第十回 「ひと冬の夢」 (フィリピン編)
Philippines
フィリピン旅の期間:2001年1月23日~1月29日 6日間
訪問地:マニラ、セブ、ボホール
六日目:最後のパーティー、そしてマニラへ
翌朝、ビルと約束した時間に起きた僕は準備を完了し、扉を開けた。隣のビルの部屋は既に扉が開いており、お決まりのアイルランドの音楽が微かに聞こえていた。
「ビル、おはよう。」
「おう、Ling Mu。」
「Ling Mu、おっはよ。あたしも今来たんだ。」
ビルが夕べ言っていた通り、確かにジョアンがそこにいた。
「ジョアン、今日はオレ達、マクタンでベレン達のパーティーに行くんだぞ。忙しいんだ。」
「やだぁ、あたしもついて行く! 二人共今日で最後なんでしょ!」
だだをこねるように僕達にしがみつくジョアン。ビルもやれやれと少し困った様子。とりあえず三人は二階の食堂で朝食を取った後、チェックアウトしてホテルを出た。
朝から小雨がシトシト降り続く中、最初につかまえたタクシーにマクタンと告げるや、運転手が通常料金の倍以上の金額を要求して譲らないので、速やかに二台目に切り替え、一路マクタンへと向かった。道はさほど混んでおらず、行きと同様30分弱でセブとマクタンを結ぶ橋にさしかかった。大きな荷物を担ぎながらビル、僕そしてジョアンの三人が目的地のビーチで降りた時には雨もすっかり止んでいた。ビーチ沿いにはヤシの葉でできた屋根のかかったテーブルと椅子が並べられ、バーベキューやパーティーができるようになっている。いわゆる波打つ砂浜は無く、海とビーチの間には階段で言うと十段程度の段差があり、ビーチから見下ろすと韓国人の旅行者がボート遊びをしていた。このビーチに限って言えば始めから海水浴とは別のレジャー目的に使われているようだった。外国人も少なくはなかったが、やはり現地人が圧倒的多数。海に来てもあまり泳ぐことを好まない彼等の楽しみ方に合致したビーチと言える。
「ベイビーじいさん、誕生日おめでとう!」
そのうち一つの屋根付テーブルで本日の主賓を発見、握手で祝福した。
「皆さん、お揃いでようこそ。今日はゆっくり楽しんで行って下さい。」
昨日ベレンママさん宅で出会った面々を始め沢山の兄弟や親戚に囲まれ、幸せそう。ベレンママさんだけは用事で少し遅れて来るらしい。今回のパーティーでは二つ分のテーブルが確保され、ベイビーじいさんのいる所の隣のテーブルでは幹事である弟さんが何やら銀のアルミホイルに包まれた大きな物を広げていた。
「ようこそ、待ってましたよ。これはレッチョンです。今日のために用意しました。」
レッチョンとは通常お祝いの時に振舞われるフィリピンで最も豪華な料理。料理とは言うもの、その正体は子豚の丸焼きである。ここはのんびりしたフィリピン、ベレンママさん以外ほぼ皆集合しているようなのだが、特に何の始まりの合図も無くそれぞれおしゃべりにふけっている。でも誰もレッチョンに手をつけていないので、まだ始まってはいないのか? その時ビルがちょっと一泳ぎしてくるよ、と言って階段を下り、海に入る用意をし始めた。
「いいよ。Ling Muさん達も泳いで来なさいよ。こっちは構わないから。」
弟さんが言うので、僕もせっかくだから最後に一度泳いでこようと思った。この時、一緒にここまでついて来たジョアンが少し離れた所でぽつんと一人つまらなさそうにしているのに気付いた。
「あたし、この人達誰も面識無いんだ…。」
ベレンママさんとはいつも一緒におり、先日ジョアンナおばさんの家ではその場を仕切っていた彼女の割には意外な一言だった。僕だってこの場にいる人の多くは面識無いが、とりあえず外国人だから皆一様に歓迎の意思表示はしてくれる。その点地元の人同士となると少しやりにくいのかも知れない。
「じゃ、少し泳いでスッキリしようか。プールじゃないけど。」
いつもはわがままのジョアンだがちょっとかわいそうに思ったので泳ぎに誘った。ジョアンが少し笑顔を取り戻したので近くの更衣室へと向かった。今日僕達がビーチパーティーに行くと知った彼女は今朝ホテルに来る際ちゃんと水着を用意してきたようだった。
「ねぇ、ビルはどこ行ったの?」
僕が着替え終わって約5、6分後、ジョアンはパレオを巻いた水着になって更衣室から出て来た。彼女は出てくるやビルのことが気になっていた。
「ほら、あそこで泳いでるよ。」
僕が指差す遥か沖の方からビルが手を振っていた。
