第十二回 「パゴダの国との奇妙な縁」
(ミャンマー編)
Myanmar
ミャンマー旅の期間:2003年1月31日~2月12日 12日間
訪問地:ヤンゴン、バガン、キンプン、バゴー、パテイン
十一日目:痛みあれど愛しく・・・
朝もやのパテイン。早起きのノーノーお父さんに見送られた僕、玄関を出るとすぐにタンダちゃんとチョー・チョー・キンさんがやって来た。更に家の前では彼女のおばさん、そして昨日車を運転してくれた従業員の人がちゃんとバイクで待機していた。僕達は彼等のバイクの後ろにまたがり、バスターミナルへと急ぐ。田舎町にしてはそれなりに大きなバスだなあ、なんて思って中に乗り込んだ直後に、いきなりバケツをひっくり返したようなスコール。やれやれ危うくズブ濡れになる所だった、と胸を撫で下ろす。瞬く間に満席になったというのに、二人の車掌は、まだまだと言わんばかりに通路の予備シートや風呂場で使うような小さな腰掛けまで使って一人でも多く乗せようとしていた。バスの周りではこの悪天候をものともせずに、果物のかごを手で支えることも無く器用に頭に乗せた女性や、新聞少年達が大きな声で商売に勤しむ。一人の男はいきなりバスの中に入ってきて、乗客にビルマ語のチラシを配る。何にでも効く薬だと言って、バスが出発する直前まで妙な木の実を手に延々と口上を続けていた。しかし買う者がいないと、男はおもむろに一度配ったチラシを回収。ケチな物売りである。
これから向かうチャウンター・ビーチはパテインの郊外とは言え、道が舗装されていないので、これまた二時間ちょっとの長旅となる。出発して間もなくいきなりバスが停まった。そばの路上には全長1.5メートルありそうな大きな麻袋が十数個バリケードのように積み重ねてあった。まさか・・・と思ったが、降車扉にへばりつく二人の車掌、これら一つ一つをいそいそと担いで、満員バスの中へと運び始めたのだ。通路の予備シートや腰掛けは一旦片付けられ、通路上の端から端までこの麻袋が一つずつ敷き詰められていく。おいおい、もう積むのやめてくれよーって始めは思ったが、考えてみれば麻袋の上なら腰掛け無しでも人は座れる。つまり予備シートや腰掛けの頭数以上に人を収容できるようになったってわけ。なるほどー。しかも車掌達、今度は通路上の乗客にビニール袋を配り始める。ゲロ袋かと思えば、受け取った彼等は袋の中にペッペと唾を吐き始めた。乗客は皆あの噛みたばこ、コーンヤーをやっており、赤い唾を吐きたいけど窓から遠い人々のためにこのビニール袋が配られたようだ。ミャンマーの知恵、ミャンマーのサービスを次々と目の当たりにできる楽しいバスの旅。これから恐怖の体験をするとも知らずに・・・。
いくつか山を越えているうちに、空から再び陽も見えてきた。せっかく海に行くのだから晴れてほしいものだ、と祈りながらのどかな車窓の風景を楽しむ。水牛がのんびり水浴びする風景。タナカーという変わったおしろいを顔に塗った女性が行き交う風景。その塗り方も、都市部で見られるようなワンポイントのようにちょこっとではなく、正にベットリとである。まるでパイを顔にぶつけられた芸能人のようなのだ。
恐らく今回の旅最大の恐ろしい出来事だったかも知れない。それは山を超え、谷にさしかかった時だった。約10メートルの谷底には川が流れており、そこには二つの橋がかけられていた。一つはコンクリ製で大型車も通れる大きな橋。もう一つは木造で所々を角材で補強している幅の狭いオンボロ橋だった。一応大型バスである以上、当然選ぶ橋は決まりきっていると思っていたが、運転手は何を血迷ったのか、木造の橋の方を渡り始めたのだ。大荷物を一杯積み込んだバス。まるで吊橋のように微妙に揺れる感覚を覚えた次の瞬間、「バリッ」という木板の破れるような鈍い音が響いた。ちょうど橋の真ん中辺りであった。バスはゆっくりとバックして再び渡る前のポジションへと戻る。そしてもう一度チャレンジとばかりに、再び同じ橋をゆっくりと渡ろうとした。そして先程と同じ場所まで差し掛かったときだった。「バリバリバリッ!!!」今度はもっと凄まじい音が響き渡り、車内からは一斉に悲鳴が湧き起こった。こんな辺鄙な山中で谷底に転落して死んだら、一体日本の誰がそれを知り得ようか。。という思いが一瞬頭をよぎった。どうやら他の乗客達も同じことを思ったのか、次々とくもの子を散らすようにバスから駆け下り、対岸へと走り出した。もちろん僕達も一目散に走った。橋を渡るという行為にこんなにも恐怖を感じたのは、この日が初めてだった。かくして誰もいなくなったバス。再びバックして戻り、次は迷うこと無くコンクリの橋の方を通ってこちらへとやってきた。始めからそうすればよかったのに・・・。
