第十二回 「パゴダの国との奇妙な縁」
(ミャンマー編)
Myanmar
ミャンマー旅の期間:2003年1月31日~2月12日 12日間
訪問地:ヤンゴン、バガン、キンプン、バゴー、パテイン
十日目:パゴダの田舎町パテイン
翌日は無事試験を終えたタンダちゃん、そしてその友達のチョー・チョー・キンさんと日帰りでヤンゴン郊外のチャウタン、そして民族文化村の散策に行き、夜はN夫婦も合流してチャイナタウンの屋外食堂で食事をした。いよいよここからはタンダちゃんのエスコートで、ミャンマー西部イラワジ管区にある漁港の町パテインへと向かう。N夫婦の取り計らいで、パテイン市内ではノーノーの実家に泊めてもらえることになった。
今回は早朝5時半に起きて荷物を担ぎ、N宅のマンションを出た。ここにはいつも客待ちしているおなじみのタクシーがおり、バガンの時と同じく下まで一緒に降りて来てくれたノーノーが、タンダちゃんのヤンゴンの自宅、そしてバスターミナルへ行ってくれとビルマ語で言ってくれた。行ってきま~す、と再びここでノーノーに別れを告げ、出発した。
かくして途中でタンダちゃん、そしてチョー・チョー・キンさんをピックアップし、一路バスターミナルへ。パテイン行きのバスは7時発であった。タンダちゃん達は二人分の荷物を詰めてきたと言って、これまた大きなトランクを引っ張ってきたので、バスに運び込むのを手伝ってから席を確保した。
しばらくバスに揺られていると、いつしか舗装道路が無くなり、田んぼと高床式の素朴な家々が車窓に広がる。ヤンゴン市を出たのだ。すると、バスの乗客がとあるチェックポイントで全員降ろされ、身分証チェックがあった。人々が身分証を片手にすんなりと関所を通ってバスへと戻って行く中、車内で唯一の外国人である僕はパスポートを掲示すると、軍服を着た役人がビザの番号を何かのノートに記帳し始めた。ビザはあるし、やましい事は何も無いので堂々としてはいたものの、とかくこの国の役人はよくわからない規定をいきなり作り、外国人にもそれを強要してくるので、内心不安であった。
「どこへ行く?」
「パテインです。」
「パテインへ行く目的は?」
「観光です。」
役人からはごく簡単な質問があっただけで、何事も無くパスポートは戻された。ホッと安心。同じチェックはパテイン市に入る時にもあった。この身分証チェック、以前ヤンゴンで爆発事件があってから始まったらしい。
車内に据付けられたテレビから流れる最近のヒット曲をBGMにタンダちゃんとおしゃべりに花を咲かせること約四、五時間、バスは無事パテインに到着した。停留所ではタンダちゃんのおばさんが迎えに来ており、一路彼女の実家へと直行した。たどり着いた彼女の家は二階建ての木造の家で、お米屋さんをやっているらしい。典型的な母系家庭で、家にいた人々は親類やら、お手伝いさんやら全員女性。両親は出張していて不在のようで、出迎えに来てくれたおばさんがその間この家を仕切っていた。最初タンダちゃんは、「この人が、あたしのおばあさんです」と言って僕に紹介した。まだ21歳だと言ったって、いくら何でもこの人がおばあさんだなんて、あまりに若過ぎないか? と首をかしげてしまったが、単に彼女の発音間違いであった。
男女の交際については保守的と言われるミャンマーなので、当初僕が彼女の実家をお邪魔できるとは予想していなかったが、早速テーブル一杯のごちそうでおもてなしを頂いた。子エビの炒め物に山菜サラダ、豚肉のカシューナッツ添えと煮魚にスープ。いわゆるミャンマー料理店ではあまり見ない家庭料理である。僕達三人が席について舌鼓を打つ中、家の人々はその周りでニコニコしながら僕達の食べる様子をじっと見ている。何だか気恥ずかしい感じがするものであるが、身振りや表情でおいしいとややオーバーに表現すると喜んでくれた。