「あたし、あんな深そうな所は怖い。浅瀬で泳ごうよ。」
「ああ、いいよ。」
しかし元々遠浅の海が多いセブ島。ビルが泳いでいる辺りだってそう深いわけではないのだが、泳げないジョアンが非常に怖がるので僕達はずっと波打ち際にいた。足首ぐらいまでしか無い子供プールよりも浅い浅瀬では当然泳ぐことなんてできない。とりあえずほんのちょっとの間とは言えフィリピンの女の子と海で遊ぶことができた点では後悔無かった。しかしやはり僕は内心一回でいいからネリーと一緒にこの海で泳ぎたかったという思いで一杯だった。一方ジョアンは相変わらず数分ごとに「ビルはどこ?」と遠くを見回していた。両者の欲求が一致しなければ当然長くは続かない。結局僕達は海に入って20分もしないうちに服に着替え、パーティーの会場に戻った。二つのテーブルではベイビーじいさんを囲んで親戚一同が輪を作っており、ビルもいつの間にかその中にいた。全員目を閉じながら口を揃えて何やら祈りの言葉を捧げると、右手で静かに十字を切る。自分は無宗教だと言っていたビルも彼等の風習に合わせて一緒に十字を切っていた。お祈りを終えるとすぐに乾杯が始まる。僕とジョアンが駆けつけた時にはお祈りはもう終わっていたが乾杯には何とか間に合い、紙コップ一杯のコーラを手渡された。おめでとう、兄貴! 弟さんの号令でコーラの入った紙コップを高く挙げてそれを飲み干す親類一同。アメリカの影響を受け、かつ暑い国であることもあってかこの国で最も一般的な飲み物はお茶でもコーヒーでもなくコーラ。子供から老人までがコーラばかり飲んでおり、ベイビーじいさんはもちろん、周りの人々も笑顔を見せればその歯はみんな真っ茶色。写真を取る際に笑顔を作らせる時、フィリピンでは「コルゲイト・スマイル」と言うそうだ。コルゲイトとは現地に定着しているアメリカ製の歯磨き粉のこと。その歯磨き粉のコマーシャルで俳優が白い歯を見せて笑顔を作ることからこの言葉ができたらしいが、現実を見ればコルゲイトの評判はガタ落ちにならないのかと他人事ながら心配になる。
「皆さんお待たせ! 盛り上がってるわねぇ。ハーハッハッハ!!」
そこへ「コルゲイト・スマイル」が最も似合う人が現れた。もちろんこの人の場合スマイルだけで終わることは決して無いが。
「ビル! Ling Mu! あんた達の送別会でもあるんだから、一杯食べるんだよ!」
ベレンママさんはいつもの調子で僕とビルの肩をバンバン叩きながら更にコーラを勧めた。どちらかと言うと酒の方がいいのになぁ、という顔をしながらビルはしぶしぶコーラを飲み続けていた。
「よく焼けてるわよ。どうぞ。」
昨日帰り際にちょっと挨拶したベレンママさんの美形の娘さんが真っ赤に焼けたレッチョンを一切れ紙皿に盛って渡してくれた。以前沖縄で食べたそばに盛られた豚足のようにジューシーでボリュームのあるうまさであった。しかしこれだけ人数がいるため、この豪華料理はあっと言う間に食べ尽くされてしまった。
「そうそう、これ食べる?」
この時僕はベレンママさんの目を盗み、手荷物削減のため前日無理矢理持たされた例の変なスナック菓子を取り出して娘さんに勧めた。
「あ、それ私大好きなの!」
彼女は喜んでそれをつまみ始めた。これが好きだとは、やっぱり親子である。
「ビルですね? こないだお会いしましたねぇ。さ、乾杯しましょう!」
この時テーブルから立ち上がった恰幅のいい男達がビルのもとに駆け寄ると、おもむろにラム酒の瓶を開けて手元のコーラに注ぎ始めた。彼等は今日のためにわざわざマニラからやってきたベレンママさんのいとこだそうで、ビルとは面識があるようだった。
「おう、久しぶり。ラムを多めに頼むよ。」
ついにラム&コークのお出ましとビルは大喜び。調子に乗って彼等一人一人と乾杯を始めてしまった。僕も一杯だけ彼等の乾杯に付き合い、少しほろ酔いになったので先程の娘さんでも口説こうかなと思った時だった。ジョアンがまた相変わらず少し離れた所で一人ポツンとしている。僕は近くのテーブルから紙皿を取って焼きそばを盛り、彼女の所へ持って行った。
「沢山食べて元気だそうぜ。ジョアン。」
「私、知ってるの。」
皿を受け取った彼女は大してそれに手をつけず、ポツリと言った。
「私、さっきあなたと一緒に泳いでたでしょ。それをビルがよく思ってないから、私のこと相手にしてくれないのよ。」
「そんなこと無いよ。ビルは久々に会った彼等にお酒を勧められて忙しいだけだ。」