いろいろあったが、バスが無事チャウンター・ビーチに着いた頃には、暑いぐらいに日差しも強くなっていた。そしてビーチ沿いにあるコテージのホテルにチェックイン。もちろん僕は一人部屋、彼女達は二人部屋。さて、ここからはちょっとしたリゾートライフだ。コテージから海を見ながらのんびりおしゃべりしたり、自転車を借りて浜辺を走り回ったり、ちょっとだけ海に入ったり。東南アジアでは全体的にそうなのだが、彼等には水着で泳ぐという習慣が無い。男女共にTシャツとジーンズの姿で泳いでいるのだ。いや、泳ぐ者もほとんどおらず、波打ち際で足をチャプチャプやってはしゃいでいる程度である。タンダちゃん達も例外ではなく、Tシャツとジーンズの格好であった。結局この雰囲気に逆らえず、一応下に水着を着込んでいたものの、その上に寝巻き兼用の短パン(さすがにジーンズで海はイヤだし)、それにTシャツで海に入り、一緒になってチャプチャプやっていた。海はそれほどきれいというわけではなく、中国の海南島、フィリピンのセブ島、インドネシアのプロウ・スリブに行ったことがある僕から見れば、客の少ない日本の海水浴場にむしろ近い印象であった。でも夜は浜辺で絶え間無く花火が打ち上げられる中、夕食を部屋のバルコニーまで持って来てもらい、波の音をBGMにシーフードを満喫。食後は三人で交互にいろんな歌を歌いながら過ごした。異国の人達に日本のことを説明する時、ふと感じる不思議な責任感。文化的な壁を越えて、同じ食べ物や同じ歌を共有できた時に初めて生まれる親近感。日本人には無い天真爛漫な魅力に満ちたアジアの異性にときめきながらも、今一歩踏み込めないシャイな自分へのもどかしさ。中国の大学に入ったばかりの頃に感じたいろんな感情が遥かミャンマーの浜辺で、花火と共に打ち上げられては街灯一つ無い闇の中に消えていった。
ちょうど昼前にパテイン市内へ戻った。しかしタンダちゃんによると、ヤンゴンへ帰るバスは昼過ぎの二時頃だとのこと、しばらくここで時間をつぶさないといけない。ノーノーの実家には帰りは立ち寄らないと言っておいたので、今日は留守のはずだ。タンダちゃん達もずっと僕に付きっきりでお疲れであろうと思い、僕は言った。
「時間が来るまでどこかのパゴダでゆっくりしてるから、君達は家で休んでてよ。」
しかしそこはそうさせてくれないのがミャンマー人の親切さか。
「いえ、パゴダはゆっくりする所じゃありません。ここで休んで下さい。シャワーでも浴びて。」
そんなわけで僕はこの家で冷水シャワーを浴び、軒先でボーッと外を見ていた。時々オレンジ色の袈裟を着た僧侶が、托鉢の鉢を手に現れては軒先の小椅子に腰を掛ける。僧侶は子供から老人まで様々である。この家のお手伝いさんが、大きな釜からご飯を掬い出しては僧侶一人一人の鉢に盛り付けていく。僧侶は一人去るとまた一人やってくる。毎日これだけやって来てご飯は無くならないのだろうか。いくら米屋とは言っても。一日に来る僧侶の人数はおよそ決まっているのだろうか。しかも鉢にご飯を入れる時、銀色のお椀に入れた状態で渡すのだが、このお椀は一体いくつあるのだろうか。僧侶は食べた後このお椀を返してくれるのだろうか。などといろんな疑問が湧いては消える。確か東南アジアの僧侶は女性と会話するのはご法度と聞いていたが、僧侶によっては家の人々とおしゃべりする者もいた。
