第十一回 「雨、歴史、そして微笑み」
(カンボジア編)
Cambodia
カンボジア旅の期間:2002年8月13日~8月18日 8日間
訪問地:プノンペン、プレイベン、シエムリアプ
六日目:アンコール・ワット 後編
小雨が降り続いていた翌日。帰国の身支度を整えた後、ゲストハウスの入口で隣の部屋のTさん、ガイドのソムナンさん、そして運転手のサンと合流。全ての荷物を車に積み込み、再びアンコール遺跡群へと出発した。今日は午前中から午後3時までの間、昨日見られなかったアンコール・トム、すなわち12世紀以降の建築群を中心に見学した後プノンペン空港に戻り、そこでMさん達学校滞在組と合流して帰国の予定だ。昨日と同じようにあの高速の料金所のようなチェックポイントで入場カードを見せ、再びアンコール遺跡へと足を踏み入れる。
昨日見てきた遺跡群はアンコール王朝初期から最全盛期にかけて建立されたヒンズー様式の遺跡群であったが、今日回るのは12世紀以降徐々に衰退していくまでの間に建立された俗にアンコール・トムと呼ばれる仏教様式の遺跡群である。アンコール・トムの代表的な遺跡としてはバイヨンとター・プロムの二大遺跡が挙げられる。まず訪れたバイヨン遺跡の参道の両脇には大きな神々の石像が数メートル間隔で左右対称に列を作り、双方共大きな綱を引いている様子であった。彼等が引いている綱はそのまま手擦りとなっており、綱の一番先頭を見るとそれは七つの首を持つ大蛇、ナーガであった。これは昨日アンコール・ワットの正面玄関で見た天地創造のレリーフを立体的に表現したものではないか。異邦人が足を踏み入れても見向きもせずに綱引きに没頭している神々を横目に人面の彫られたアーチ型の門をくぐると、そこに現れたのは門以上に巨大な顔が四方に彫刻されたバイヨン寺院。いくつもの石のブロックを積み上げ、その上から丹念に彫刻したのであろう、石と石の間には紙一枚入れられないほどまるで一つの石から彫ったかのようにピッタリと詰まれており、この技法は現在でも極めて高度なものと言われる。決して四方に睨みをきかせているのではなく、あくまで優しそうに口元に静かな笑みを浮かべている。やはり見れば見るほどブンティさんによく似た顔をしているが、この顔のモデルは全盛期の王ジャヤバルマン7世であるらしい。寺院の像に自らの顔を似せることで神格化を計ったのかも知れない。周囲の壁には当時の歴史絵巻のレリーフが広がっている。そこには現在のベトナム南部にあったチャンパ王国との戦いが描かれていた。チャンパ人とはベトナム南部からカンボジアにかけて居住する少数民族チャム族の祖先。レリーフのチャンパ兵達はドングリのフタのような変わった兜にフンドシ一丁の姿をしていた。対するアンコール王朝軍には中国が加勢しており、所々に中国兵の姿も彫られていた。カンボジアとベトナム、そしてベトナムと中国が対立し、中国がカンボジアに加勢するといった構図はつい最近の内戦にも相通ずるものがあり、これだけの年月を経ているにもかかわらず人間、そして彼等の作る歴史は変わっていないのである。
その後いくつか小さな遺跡を次々と見て回った。時間が限られていることもあり、ペースがやや速くなったので一体今さっき見たのはどこの何て言う遺跡だったのかつい忘れてしまう。しかし写真に収めるペースは相変わらずの僕、気が付くと36枚撮りのフィルムをあっと言う間に使い切ってしまい、フィルムを取り替える頻度がやたら多くなっていた。壮大な建物の全景から、柱にわずかに彫られた小さなレリーフまで、一歩歩くごとに感動を覚え、特に写真の腕がいいわけでもないのに思わずシャッターを切ってしまうのである。