確かにここに来てからビルは彼女のことをほったらかしである。ここ数日の彼女の振る舞いから彼は少しジョアンを煙たがっているようだが、ビルに密かな思いを寄せる彼女に取れば苦痛そのもの。それをビルが自分に対して嫉妬しているからだと彼女は理由付けしていた。
「じゃ、ビルの所に行って一緒におしゃべりしようよ。そこに一人でいても仕方無い。」
「それならLing Mu、ビルをここに連れて来て。二人で話したいの。」
いつも冗談ばかり口にする彼女が今日に限っていやに真顔だ。彼女は冗談でも本気でも頑固に自分を押し通そうとする。この話にあまり関わりたくなかった僕は、二人で話して解決してもらおうと、ひとまず彼女をそこに待たせてビルのいる所に行った。
「ビル、飲みっぷりいいですねぇ。今度はこっちに来て乾杯しましょう。」
「よっしゃ。」
盛り上がりを見せてきた二つのテーブル。上機嫌のビルは周りの参加者に誘われるがままに大きな体を揺らしながらテーブルを行き来していた。
「ビル、ちょっといい?」
「おう、Ling Mu。どうした?」
彼はコップに注ぐラム酒を少し止めた。
「ジョアンが何か話あるから来てくれって言ってるんだけど。」
「後でだ。見ての通り今は挨拶回りで忙しい。あそこの焼きそば、オレはいらないからお前が食っといてくれ。頼むぜ。」
彼がそう答えるとすぐにまた他の人達に手を引っ張られて行ってしまった。何だか伝書鳩になったような気分であったが、僕はまたジョアンの所に引き返して結果を伝えた。
「わかったわ、Ling Mu。じゃあ、あなたから彼に説明してよ。」
「何を?」
「私とあなたの間には何も無いことを。」
「何言ってるんだよ。20分ぐらいちょっと泳ぎに行っただけでビルが怒ったとでも思ってるのか? 彼はそんな人じゃないよ。」
「それならどうしてさっきから私のこと全然相手にしてくれないの!?」
声が少し大きくなってきたので僕は一旦彼女をなだめ、そして続けた。
「一つ聞くけど、君はビルの彼女なのか?」
「そ、そういうわけじゃないんだけど…。」
「ノー・プロブレムだって。忙しいだけさ。二人だけの話なんて今この場でできないだろ?」
僕もどうしていいかわからず、ひとまず話を止めて宴会の席に戻った。ジョアンはやはり宴会に混じって来ようとはしなかった。僕とビルはしばらく歓談を楽しみ、記念写真を撮った後、そろそろおいとまする時間であることに気付いた。さすがは世話好きのベレンママさん、ワンボックスカーのタクシーを一台手配し、ちゃんとビーチの入口に待たせていた。僕達はまだまだ盛り上がっているベイビーじいさん始め親類の皆さんに別れを告げ、再び荷物を担いだ。僕とビル、そしてジョアンの後にはベレンママさんとその娘、昨日の妹さんの娘が見送りについて来てくれた。
「元気でね。またネリーやあたしに会いに来るんだよ。いつでもいいからね。」
車に荷物を積んだ後、ベレンママさんは僕を肩に抱き寄せてそう言ってくれた。
「もちろんですよ。いろいろお世話になりました。本当にありがとう。」
「そうそう、次来た時はちゃんとあたしの分買って来るんだよ。ケ・イ・タ・イ!!」
最後の最後でベレンママさんが念を押すようにやや真剣な顔でそう言った。さすがに携帯を買って来いとこうしつこく言われると、これまでいい気分でハイテンションだったのがちょっとトーンダウンしてしまう。僕はそれには答えず、そのままバイバイと言って車に乗り込んだ。
見送りのみんなに手を振りながら一路空港へと向かう。ジョアンも一人あの宴席に残る理由は無いので、僕達の車に乗って空港まで来るようだ。
「ベレンの言うことは気にしないでいい。オレもよく言われるが、毎回500ペソを心付けで渡すだけで十分だ。携帯を買ってやったことは無い。」
ビーチを出て、ベレンママさん達の姿が見えなくなった後、ビルはそう言った。何か少し複雑な気持ちも残ってしまったが、総合的には楽しいセブの休日を過ごすことができたのだから良しとすべきか。
「ねえ、Ling Mu。早くビルに証明してよ。」
後ろからジョアンの声がした。まだ一つ問題が残っていた。
「だからノー・プロブレムだって。」
僕にはそう答えるしか無かった。どうでもいいけどそんなことで僕を巻き込むのはやめて欲しい。何かウヤムヤがあるなら二人で解決してもらいたい。ビルもビルで僕とは雑談を交わすものの、ジョアンに対しては相変わらず口をつぐんでおり、二人の間には何か冷たい空気が張り詰めていた。