食後、家の二階に上がり、アルバムを見せてもらいながらこの町で育ったタンダちゃんの生い立ちについて本人から聞いていた。驚いたのは、この部屋には縦横80センチ以上はありそうなタンダちゃんの特大顔写真が飾ってあったことである。美少女だからそれなりに絵にはなっているものの、この写真を自分で飾るかなぁ、とつい思ってしまう。
「この写真を見るにつけ、やっぱりかわいいなぁ、と思います。」
なんて、彼女は少し冗談っぽく言う。しかし、確かにミャンマー女性は全体的に美人で、スタイルがよくて、非常に親切。なぜそんなに三拍子揃っているのか、思わずタンダちゃんに聞いてしまった。「仏様の恵みです」。彼女は迷わずそう答えるのだった。
ちょっと休んだ後で市内見物に出発。彼女のお店の従業員の方が車を運転してくれた。パテインの一番の観光名所は郊外にあるチャウンター・ビーチであるが、町の中についてだけ言えば、一にパゴダ、二にパゴダ。小さな町だというのに、とにかく沢山のパゴダが林立している正にパゴダの町なのだ。しかもバガンのようにしつこくて不愉快な物売りもいなければ、バゴーのように法外な拝観料も無い。とにかく観光スレしていない正に穴場の中の穴場パテイン。車でこんなに沢山お寺巡りをしたのは中学の京都修学旅行以来。タンダちゃん、この見学順序は彼女が考えたのか、後になればなるほど個性的で面白いパゴダを見せてくれたのだった。順を追ってざっと紹介してみよう。
最初は、十個ぐらいの桜貝をサイコロのように転がし、表になった貝の数に合わせてカードを引くという占いが行われていたパゴダ。タンダちゃん達はもちろん、ミャンマー人は占いが大好き。早速占ってみると、仕事も恋愛も最悪の結果であった(泣)。 ま、日本のおみくじで「凶」を引いた時のようなもので、悪い内容でも参拝を続ければじきに良くなるということなのだろう。
二番目は、鉄人28号が屋根を見下ろすかのような巨大仏が直立不動のキヲツケ姿で立つパゴダ。このキヲツケ、一体何を意味している!? ここは仏像だけでなく、以前にも触れた「ナッ」と呼ばれる精霊の像も多い。仏教と直接関係の無い土着神だが、「仏教を守る神」と無理やり位置づけられ、なぜか仏寺にゲスト出演している。日本でも昔仏教と神道が融合された時もあり、古い仏閣の敷地内に稲荷神社があったりするが、あれに似たようなものだろう。
続いて三番目。やたらカラフルで表情豊かなモニュメントの多いパゴダ。中でも地獄を描いたものがリアルでおどろおどろしい。亡者を釜茹でにしたり、棍棒でボコボコにしている鬼、頭には二本の角が生え、フンドシ姿である所が日本のそれとよく似ている。その昔日本の寺でも人々に地獄絵を見せ、悪い事をするとこうなるぞと教育していたそうだが、ミャンマーはそれがそのまま生きているようだった。軍政の皆さんはしかと見てほしい。他にも釈迦の骨の破片が混じっているという白い砂利の入ったガラス瓶や、日本の除夜の鐘そっくりな釣り鐘もあった。
そして四番目。高床式の拝殿の正面に広がる庭園からニョキニョキと生えたような柱に鎮座している仏像を本尊として拝むパゴダ。ここでメダルを買い、仏像の周囲に取り付けられた桶の中に投げ入れる。それぞれの桶は学業とか健康とかテーマがあり、自分が願う桶にメダルを投げ入れるのだ。何だかお祭りの輪投げをやっているみたいで楽しめる。参拝にもやはりこういう遊び心があっていいと思う。拝殿近くの池では、人々が皆鯉にエサをやっていた。功徳になるらしい。でもデカい鯉ばかりが小さい鯉からエサを奪い取って一人占めしてるのでちょっとムカっときた。デカい鯉にエサの代わりに石をぶつけてやったら功徳にならんかな。
