がずっと有意義であることは当然。元々は一人旅であったことを考えればお金には代えられない思い出も沢山できたのだから。

 「わかった。もう一日セブにいよう。」

僕は結論を下した。

 「じゃ、また今夜ね!」

ロビンソンに戻り、ネリーはエスカレーターを昇って二階の職場に戻って行った。予定変更を決めたお陰で今夜彼女と映画に行く約束ができた。選択は正解、今から今晩8時が待ち遠しくなった。彼女を見送った後、残ったビルとベレンママさん、そして僕の三人はとりあえずロビンソン一階にあるセブ・パシフィック航空のオフィスへフライト変更の手続に行った。

 

 かくして手続を簡単に終えた僕がベレンママさんとオフィスの椅子に座ってしゃべっている間、ビルの手続がいやに時間かかっていた。

 「全く、どうしたこったろうねぇ。ビル! あんた手続しながら携帯メールやってんの?」

しびれを切らしたベレンママさんなどそっちのけのビルはもう10分程僕達を待たせてやっとカウンターから戻って来た。

 「待たせたな。今カウンターにいる受付嬢、今晩デートに誘ってたんだ。」

さすが往年のプレイボーイ、美人に出くわせばどんなチャンスも逃さない。新たなマドンナの出現か、ビル!

 「あんた達今晩デートでよかったねえ。夕方まであたしの家にいらっしゃいな。」

ベレンママさんの誘いで僕達は早速市内からタクシーで20分程の所にある彼女のお宅を伺うことにした。

 

 そこは木造の三階建ての家。昨日のジョアンナおばさんの家と共通する部分が多く見受けられる。タクシーから降りると大きな家の割には細い入口が正面にあり、三人は一列になって中に入る。入口の近くにはこの家の子供だろうか小さな少年が立っており、ベレンママさんを見ると抱きついてキスをしていた。続いて入ろうとしたビルには少年は握手で応対していた。そして次に僕が入ろうとすると、少年は突然顔をこわばらせてサーッと逃げて行ってしまった。この家に何度も来たことのあるビルはともかく、初めてやって来た異邦人なので人見知りされたのだろう。

 ジョアンナおばさんの家と同様、一階は暗くて特に何も無く、僕達は入るとすぐに細い階段で二階へと上がった。階段に沿ってきれいな黄色い花の鉢植えがいくつも並べてある。客間は二階にあり、そこにいた中年の夫婦が僕達を迎えてくれた。

 「Ling Mu、紹介するわ。一緒に住んでるあたしの妹夫婦だよ。ビルは知ってるでしょ。」

ベレンママさんに紹介され、テーブルにつく。

 「ようこそいらっしゃいました。何か冷たい物でもいかがですか?」

ベレンママさんとは似ていない色白の妹さんと物腰柔らかい旦那さんはコーラとお菓子でもてなしてくれた。この時僕が椅子の横にナップザックを置こうとすると、中に入っていたマーティン・ニーベラのテープがポロッと落ちた。

 「ほう、フィリピンの音楽をお聞きになるのですか、どうぞ遠慮無くかけて下さい。」

旦那さんがそのテープを手にして曲目を見ながら近くのラジカセにセットしようとした。

 「それならあたしの部屋にあるのを使いなよ。そのラジカセ、よく壊れるんだから。」

ベレンママさんはそう言って同じ階にある自分の部屋へそのテープを持って行った。ついでに部屋を見せてもらおうと僕も一緒について行く。その部屋は今さっき昇って来た階段の近くにあった。大きなベッドの周りには置物やら、積み重なった衣類やらが無造作に置かれ、壁という壁には家族の写真が所狭しと貼られていた。本人と同様、見るからにうるさい部屋である。

 「この子はあたしの上の娘だよ。今アメリカに留学してるんだ。彼女の仕送りだけが今のあたしの収入源なんだよ。下の娘は今もこの家にいるよ。もう、どこほっつき歩いてるのかねぇ。」