約30分弱でセブ空港に到着。マニラを経由して海外へ出稼ぎに行く人が多いのか、チェックインカウンターの前には見送りの家族親族が目立つ。抱き合ってお別れをする彼等の寂しさを和らげるためか、近くではギターを片手に軽快なラテン音楽を生演奏している人がいた。ビルが換金をしに銀行へ行ったので、僕はしばらく親族達に混じってギターの調べを聞きながら待っていた。するとまたもや僕に詰め寄って来るジョアン。もういい加減にしてほしかった。
「ねえ、何でビルに説明してくれないの?」
「他の件は知らないけど、さっき泳いだ件についてはノー・プロブレムだ。さっきから言ってるだろう。」
「あなたって、ノー・プロブレムしか言わないのね。」
「上海に帰ればプロブレムばっかりさ。せめて休日の時ぐらいノー・プロブレムって言いたいんだよ!」
僕が思わずそう本音を口走った時、急にジョアンの携帯が鳴った。彼女はまだ何か言いたげだったが、ひとまず電波の届き易い入口の方へと歩いて行った。そこへ彼女と入れ替わりに戻って来たビルが落ち着いた様子で僕に言った。
「彼女が何を言ったか知らないが、これだけははっきりしておこう。オレとお前の間には何も問題は無い。彼女が一人考え過ぎなんだ。自分が何をしたいのか彼女自身わかっていない。これ以上引きずっているとオレにも、お前にも、そして彼女にもよくない。」
彼は大きな荷物を僕の足元に置き、彼女のいる入口の方に向き直った。
「どうするの?」
「ここからは任せろ。彼女と直接話をしてカタを着ける。Ling Muはこれ以上この件に構わる必要は無い。悪いがもう少し待っててくれ。」
約15分が過ぎ、彼一人だけが戻って来た。僕に気遣ってか気持ちをやや抑え目にして終始穏やかな口調を努めていた。
「こっちの考えは全部伝えた。もう二度と彼女に会うことは無いだろう。」
彼はそう言って荷物を担ぎ、そろそろカウンターに行こうと促した。何もたったこのぐらいの勘違いだけで絶交するのはあまりにかわいそうなのでは?…と一瞬思ったが、僕が彼等について知らないことは沢山ある。誰でも受け入れ、気配りのあるビルが絶交するより他無かった程、人には言えない何か原因があったのかも。僕がこの件に少し巻き込まれてしまったことを心配したビルが今ここで結論を出してくれたのだから、僕もこれ以上踏み込む必要は無いだろう。確かにせっかく知り合った現地人の仲間だっただけに、つい先程の口論を最後に会う機会がもう無くなってしまったことは残念だが。
「お嬢さん、帰りも並びの席で頼むぜ。こいつはオレの甥だ。」
チェックインカウンターでビルは自分の分に加え、僕の分のチケットも一緒に差し出して言った。飛行機でのビルとの出会い。彼を通して知り合った文字通り愉快な仲間達、そしてネリーと一緒に過ごせた三日間。初日金銭的な損失もあったが、お金には代えられない様々なお土産を胸に、行きと同じポジションでマニラへと飛び立った。
夕暮れ近付くニノイ・アキノ空港に降り立つと、ビルは早速得意の携帯を取り出し、ホテルに電話して出迎えを呼んだ。さほど待つことも無くホテルから一台の黒いワゴンがやって来た。ヒゲを生やし、日本人と一緒にいるアメリカ人だとビルが説明していたので向こうも簡単にわかったようだった。僕達が向かった先はアマート・ホテルと言い、旅行ガイドに取り上げられている地区とは少し離れているようだが、部屋の大きさは初日のチェリー・ブロッサムぐらい大きく、宿泊費も割安。ビルと知り合ったお陰で途中から経済的な旅ができるようになったが、これが最終日まで元のプラン通り一人だったらどうなっていただろうと今更ながら思った。
一旦ホテルにチェックインして部屋に荷物を置いた僕、夕食まではまだ時間があったのでビルと近くを軽く散策することにした。小さな入口をくぐると食料品や装飾品の店がひしめき合っており、それを縫うような細い道が迷路の如く奥まで続いているその場所は典型的な東南アジアの市場。ほとんどが現地人ばかりであるためか、白人とアジア人のコンビが珍しいのか、どこに行ってもいちいち国籍を聞かれる。海賊版CDの売り場でガリー・バレンシアノの最新アルバムを買った時も、売り子は僕にどこの国から来た? としつこく問い、まるで答えなければ商品を渡さないというようなそぶりを見せたので少し苛立った。
「このCDを買うことと僕がどこから来たかが関係あるのか?」