やがて時間が来た。ここからバスターミナルまでは、軽トラックの荷台を改造したバスで約10分の所にある。タンダちゃん達も準備を終え、僕達はたまたま近くで停車したトラックバスに乗り込んだ。この時、これから起こるハプニングの序曲は始まったのである。ブチッ! 履いていたつっかけ型のサンダルのベルト部分が長旅に耐えかね、ついに切れてしまったのである。サンダルの壊れた哀れな僕に、狭い車内に座る人々の無表情な視線が集中する。何とも耐え難い気分であった。しかしもう乗り込んでしまったからには仕方無い。ターミナルに着いたらどこかの商店で替えのサンダルでも買うとしよう。そう思った矢先だった。
「いえ、ターミナルに生活用品を売る商店はありません。」
タンダちゃんはそう言うと、今度は運転手に向かってビルマ語で何か言ったのである。
「さ、行きましょう。」
彼女は僕にバスから降りるよう促した。始め状況が把握できなかったが、僕が新しいサンダルを買って来るまでバスに待っていてもらうよう彼女がお願いしたらしい。おいおい、ミャンマーのバスってそんなことがありえるの?! 他の客にもヒンシュクじゃないの?! 動揺しつつも彼女についてバスを降り、お役御免となったもう片一方のサンダルをその場で脱ぎ捨て、素足のまま近くの雑貨屋へ駆け出した。
商店に並ぶサンダルにはつっかけ型のものは無く、日本の草履に極めて近い形のみであった。草履はサイズと言うより、履き心地で決めるような所があり、なかなか決めづらい。しかしバスが待っている。ゆっくり物色しているわけにもいくまい。僕はサイズの近い物を選んで即購入。バスへと駆け戻った。
待たせてしまってすみませんでした、何てことも彼等の言葉では言えないので、せめて席には座らず立つことにした。これはトラックバスなので、立つと言うか、荷台後部にしがみつくという感じである。他にも同じようにしがみついている者も多く、ヘタに接触でもして手を滑らそうものなら、そのまま転落して後続車両の下敷きである。始めは狭い車内で視線を浴びるより快適かとも思ったのだが、ここからは周囲の景色も見えないし、身動き取れないし、落ちないように集中してないといけないし、やはりこちらの方がキツかったかも。
そんなこんなでバスはやっとターミナルに到着した。この時車内の人々が一斉に降りようとしたので、一番外側に立つ僕達は早く降りなければならなかった。そこでこの履き慣れない草履のままでこの荷台からジャンプして降りたのだ。ビーサンのような弾力など無い硬い草履はそのまま垂直に地面に接触。その瞬間右足の指に激痛が走り、思わずよろけた。しまった、突き指した・・・!!
タンダちゃん達が駆け寄った時には、僕は右足を引きずって歩く状態であった。突き指なら時間が過ぎれば治るだろう、僕はそう思ってヤンゴン行きのバスにゆっくり乗り込んだ。大丈夫ですか? うん、大丈夫・・・。彼女達とそんなやり取りをずっと続けながらバスはヤンゴンに向けて出発した。行きの道中では全員バスから降ろされたチェックポイント。帰りはなぜか地元民は全員免除。外国人のみ検問でパスポートの掲示が必要のようだったが、僕がケガしたことを考慮してくれたのか、車掌が代理で僕のパスポートを検問に持って行って手続してくれた。
ふと僕はチャウンター・ビーチから戻るバスのことを思い起こした。あの時車内が狭かったので、僕は自分のナップザックを足の下に置いていた。考えてみればそのナップザックの中には、先日パテインのパゴダで買った「二頭身仏」が入っていた。しかもそのザックに乗せていた足は右足だった。もしかして仏様を足蹴にしたのでバチが当たったのだろうか。。なんて妙な思いが頭をよぎる。それにしても最終日にこんなことになるなんてなぁ・・・。ま、旅の途中でこうなってしまったらもっと困っていたけど。
かくしてヤンゴンに到着。そのままN先生宅へ直行し、先生達に状況をざっと話した。ノーノーの勧めでインヤーレイク・ホテルにある医療施設「SOSクリニック」に行って診てもらうことにした。そこには欧米人のお医者さんが常駐しており、初めて英語で受診を受けた。抗生物質という意味の英語を言われて始めよくわからなかったが、英和辞典を持っている助手がいたので何とか理解できた。レントゲン等きちんとした設備も備わった清潔な医療施設だった。痛い指はやや黒ずんでいたので、もしかしてとは思っていたが、レントゲンの結果、嫌な予感は的中。指は骨折していた。テーピングして三週間すればくっつくと言われたけど、仕事に影響しないか心配。。。