ベレンママさんはそこに貼ってあった写真の一人一人を説明せんばかりの勢いでしゃべる。それにしても家族だと言っているのに、まるで学校の集合写真のようにどの写真にも大勢の人々が写っている。昨日のジョアンナおばさんの家しかり、この家しかり、家自体は確かに大きいがその分人口もいささか多いような気がした。

 「この家には何人ぐらいでお住まいなのですか?」

テーブルに戻った僕は旦那さんに聞いてみた。

 「そうですねぇ…。二十…。」

旦那さんがそう言いかけた時、妹さんが付け加えた。

 「弟家族もいるでしょ。」

 「ああ、そうだった。全部で三十人ちょっとですね。皆兄弟の家族です。各階ごとに家族別のスペースがあるんですよ。」

そこへ妹さんが冷えたビールを持って来た。

 「一本どうですか?」

 「おお、やっぱそうこなくちゃな。」

ビルが嬉しそうにグラスを差し出す。何も昼間から…、と思いながら僕も仕方無く付き合う。

 「このビールはコルト・ビールって言って、アメリカブランドなんだけど、現地生産してるんだよ。どう、うまいかい?」

僕にはむしろ始めのコーラの方が良かったのだが、一応おいしいと言っておいた。

 「このつまみもフィリピンに昔からあるお菓子なんだよ。どうだい?」

魚をベースにしているという駄菓子のようなスナックとのことだったが、何の味も付いておらず正直対してうまい代物ではなかった。だがベレンママさんがあまりに熱心に聞いてくるのでやはり一応おいしいと言っておいた。その時、彼女はたまたま通りかかった14、5才位の妹の娘を突然呼び止めた。

 「そうか、おいしいかい! ならちょっと待っててな。あんた、向かいの売店で買って来な。」

彼女は妹の娘に小銭を渡し、そのスナックを買いに行かせてしまった。

 「ベレンママさん、そこまでしなくていいって。おいしいけど別にいらないから!」

 「いいんだよ。日本には無いんだろうから、持って帰って家族や友達と食べなさい。」

5分としないうちに妹の娘はすぐに先程のスナック菓子を買って戻って来た。ベレンママさんはそれを受け取ると無理やり僕のナップザックの中に押し込み始めた。しかもそれだけじゃない。続いて妹さんが奥の冷蔵庫からコルト・ビールをもう一本持って来て、僕に持たせようとした。

 「いや、ビールはいらないですよ。」

 「今、おいしいって言ったでしょ。遠慮せずに持って行きなさいって!」

ベレンママさん、今度はビールを瓶ごと僕のナップザックに入れようとした。

 「気持ちはありがたいけど、瓶は移動する時にかさばるから。」

 「なぁに、タオルにでもくるんどきゃ大丈夫さ!」

必死に彼女を止めようとしたが、聞き入れてくれない。しかもこの時、たまたまビルの放った一言がベレンママさんを第三の行動に走らせた。

 「そうそう、前回買ったサボールを切らしたんだけど余分あったら分けてくれないか。」

 サボールとはフィリピン料理で使われる調味料の一種で、醤油に唐辛子が混じったものらしい。ビルが大変気に入っていて、アメリカに帰ってもこれを使って調理するという。

 「ああ、いっぱいあるよ。ちょっと待ってなさい。」

僕は少しいやな予感がした。

 「ほれ、ビル。持ってお行き!」

 「サンクス。」

ベレンママさんはサボールの瓶を二本ビルに手渡した。しかし彼女の手にはあと一本、サボールが残っていた。

 「Ling Mu、あんたも一本持って行きな。うまいよ!」

予感が見事的中。僕は首を振って断った。

 「使ったことなくてわからないから、僕は結構ですぅーっ!」

 「なーに言ってんだい! 使ったこと無いからこそ試してみるんだよ。高い物じゃないんだから、持って行きなさいって!」

結局そのサボールとやらもまた、ナップザックに詰め込まれてしまった。フィリピンの人だって、できないことを「No」とは答えず「Maybe(多分)」と答えるなど、曖昧を好む民族であるはず。当然接待を受けている席でまずいなどと言うつもりは無いからとりあえずおいしいと答えただけなのだが、彼等はそれを社交儀礼とは理解しなかったのだろう。ま、これもアジア人ならではのホスピタリティとして受け止めるべきか。