「関係ある。」
「何でだ。」
「聞きたいからだ。」
「…日本だ。」
「そうか、やっぱりな。アリガト。」
売り子はそう言うとCDを僕に手渡した。対した事ではないにせよ僕は虫の居所が悪かった。
「まあ、この国では細かい事気にするな。普通に答えればいい。リラックスだ。」
ビルにそう言われた時、僕はふと日本人と思われたがらない自分に気が付いた。現地になるべく溶け込みたいと思っている僕にとって、どこの国から来た? 日本人か? と聞かれることは外国人として浮いてしまっているものと自然に受け止めていたようだった。それに加え、アジアを旅行して自分が日本人とわかられるとボッタクリの対象にされたり、過去の戦争のことで文句を言われたりであまりいい事が無い。対日感情があまり良いとは言えない中国に長くいた影響なのだろうか? そんなこんなでいつしか僕は胸を張って日本人だと言えなくなってしまっていたのか? 最近の日本の若者は自国に対する自信を失っていると論評する偉い先生達に怒られてしまいそうな話である。
通り雨が降ったのか、市場から外に出ると道一面大きくて深い水溜り。その水面には道端のゴミがプカプカ浮かんでいた。水に濡れないようにと言うより、ゴミの臭いがしみ付かないように注意深く歩く。野良犬がすれ違い様に立ち止まり、何かもらえないかと期待の眼差しで僕達をジーッと見つめる。外国人は何か持っていそうだ、と犬さえも理解しているのだろう。
「しかし確かに、アメリカ人と日本人のコンビってのは珍しいよな。」
歩きながらふとビルはそう言った。共に自国民だけで固まる傾向の強い代表格である日本人とアメリカ人が一緒にいるからだという。自国民で固まるのは他の国でもあることだからともかく、とかく日本人からするとアメリカは憧れの対象、重要なパートナーと思われがちなのに対し、彼等からすれば必ずしもそうではないと感じ取れそうな面白い発言だった。一緒にいることが珍しいと思うぐらいなのだからきっと普通のアメリカ人から見て日本人はかなりマイナーな存在なのかも知れない。
「この皿、安くていいな。おやじ、十枚束ねてくれ。」
ビルは買い物好きだ。さっきから珍しそうな店を見つけては足を止め、ペンダントやら、調味料やら、手を叩くと声を出すインコの人形やらを値切っては片っ端からリュックの中にねじ込む。何でそんなにいろいろ買うのかと聞く前に、彼から何で全然買い物しないのかと聞かれてしまった。決して買い物が嫌いなわけではなく、各国の民芸品を集めているのでフィリピンらしいグッズさえ見つかればぜひ買いたい所なのだが、残念ながらセブで買ったサント・ニーニョ像以外僕の食指を動かすものがあまり見つからないのだ。伝統楽器もココナッツ・ギターぐらいしか見当たらないし、音楽のテープやCDも随分買い込んだのでこれ以上買い物する必要は無かった。もちろんギターもサント・ニーニョもルーツはスペイン等西洋であり、他の東南アジア諸国に比べるといまいち独自性に欠けるのは確かかも知れない。
この時、ビルの携帯がピピッと鳴る。
「おっ、早速彼女からメールだぜ。」
彼は嬉しそうに「今晩遊びに行くわよ!!!!」と書かれたショートメールの文面を僕に見せた。
「クレイジーな女なんだ。郊外から来るからきっと遅くなるだろう。先に食事でも行くか。」
典型的なアメリカンでいこう、ということで僕達はケニー・ロジャースが経営するというファーストフードショップに入る。特にセットメニューは無く、始めの時点で好きな単品を数ある中から自由に選べること、そして店内は壁一面ケニー・ロジャースのポスターやレコードで一杯なこと以外は、いわゆる日本のマクドナルドやKFCとほぼ同じ。ただしトレーに乗せられたチキンやサラダ、そしてコーラはさすがアメリカン! と言えるような特大ばかりであった。比較的小柄なフィリピン人は食べにくそうである。「今、タクシーの中。もうクレイジーになってきちゃった!」、「渋滞にはまったよぉ。ムカツクー!」こうして食べている間もビルの携帯には次々と彼女からのメールが入ってきていたが、彼は特に返信することもなくそれをテーブルに置いた。
「Ling Mu、明日のフライトは早いんだよな?」
「朝4時にはホテルを出ることになる。今晩が最後だね。」
「いや、オレも明日の朝4時に起きる。出発の前にコーヒーでも飲もう。」
「そんな、無理してくれなくてもいいよ。わざわざ。」