五番目のパゴダは、バガンのシュエズィゴン・パゴダのように規模の大きい金色の寺院。敷地は最も広く、参拝者も多かった。境内で、不謹慎ながらも何となくかわいかったのでハリボテの「二頭身仏」を2,000チャット(約200円)で購入。こんなディフォルメされた仏像もミャンマーでは真剣に崇拝の対象となっているのだ。
タンダちゃんが最もお勧めという六番目のパゴダ。着くや否や老僧の出迎えを受けた。自己紹介すると英語で応じてくれたのだが、この時老僧は「アラハット」とか「ライケン」という初耳の単語をやたらと使い、僕にそれを知っているかと問う。タンダちゃん達もそれらを日本語に訳せず、僕がこれらの単語の意味を理解しないと話が前に進まない状況に陥った。ラチあかないので実物を見に行こう、と老僧はその場を立ち、僕達をあるお堂へと案内した。そこには金色の塊のようなものがガラスケースに収まっていた。これは89歳で亡くなった高僧のミイラで、埋葬されて35年後に掘り出されても全く腐っていなかったのだという。まるで日本の即身仏のようだ。しかし布がかぶせられており、見えるのは顔と足首だけ。顔には全体に金箔が貼られていて辛うじて鼻らしきものが確認できる程度だった。彼等がそう言うのなら信じるけど、これがほんとに腐らない遺体なのかなぁ~・・・って、やっぱり信じてない?
ここで話がちょっとそれるが、そもそも僕とタンダちゃんとの出会いというのは非常に奇遇なものであった。N先生が出した文通希望者の募集広告に僕が応募して、ノーノーと知り合ったことは先に話した。この時実はノーノーの他にあと二人の生徒も紹介され、しばらくの間は三人を相手に文通していた。この三人は偶然にも皆パテインの出身。しかしノーノー以外の二人はやがてW学校を辞めて故郷へと帰ってしまい、以降連絡先がわからなくて文通はそのまま途絶えてしまった。短い手紙ながら優しさのにじみ出たノーノーの手紙と違って、他の二人の手紙は日本について教えてください、といったありきたりの内容に終始していたので、終わるべくして終わってしまった、と言った方が正解かも知れない。その後はしばらくノーノーとだけ文通を続けていたが、やがて彼女がN先生と結婚してからは、やり取りも疎遠になっていった。
ところがある日、ミャンマーから一通の手紙が僕の元に届く。封書の差出人名はビルマ語で書かれていて読めなかったが、僕はてっきりノーノーからの手紙だとばかり思っていた。しかし、それは全く面識の無いミャンマー女性からの手紙。その女性こそ、タンダちゃんだったのである。手紙によると、彼女が日本語を習い始めた際、地元パテインのある親しい友人から僕を紹介され、受け取った住所に手紙を出してみたという。その友人とは、パテインに帰って音信不通になった二人のうち一人、メイカさんだったのだ。何はともあれ、思わぬ展開による新たな文通相手の出現が純粋に嬉しく、今日までタンダちゃんとはやり取りを続けてきたのである。
さて、僕が急に話を脱線させたのは、パゴダ巡りの後で、タンダちゃんに突然街中のある小さな理髪店に連れて行かれたのだが、そこが彼女の親しい友人、メイカさんの家だったためである。