 窓が無いのでオレンジ色に焼けた空がくっきりと見える。そろそろ時間だ。彼等の暖かい思いを背中にズッシリと感じながら席を立とうとした。

 「姉さん、Ling Muさんはベイビー初めてじゃない?」

この時妹さんが階段を下りようとする僕達を呼び止めて言った。

 「おっと、そうだったねぇ。紹介しないと。」

ベイビー? 定年退職したこのオバサンに赤ちゃんでもいるのか? 首をかしげながらベレンママさんに先導されて一階へ。すると軒先で一人の痩せた長身の老人がソファに座ってテレビを見ていた。

 「ベイビー、紹介するよ。あたしの友達の日本人でLing Muって言うんだ。」

このじいさんがベイビー!? 一瞬目を疑ったが、何と本当にそういう名前なのだそうだ。

 「Ling Mu、このベイビーはあたしの兄貴で長男さ。つまりこの一家の長老ってわけ。明日で七十になるんで、マクタンでビーチパーティーやるんだよ。あんた達二人のフライトは午後だから絶対来ておくれよ。」

ベレンママさんがいつもの早口で紹介した。

 「おお、日本人か。実はわしはな、五十年前に機械エンジニアの研修で京都に行ったことがあるんじゃよ。向こうの研修センターの人達は皆ご年配だったのに、当時若造だったわしにきちんとお辞儀して挨拶していたよ。いや、実に礼儀正しい人達じゃった。」

ベイビーじいさんは親しげにそう話してくれた。家の前の道端では沢山の子供達が道路一杯にチョークか何かで丸やら四角やら図形を書き込み、日本の「ケンケンパー」に近い遊びを楽しんでいた。

 「Ling Mu、あそこに立ってる子と今ケンケンやってる子ははあたしの弟の次男と長女だよ。」

ベレンは子供達の中の何人かを指差して言ったが、あれだけいてはそれが誰のことなのかさっぱりわからなかったし、わかった所でどうでもいい話なので、適当にハローと言って手を振ると、子供達は全員ハローと反応してくれた。

 「そうそう、次は彼も紹介しなきゃね。」

大忙しのベレンママさんは、通りの向こうから歩いて来る色黒のハゲ頭のおっさんを指差した。

 「彼はあたしの弟だよ。」

 「Ling Muです。よろしく。」

 「初めまして。明日のパーティーにはぜひ来て下さい。マクタンで会いましょう。」

どうやら明日のパーティーの幹事は彼のようだった。

 「え~っと、次は…。」

道行く人道行く人みんな彼女と同じ家に住む親類縁者らしく、タクシーに乗る寸前まで彼女の紹介は続いた。しまいにはこちらもヤケになって誰かまわずハ~イ! なんて調子よく挨拶していた。しかしその中にふとティーンエイジャーの美形の女の子がいた。

 「ベレンママさん、今挨拶した女の子はどういったご関係だっけ?」

 「ああ、今の? あれはあたしの下の娘だ。仲良くなってあげてよ。」

こんなにも似てない親子もいるのか。ちょっと年が若過ぎる感じはしたが、ネリーよりも美人だった。もっと早く知り合っておけば…。

 「やめとけ。さすがのオレもベレンとは親子関係になりたくない。」

タクシーに乗り込む時、ビルは声をひそめてそう言った。

 

 夜のショッピングセンターの入口。遅くまで働いていた地元の女の子達が数人で腕を組み、楽しそうに話しながら出入りする。僕はここで約束の8時を迎えた。入口の両端に並ぶライトの据え付けられた台にちょっと腰をかけ、時計を見ながらまだかまだかと待つこと約15分。

 「ごめん。今回も遅れちゃって。待った?」

ややぎこちない英語がふと耳に入る。時計板を見る視線を少し上に上げると、僕の前に立つGパンの足と黒い靴、そしてサラサラの黒髪。確認のため更に顔を上げれば、そこには純朴そうな笑顔で僕の顔を覗きこむネリーがいた。