「オレ、アメリカでは意外と早起きなんだぜ。朝一番でコーヒー飲まないと目が覚めないんだ。それに息子や娘が学校に行く前、一緒にコーヒー飲んで話する時間って結構大事だしな。」
僕のために一緒に早起きして見送ってくれるという義理固さと共に、フィリピンで好き放題してはいるものの一家の主としての責任もそれなりに果たしていることをそれとなく口にする所も渋いビルであった。
「わかった、ビル。今晩ぐらいしか機会が無いから、カラオケスナック行こうか。」
食事を終えた僕達は再び薄暗いマニラの夜道に出る。例のクレイジーな彼女がもうすぐ来るかも知れない、きっと何も食べていないだろうからピザを買いたいと彼が言うので近くのピザ屋に入る。やがてこんがり焼き上がったピザを手にしたビルは店を出ようとした。その時、無表情で入口に立っていた中学生ぐらいの少女が一人、突然ビルに向かって手を差し出した。そんなにひどい格好をしてはいなかったが、どうやら物乞いのようだった。ビルはポケットから小銭を出し、彼女の手の平に置いた。すると彼女はその後に続いて出て来た僕の方にも手を差し出してきた。僕は小銭をポケットでなく財布の中に入れていたので、ビルについて歩きながら財布を開いた。少女は僕の右隣にピッタリくっつきながら早くよこせと言わんばかりに手を出し続けていた。すると今度は別の通りの方から高校生ぐらいの少年がいきなり現れ、僕の左側にぴったりくっついて手を出してきた。体のガッシリしたこの少年は帽子をかぶり、ラッパー風のダブダブのシャツとズボンを身に付け、これまたいわゆる乞食らしい格好ではなかった。しかしやはり右側にいる少女と同様表情は無く、死んだような目をしていた。
「Ling Mu、気をつけろよ。」
前を歩くビルが後ろを振り向き、両脇を乞食に挟まれた僕に忠告した。僕は彼等にスキを見せて引ったくられないように少し身をかがめながら財布から25センタボ(1ペソの四分の一)硬貨を二枚取り出し、それぞれの手の平に置いた。ところが次の瞬間、僕は彼等の行動に我が目を疑った。少年の方の乞食はその硬貨が小額過ぎて不満だったのか、突然その硬貨を地面に叩きつけて走り去って行ったのである。すると少女の方もそれを真似てか受け取った硬貨をポイッとどこかに放り投げ、少年と同じ方向に走って行ったのだった。僕はしばらく呆然とし、直後に激しい怒りが込み上げた。
「物乞いとは言え、最低限の礼儀さえ知らない正に最低の連中だ。」
一部始終を見ていたビルも彼等の後姿を見ながら憤慨していた。インド等の乞食がバクシーシ(喜捨)の額に不満な時はもっとよこせとしつこくついて来て、それでもらえなければあきらめて去って行くだけだが、今の少年達の行為は明らかに喜捨した側への反発と軽蔑を表わしたものであった。感情のかけらも見せないあの二人の気味悪いまなざしをふと思い出す。今回は乞食として登場してきたが、タイミングによっては犯罪者として現れたかも知れない。乞食はある意味その国の社会における富の偏りを示す言わばバロメーターである。しかしこれほどまでにもスレた乞食がいるなんて、この街の社会状況は相当重症なのではないか。ほんのわずかなマニラ滞在であるにもかかわらず、この街のイメージは急激にダウンしてしまった。
「あそこにカラオケバーがあるが、どうする? 気晴らしに行くか?」
ビルが指差したのは通り沿いの飲み物屋と雑貨屋の間にある小さな薄暗い店であった。見るからに狭そうな店内には粗末な食堂と対して変わらぬテーブルと椅子が三組ぐらい無造作に置かれ、カラオケどころかテレビも置いてなさそう。そのくせホステスは椅子の数の三倍ぐらいおり、暗闇からはよく目立つコルゲイト・スマイルを浮かべながら通り過ぎる僕とビルを目で追うように集団で窓にへばりついていた。ダメだ。視界に入ってくるこの街のすべてに拒否反応が起こっていた。彼女達は単にお客を呼び入れようと一生懸命愛想を振りまいているだけなのはわかっていたが、先程のショックが払拭しきれない僕であった。
「悪い、ビル。やっぱり今日はやめとく。ホテルに戻ろう。」
「わかった。だがLing Mu、気にするな。リラックスだ。」
ビルにそうは言われたもののやはりこの街への不信感、拒否反応はその後もお土産としてついて回った。次にセブへ行く時は絶対直行便を使おう。間違ってもこんな街を経由なんてするものか、体の中の全てが満場一致でそう可決していた。しかしフィリピン初心者であるこの僕を最初から最後まで親切に面倒見てくれたビルがいたからか、不思議とそれほどまで不快感を感じてはいなかった。またフィリピンという国そのものに対するイメージも決して悪くはなかった。