タンダちゃんが店内の奥の方に向かってビルマ語で彼女を呼ぶ。しばらくして玄関に出てきた女性がメイカさんその人であった。文通を始めたばかりの頃に写真を見たことはあったが、そのイメージとはずいぶん違っており、背丈は僕よりも高かった。ミャンマー人というより中国人に容姿が似てるな、と思ったら、彼女はやはり中国系ミャンマー人だそうだ。何せ日本語学校を辞めて三、四年の月日が経っているので、彼女は既に日本語を忘れており、加えて中国語も解さないため、結局直接のコミュニケーションは困難であった。そこでアジアらしくアルバムでも拝見させてもらった。ファッションデザインの勉強をしていたようで、しばらくその方面で活躍をした後、最近めでたく結婚し、旦那の経営する理髪店で一緒に仕事をしているのだという。それはおめでとうございます、お幸せに。とりあえず祝福の言葉を贈って別れた。一応タンダちゃんから会わせたい人がいると言われ、ここまで来たのだが、本音を言えば、親しくなる前に文通が途絶えてしまった人なので、今対面したところで、特に嬉しいわけでもなく、懐かしいわけでもなく、どうということもなかった。恐らくメイカさんも同じだったであろう。しかしほんのわずかとは言え、彼女との接点がもし無かったら、僕はタンダちゃんと出会うことも無かったし、こうしてパテインまで来ることも無かったわけだ。そう思うと、人との出会いって、何か運命的なものを感じずにはいられないのである。
今日一日お腹一杯パゴダを満喫し、夕方は地元料理で本当のお腹も一杯にした。この地方の有名料理「コーイーカウスエ」。うどんのような麺料理であるが、中華スープの中にきしめんが入っているような感じで、結構口に合う。これに添え物として付いてきた豚肉の揚げ物が何と日本のとんかつにそっくりで、思わずおかわりしてしまった。
それにしても、今回の旅、タンダちゃん始め友達の皆さんに終始お世話になりっぱなしであった。食事も、タクシーも、バスも、寺の賽銭さえも僕にお金を出させてくれない。年齢で言えば年上が、性別で言えば男性が、社会的に言えば収入のある方がすべてにおいて支払う側になるのがアジアでは通例であり、今回の面子を見れば支払う側の条件すべてに僕は当てはまっている。しかしここミャンマーではそうはいかないのだ。財産を投げ打って客を歓待することを誇りとする全アジア共通のホスピタリティ、仲間親戚同士助け合って生きる東南アジアの土地柄、更には仏教の功徳なんてものがいろいろ複雑にミックスした結果、彼等はこんなにも親切にしてくれるのかも知れない。そんな彼等に敬意を感じるからこそ、彼等の好意を退けてまで自分でお金を払うことができなかったのである。最終日だけは、今回お世話になった皆さんを必ずご馳走する。とりあえずそれだけは宣言しておいた。
夜。タンダちゃん達と別れ、彼女の実家からバイクで5分ほどの所にあるノーノーの実家に宿泊した。二階建てでバルコニー付の豪華な家。風通しをよくするためか四方八方に窓があり、何だかどこからか見られているかのよう。極めつけは僕の泊まる二階の寝室は一面マジックミラーになっており、室内の僕の方からは全て鏡になっているのだが、外からは完全にガラス張りで丸見えなのだった。一体これは何の意図があって作られた部屋なのだろう? シャワーを浴びて休憩していると、一階から数人の女性が大きな声で何かを読む声が聞こえてきた。この朗読は二時間止むことが無く、眠れない僕はしばらくバルコニーで満天の星を眺めていた。そう言えばヤンゴンのN先生宅でも早朝に似たような声が響いていた。彼等はクリスチャンだから聖書でも読んでいるのだろうか。始め僕はそう思ったが、実はこれ、ミャンマー流受験勉強。この家には看護婦志望の女子学生が数人下宿していたのだ。N先生宅にも一人大学受験を控えたいとこが住み込んでいた。彼等は試験で覚える内容をこうして何度も音読して丸暗記するのだという。
明日はパテイン郊外のチャウンター・ビーチへ行く。バスの関係で6時起きだ。日本では早起きが何よりも苦手な僕だが、アジアの旅をしている時は一秒でも現地の空気を感じるために早起きも我慢しないと。持参の蚊取り線香を焚き、寝床の蚊帳を下ろして早めに就寝した。それでも蚊に刺されるのだが。