 「お疲れ。中に入ろうか。」

僕達は最上階に映画館があるこのショッピングセンターのゲートをくぐった。すると途中彼女は足を止め、一階の日用品売り場に寄りたいと言った。いつも夜が遅い彼女は週に一度まとめて買い物をするのだそうだ。二人は手をつなぎながら店内の陳列棚を物色した。彼女はシャンプー、ティッシュ、ジュース類を選び、僕の持つ買い物カゴにそれらを放りこんでいく。生理用品を手にした彼女が「見ちゃダメ!」と顔を赤らめながらそれをカゴの一番下にねじりこんだのが可愛らしかった。

 「今週の買い物はここまで!」

彼女はそう言ってまだ満杯になっていないカゴをレジに持って行った。今日映画館で飲むためのジュースを除けばすべて日々の生活で最低限必要な物だけであった。

 「毎月もらってる給料の大部分は故郷の家族に送金してるでしょ。その残りから家賃や生活費を引いたら、自分で使える分はほとんど残らないの。」

それを聞いた僕、別に同情したわけではないが自然と自分の財布を開いた。

 「Ling Mu、いいのよ。そんなことしなくたって!」

 「いや、今日だけほんの気持ちだよ。」

止めようとするネリーの手を優しく振りほどいてレジの店員にカッコよく金を渡す。この時勢い余ってか手を滑らせ、財布を床に落としてしまった。中に入っていた社員証やら、中国のテレカやら、飯屋の割引券やらがバラバラと散らばる。カッコ悪い姿を見せてしまった。それにしても危ない危ない、ここが路地裏の売店ならそこいらの子供に拾われてしまうところだったかも。

ショッピングセンターを出た僕達はエスカレーターで映画館のある最上階へと上がった。

 「ご飯は食べた?」 

 「さっき職場でミーティングした時に軽くサンドイッチが出たからあまり空いてないけど。」

実は僕もベレンママさん宅でもらった例の変なスナック始めいろいろお茶お菓子を口に入れていたのであまりお腹は空いていなかった。

 「でも夜中になってお腹空いてきてもいけないから、軽く何かつまもうか?」

 「じゃ、パンみたいなの買って映画館で食べようよ。」

ネリーの意見に賛成し、喫茶店があるかフロアを回るとすぐにミスタードーナツが見つかった。しかし閉店時間らしく、シャッターが既に半分下がっていた。

 「すみません、まだ閉めないで!」

閉まりかけたシャッターの下をくぐって何とかセーフ。案外種類も多く、どれもうまそうだった。

 「それだけ食べられる?」

 「残ったら明日の朝食にしなよ。」

ちょっと欲張りして八つぐらい買ってしまった。

 映画館の前に貼り出された今日上映予定の映画の目録。現地の映画とハリウッド映画が上映されていた。

 「英語のとタガログ語のとどっちがいい?」

 「もちろん、フィリピンにいるんだからタガログ語のがいいさ。」

以前日本で開催されたアジア映画祭で一度だけフィリピン映画を見たことがあった。それはオカルト系で有名作品と言うよりは庶民向けの映画だった。インド映画もそうだが、基本的に庶民向け映画は内容が単純でわかり易いので言葉がわからなくても多少は楽しめる。今晩の映画は「タンギン・ヤマン」と「バラヒボン・プサ」の二本。そう言えば「タンギン・ヤマン」と言えば先日その映画のサウンドトラックのテープをネリーに買ってあげていたので、その名ははっきり覚えていた。

 「タンギン・ヤマン、すごくよかったよ。ラブストーリーなんだけど、私感動して泣いちゃった。」

 「へえ、そりゃぜひ見てみたいね。」

 「でも私、そっちは見ちゃったんだけど。」

 「わかった。じゃあもう一つの方を見ようか。」

一方の「バラヒボン・プサ」という映画は主演女優がジョイス・ジーメンスという有名な人だということ以外よくわからないらしい。とりあえず僕達は切符を買い、中に入ることにした。