「マニラに来てからほとんど買い物もしてないし、満足いかなかったんじゃないか?」
ホテルのフロントを通り過ぎながらそう聞くビルに僕は笑顔を見せてこう答えた。
「もうセブで十分満足したからね。」
とりあえず明日の朝また会おうと言い残し、じきやって来るクレイジー・ガールのためのピザを大事そうに抱えながらビルは自分の部屋へと入って行った。一方僕は部屋に戻るや待ちかねていたかのように受話器をむしり取り、ネリーの住む寮の番号をプッシュした。
「まだ起きてる?」
「うん、もう寝ようと思ったところ。」
「明日、上海に立つよ。」
「寂しくなるわ。寝床にあの時のメガネザルの人形、置いてるの。これを見るとあなたを思い出すわ。」
「僕も君のこと、いつも思い出してるよ。」
「うん、知ってる。」
こうしてフィリピン最後の夜は終わった。電灯のスイッチを切った後も彼女の笑顔が脳裏から消えることは無かった。その笑顔はこの街が与えてくれた傷を、更にはこの国に来る前から背負っていた傷を一つ一つ消し去ってくれているようだった。
アラームと共に結局初日から最終日まで続いた早朝の目覚め。顔を洗っている時でさえ少しでも目を閉じたらその場で眠ってしまいそうな自分に鞭打って荷物を背負い部屋を出る。するとちょうど隣の部屋から同じタイミングにビルが現れた。夕べやって来た彼女が目を覚まさないよう音を立てずにドアを閉めていた。とりあえず一階に下りてチェックアウトを済ませ、フロントのすぐ手前にある喫茶コーナーでビルとコーヒーを飲んだ。
「今回、君のお蔭で何だか日本人ってヤツが近く感じるようになったよ。」
テレビのスポーツニュースから繰り返し流し出される昨晩のバスケットリーグの試合結果を見ながら彼はブラックのコーヒーを一口飲んでそう言った。これまでも日本人に会ったことはあったが、言葉が通じないことや思った事を言わない所があって理解できなかったらしい。
「僕は海外営業やっていながら英語ができないヤツとして有名だったんだけど、ハートで通じ合うことができるのかもね。」
「いや、英語で十分コミュニケーションができてるじゃないか。七割は通じていると思う。」
いつもテストで赤点をもらっていた学生時代から今の会社生活に至るまで英語アレルギーを感じている僕なのだが、アジアを旅する時だけはなぜかアジア風の英語で何とか用を足せるのであった。今回アメリカ人から十分だなんて言われ、自信がついたとまでは言わないが、もっと英語を話す機会が欲しいなと思った。同時にこれまでアジアしか訪れたことの無い僕にとってアメリカ人と行動を共にしたのも初体験。僕もアメリカ人ってヤツを近く感じられたような気がした。
まだ真っ暗だというのに、来たばかりの朝刊の束をほどき始めているオッサンや朝食のスープをグツグツ煮込ませているオバサンが目立つ夜明け前のマニラ。やや肌寒さも感じる中ヘッドライトの灯されたタクシーに乗り込む。
「また会おう。オレの住むニューヨークにもいつでも遊びに来いよ。」
「ほんとに最後までありがとう。」
わざわざ見送るために一緒に早起きしてくれたビルと最後に固い握手を交わした僕は充実したこの一週間の一コマ一コマを振り返りながら、日の出と共にこの国を後にした。
今、僕は上海郊外の職場にいる。セブとの気温差は十度以上。経費削減のためと言って社内の暖房設備は社長室以外全て止められている上、中国人は室内の空気が循環しなければかえってカゼをひくと考えるので、寒い日ともなれば職場の現地スタッフがこぞって窓を開ける。外で仕事しているも同然なので何とかしてほしいといくら言ってもどうにも理解されない日中の考え方の相違に最近は慣れてきた、と言うより諦めかけてきた。