アンコール・トムの中でバイヨンと並んでもう一つ有名な遺跡はター・プロム。こちらはアンコール王朝末期の建築で、これ以降ジャヤバルマン7世の大帝国は衰退の一途を辿り、最後はかつてこの地で降伏させたあのシャムによって滅ぼされてしまう。かくしてこの超近代的な都が放棄されると、やがて地元の人々からもその存在は忘れられていくのである。この失われた大遺跡は近代になってからやっと、フランスの探検隊によってジャングルの奥深くで発見された。その発見当時を彷彿させる姿をしているのがここター・プロムである。周囲を森の木々に囲まれたこの遺跡。いや、囲まれているどころではなく、木々は遺跡の領域にまで侵入しているのだ。巨大なガジュマルの木の太い根が至る所に広がり、まるで鷲づかみするかのように遺跡を締め上げている光景がそこにあった。300年から500年の樹齢とも言われるこれら力強い根の力によって、積み上げられた石の建物の一部は無残に分解され、瓦礫の山ができていた。このままでは自然の力で遺跡が風化してしまう危険性が高いため、近くではドイツやイタリアの作業チームが陣取って修復作業を行っている。ここでは遺跡壊滅が危ぶまれている雰囲気さえあるにも関わらず、ガイドブックには自然の生命力とその大きな力を礼賛するような見解が目立つ。守るべきは遺跡なのか、自然なのか。答えの出せない問いかけが静かに投げかけられたまま、ただ時間だけが過ぎていく。
石のひんやりした感触と時々灯されているロウソクの火、そしてどこかの隙間から漏れている光だけを頼りに洞窟探検のような気分でお堂の中を散策すると、そこには何体かの仏像が鎮座していた。皆バイヨンの微笑みと同じ顔をしており、体つきが非常に丸味を帯びている。まるで野望を成し遂げ、後はただ安定のみを望んだ王の気持ちをそのまま表現したかのように。昨日まで見てきたヒンズー色の濃い遺跡を建立して全盛期を迎えた王朝が、後期になると文化的に少しずつ仏教化していった様子が伺える。これらアンコール遺跡群は現在あくまで国の重要文化財であり、宗教施設ではない。しかし内部の仏像には袈裟を着せられているものもあり、絶えること無く立ち込める線香の煙を前に、常に手を合わせひれ伏す地元民達がいた。そんな所を僕達が通り過ぎると、拝んでいる人々が時々自分の持っている線香を二、三本手渡してくる。どうせ通るなら一緒に拝んで行けという意味だろうか。とりあえず線香を立てて軽く合掌して外へ出る。こうした光景に遭遇したのは一箇所だけではなかったが、現地ガイドや欧米人旅行者に対して線香を渡す様子は無かった。もしかしたら彼等、見るからに仏教徒らしい観光客が来るのを待って、あの線香を渡すことで何らかお布施をもらおうと思っていたのだろうか。これまでアンコール遺跡で目にしてきた現地人はガイドか物売りか物乞い。そんな中参拝者の発見は一瞬この遺跡が仏教施設として息を吹き返したかのように思わせたが、彼等もまた観光産業に身を置いている一登場人物に過ぎなかったようだ。
遺跡の周辺に点在する池のほとりにたたずむ顔の無い獅子の像の背中に腰を下ろす。蓮の葉を浮かべた池の周囲にはカンボジアの国名を語源としているカボチャの木々が生い茂る。王に仕える女官達が木の実を口にしながら水浴びを楽しんでいる様子が見える。鐘と胡弓のような楽器の演奏が響く中、水浴びを終えた彼女等はジャスミンの香りを漂わせ、アプサラのような微笑を浮かべながら石の建物の中へと静かに入って行く。やがてその姿は霧雨の中に消えていった。ふとその時クシャミで我に返った僕、周囲を見渡すと雨の降りがやや強くなっているのに気付く。少し離れた所ではソムナンさんとTさんが、もう行きますよ、という顔でこちらを見ていた。僕は首に巻いていたクロマーをターバンのように頭に巻きゆっくりと歩き出した。居眠り中に見た幻ではあったものの、一瞬だけこの世界に招き入れられたような気がしたその直後、ツアー終了の時間と共に僕はものすごいスピードで現実社会へと引きずり戻されていった。