 入る時間がちょっと遅れたか、会場には既に大勢が座っており上映直前のコマーシャルがもう始まっていた。前方の席はすべて埋まっていたが後ろ三列にまだ空きがあった。ここなら左右前後他の観客がおらず、二人だけの世界に浸れるベストポジションだ。僕達は早速大量に買ったドーナツを広げ、ジュースを飲み、時々語らいながら鑑賞することにした。しかしまたこの映画、言葉がわからないこともあるのだが、それにしてもつまらなさ過ぎる。映画の場面のほとんどはラブシーンと暴力シーンだけで構成され、舞台となっている部屋は薄暗く、外は常に雨が降っていて何とも暗い雰囲気。主人公の男女始め、登場人物は皆終始表情が固い。キスシーンの時さえも悲しそう。きっと三角関係か何かの悲しい恋愛模様であろう。最後は主人公始め関係する人物が皆一つの部屋の中でピストルを打ち合い、全員死んでしまうという悲惨な結末を迎える。場面に合わせて歌って踊って笑って泣いてのインド映画の会場とは大きく異なり、スナックをつまむ音が時々聞こえる以外は静まりかえった場内。しかしそもそもは僕がタガログ映画を見たいと提案し、彼女がこれを選んだわけなので、ここで彼女に「この映画つまんないね」とはさすがに言わなかったが、映画の方の暗いストーリーとは反対に僕達二人は手相占いと偽って手を握ったり、お互い頭と頭をくっつけて他愛無い会話を交わしたりしながら最後の夜を楽しんでいた。映画が終わり、他の観客達は皆そそくさと会場を後にする。誰もいなくなった後も僕達はしばらくその場に残って余韻に浸っていた。もちろん映画の余韻ではなく、二人が出会ってから今日までの三日間のドラマの余韻である。

 

 デートを終え、再会を約束した僕は再びあの教会のある場所まで彼女を送り届けた。その後ホテルのフロントに戻るとカード式のルームキーが無くなっていることに気付いた。

 「再発行は手数料要りますよ。どこで紛失したんですか?」

 「多分ショッピングセンターで。」

やれやれ、さっきレジで財布を落とした時に他のカード類と一緒に散らばり、拾ってくるのを忘れたのだろう。

 「おう、Ling Mu。何してるんだ? こんな所で。」

この時急に一階のエレベーターが開き、何とビルが現れた。

 「ビル、今デートが終わった所。ちょっと外でルームキーを落としちゃって。」

 「やれやれ、よく落とす奴だな。」

実は今回の旅で僕が大事な物を落としたり、危うく忘れそうになったことはこれで二、三回目。ビルがその都度声をかけてくれたお陰で何とかそれらを無くさずに済んでいたのだった。仲間達に囲まれて旅しているとつい安心してしまうのか、いつもの旅に比べてややうっかりしがちの僕であった。

 「ところで、ビルも今晩デートだったんじゃないの?」

 「こっちは最悪さ。セブ・パシフィックの彼女、待てど暮らせど来やしなかった。」

いつも冷静なビルが珍しく地団駄を踏むような口調で言った。

 「ふーん、それは残念だったね。」

僕は心の中で、カッパの川流れ! と叫んでいた。

 「それだけじゃないぜ、Ling Mu。お呼びでない奴が代わりに来ちまったんだ。」

 「誰が来たの?」

 「ジョアンさ。」

デートに失敗してイライラしているビルのもとへ、悩みを聞いて欲しいと言っていきなり押しかけて来たらしい。とりあえず一体何を悩んでいるのか聞いてはみるもの、彼女の話は終始つじつまが合わず、結局何を言いたいのかわからなかったらしい。

 「ラチ開かないんで、とりあえず今晩は帰ってもらった。でも明日の朝、また来るんだってよ。」

ジョアンがきっとビルに対して気があるのだと思った。年若いためにその気持ちをどう言い表せばいいのかがわからないのだろう。思いを伝えられないジョアン、デートにありつけなかったビル、今晩を最後にネリーとしばしのお別れをした僕。三人がそれぞれ異なる寂しさを胸に抱きながらセブ滞在最後の夜は更けていった。