そんな時、僕は気を落とさずに空を見る。旅の余韻と言うのもなかなかあなどれないもので、上海の灰色の空さえも青々としたセブの空に一瞬見えてしまう。同じ空の青さでもセブとボホールとでは微妙に違うことすらはっきりと思い出される。あの空の下に戻りたくなればいつでも戻ることができる。あの楽しい連中の顔を見たくなればいつでも会いに行くことができる。「なんだい、あんた、もう戻って来たのかい。そんなに日本も中国もイヤなのかい? だったらセブに永住しちゃいなよ! いい子紹介するからさ! ハーッハッハッハ!」ベレンママさんの高笑いが今にも聞こえてきそうだった。もう少しここにいるとするか。本当に耐えられなくなったらまたビルやベレンママさんの所へお世話になりに行こう。そんな気持ちになれるかなれないかでストレスの溜まり方も違ってくる。定時後、上海市内へ戻る車の車窓からは普段の建設ラッシュの大都会ではなく白い砂浜が透けて見える透明な海、そして石造りの教会の前を行き過ぎるジプニーの幻影。思わず鼻歌で「バヤンコ」のフレーズを口ずさむと運転手にそれは日本の歌かと聞かれる。幻影と言っても決して変な妄想でも現実逃避でもなく、それらは元の目的通りこの街で生活していく上でのガソリンとなり、逆境に立ち向かう余裕ができたかのようだった。やはり一週間の旅がちょうど良かったのだろう。もう少し長く滞在していたら僕も第二のビルとしてあの国にはまっていたのかも知れない。今回の旅はあくまで良き夢として心にしまっておいた方がいい。
セブで世話になった人達に手紙を書いた所、ベレンママさんから返事が来た。彼女は相変わらず手紙の中でも携帯を買って来てほしいと書いていた。ビルからは一度職場に電話があった。今の彼女との結婚を考えており、セブで家を買うらしい。いずれ僕自身も誰か相手ができた頃にもう一度セブを訪ねて彼には会いたいと思う。一方でネリーからは手紙は無かった。始めの頃は心配になって彼女の寮によく電話をした。収入を自分で自由に使えないため、手紙を書こうにも便箋代や郵送料さえままならないのだという。それなら僕がいつも電話をかけてあげようと思ったが、寮の電話を毎晩彼女が独占することを管理人があまりよく思っていないらしい。彼女の言うことに間違い無いとは思うが、ここまで経済格差のある女性との交際、ましてや遠距離恋愛にはかなりの困難が生じると感じた。それをも乗り越えようという気持ちが湧くほどの関係をたった三日間で築けるものではない。彼女への電話もやがて少なくなっていった。彼女からの手紙も相変わらず来ない。もし僕がまた来年セブに行く機会があればもちろん再会したいが、その機会がまだ先になりそうな場合は、ネリーには現地の彼氏を見つけてほしいと思った。セブ滞在中、そして戻って来てからしばらくの間は本当に彼女に熱くなっていた。実際彼女の笑顔を思い出さなければこの上海という街で本当に息が詰まってしまったかもしれない。彼女には心から感謝しているし、一生忘れないだろう。しかし同時に一旦距離を置き、この一週間を振り返って冷静に考えてみると、一時の幸せと引換えに背負わされるものの大きさが改めて実感させられたのも事実であった。
「君は彼女と結婚するんじゃない。彼女とその家族、親戚と結婚するんだ。」
いつかスタキリ・ビーチでビルが言った言葉がまだ鮮明に残っている。彼女が一日中あくせく働いた収入の多くは30人近い家族親族が待つ実家に即送金される。彼女がもし海外に行くチャンスでもできれば、彼等はもっと豊かに暮らせる。だからこそ初めて家を訪ねた時でさえ、会うやいなや自分の娘を紹介する父親さえいるのだ。皆が皆とは言わないが、その中には一人や二人、ベレンママさんのような人だっているかも知れない。ちょっと知り合った人に対し、顔を見る度に携帯を買ってくれとせがむような人が。
だめだ。ビルならともかく、僕にはサンタクロースになれる度量は無い。望むことはこの激しく変動する国際情勢の中でゆったりと流れていくセブの時間と共に少しずつ僕を忘れていってほしい。純真無垢のデリケートな彼女にそんな事を今になって直接言うことは僕にはできなかった。思い出すだけでも胸は痛むが、これもまた「ひと冬の夢」として、心にしまっておいた方がいいのかも知れない。
東南アジアのラテンアメリカと呼ばれる国で過ごした一週間。何度となく喜び、怒り、寂しさに暮れ、そして甘い恋をしたエモーショナルな日々。その時僕は気付いた。この旅で僕は異国での仕事生活を続けるためのガソリンを注入しただけではなく、開けっ広げな人間らしさを多少なりとも取り戻したのかも知れない。この収穫を大事に、今という一時一時を少しでも有意義に過ごしていこう。もうすぐこの上海にも春がやって来る。中心地で新しいデパートやおしゃれなレストランが次々と新装開店している今も、忘れがたいあの島ではその青い真夏の空の下、ゆったりと時間が流れていく。ゆったりと・・・。
(完)