車はいそいそとシェムリアプ空港へとひた走る。到着後、僕達は予めツアー料金ということで用意していた20ドルを取り出したが、いきなり運転手のサンが20ドルじゃなくて30ドルだろうなどと得意な英語でまくし立て始めた。初日の最初に見たバンテアイ・スレイは今回のツアーには含まれておらず、オプショナル・ツアーだったからその分の追加料金10ドルをよこせと言うのだ。そっちが勝手にバンテアイ・スレイから見に行くぞなんて言って連れて行ったんじゃないか。しかしあの時彼が機関銃のような早口で説明していた時に、確かに「Additional」という言葉を聞いたような気がした。その時点で奴の話を止め、追加料金が発生するサービスについてきちんと確認しなければいけなかったのだ。しかしあの時僕もTさんもアンコール遺跡がどんな所であるかなんて把握できていなかったし、第一こいつの巧みな英語に圧倒されていたので正直口を挟む余地すら無かったのだ。とは言え最後の最後に10ドルのことで彼等ともめて幕を閉じるのも不愉快だ。僕とTさんは無言で10ドルを突き出すように手渡し、すぐに空港の入口へと歩き出した。上目使いで申し訳無さそうな様子のソムナンさんと、してやったりとほくそ笑むサンの対照的な表情が今も焼きついている。ま、旅の最後の最後でもめたという経験は今回が初めてじゃない。インドでもレバノンでも最後にもめたことはあったけど、旅全体とすればごくごく小さなことなので気にすることもないだろう。いずれ今回の旅を振り返る時にせいぜい笑い話として思い出すぐらいだろうから。
今回もまた相変わらず駆け足の旅であったが、箱庭のような庭園都市シェムリアプでは古き栄光の時代を、混沌と復興の中にあるプノンペンでは20世紀の暗黒の時代を、そして水も電気も無いプレイベンの村では人々が明日と向かい合うこれからの時代をざっと垣間見ることができた。僕自身一番何に関心が湧いたかと言えばやはり現在と未来のカンボジアであろう。短かったけれど最も印象に残った友好学園での日々。皆勉学に交友に精を出し、将来の夢に向かって彼等なりにいろいろ模索している様子が伺え、その点では日本の若者と大きな違いは無いし、むしろ目標がはっきりしている彼等の方が社会でしっかり生きていけそうな気がした。生活が苦しいことは理解できるが、援助団体のメディアを通じてよくありがちな「助けてあげないといけないかわいそうな人々」では決してないと感じた。ただ経済的な理由で才能があっても将来の選択肢が狭まれてしまうことについては同じ若者として共感できるものは大いにある。あれだけいろいろなことに興味を持ち、英語や日本語もしゃべれるのに、ただの農民になるしかないのでは何とも味気無く、もったい無いことだ。彼等にもしある程度の選択肢が揃えば、もっと個性的な人間もいっぱい生まれてくるのではないか? アンコール・ワットをあれだけきれいに整備するのはいいことだが、これからもずっとアンコール・ワットのみをウリにしていくだけでは限界を感じる。そんな時、いろいろな発想を持ったユニークな人々が沢山現れ、ビジネスや、娯楽や、スポーツや、文化事業等多方面で活躍するようになれば、国としてもっともっと面白くなるのでは? と感じるのである。帰国後も引き続きCEAFのフリーマーケットを手伝っているが、僕はいずれあの国をいい方向にリードしていくであろう若者達への投資という感覚で参加させてもらっている。彼等がカンボジアの各方面で活躍して今以上に活気に満ちた魅力的な国として広く知られるようになればこの投資は成功である。中国の後はベトナムだとか、インドだとか言われているが、やがてこれからはカンボジアだと言われる時が来ることも決してありえないことはない。そんな日を期待しながら負担も無ければ損もしない投資を楽しむこととしよう。もちろんもっと深く関わっていけばいろいろ問題も山積みだとは思うが、各々が各々にできる範囲で関わっていけばいいと思う。
そして明日はフリーマーケットの日。今回お世話になった皆さんと旅のよもやま話でもしながら商売に勤しむこととしよう。テープレコーダーから懐かしの「アラッピヤー」が流れてくる中、僕は学校で出会った彼等のことを考えながら、家中の不用品をリュックに詰め込むのだった。(完)