足は痛いが、旅も終わりだから気を取り直そう・・・。今晩はこの旅でお世話になった皆さんへの感謝を込めて僕がご馳走することになっていた。招待したのはパテインまで行動を共にしたタンダちゃんとチョー・チョー・キンさん。もちろんN先生にノーノー。そして東京でのミャンマー・ホームパーティーで以前お会いし、その後ヤンゴンのホテルに就職、現在NGOの現地代表となっているY嬢にもお越し頂き、これに僕を合わせて今夜のメンバーは六人。場所はヤンゴン市内の日本料理店「シャン・モーミェ」。名前からわかる通り純和食ではなく、「和食を中心としたアジア料理店」といった雰囲気の店で、他にもシャン料理や中華料理も出していた。そもそもはシャン料理店からスタートし、いろんなアジア料理のジャンルを増やしていくうちに、いつしか和食が主力となっていったようだ。
寿司盛合わせ、カツカレー、牛丼、たぬきうどん、シャン・カウスエ(シャンそば)という何ともバラバラな料理が僕達のテーブルを彩り、思い思いに食べて、語った。初対面かと思っていたY嬢とN夫妻は何と以前ヤンゴンで会ったことがあるとのこと。ミャンマーの世界ってほんとに狭いことを実感。そんなこんなでお腹を一杯にした後、五人分ご馳走した総額は日本円で約3,000円ナリ。
荷物の紛失、病気、ケガと、ずいぶんトラブルに見舞われてしまったが、それ以上に深く印象に残ったミャンマーでの楽しい日々も終わろうとしている。一緒に束の間の思い出を作ってくれた仲間達とお別れし、翌日のフライトでバンコクに飛んだ。ここでは中国留学時代のタイ人の友人や、やはり東京のミャンマー・ホームパーティーで知り合った仲間で、今バンコク滞在中の日本人の友人にも会うことができた。バンコクは今、電車や地下鉄も走っていて、ここ数年の急激な発展が明らかに実感できる。歩く人々の服装は東京とほとんど変わり無く、ヤンゴンにいた時のようにシャンバッグなど肩に提げて歩くと、妙に浮いて見える自分。さすがにロンジーは着ないで大正解だった。恐らくこのタイに比べるとミャンマーの国力は十分の一かも知れない、と感じた。でも・・・、でも・・・である。やっぱり僕にはあの停電、断水ばかりのミャンマーが、舗装されてない道路を壊れそうな中古バスが走り抜けるミャンマーが、妙に愛しく感じるようになってしまっていた。一見静かで素朴な国のようであるが、そこを訪れる日本人の脳みそに潜む常識をことごとく打ち壊し、解放感をもたらすまるでパンクロックのような"気"があちこちに爆弾のように仕掛けられている国。バンコクは確かに以前より便利になったが、この解放感は感じられなかった。チャイティーヨー・パゴダの崖っぷちにある大岩がなぜ絶対に落ちないのか、チャウタンの湖に浮かぶ水上パゴダはなぜ水面が増水しても水没しないのか。その根拠を調査して、今後起こりうる災害対策に活用するという日本的な発想は一切無く、「仏様の不思議なパワーだ」という見解が世間一般で普通にまかり通ってしまう桃源郷は、世界でももはや少なくなってきている。地上最後の楽園って、何かここが一番当てはまるような気もする。もちろんミャンマーの知人の多くが望むように、できる限り早く民主化の方向に向かって行って欲しいと思う。国際社会に復帰すれば、当然急激な変化がもたらされるとは思うが、できることならこの国の雰囲気、人々の心はずっと変わらないでいて欲しい。
帰国後、旅のほとぼりが冷めたら、すぐに次に訪れる国の旅行プランを模索してしまうのが僕の癖。それなのになぜ後ろ髪を引かれるようにこの国のことが絶えず思い浮かぶのか。足の痛みもほとんど治ってしまった今もなお、週に一度、ヤンゴンのタンダちゃんとチャットなどして、今回の旅を何度も画像再生している自分がここにいる。いつものように冷静に分析する左脳が、仏様の不思議なパワーの直撃で破壊されてしまったらしい。こっちの方は足の指と違って旅行保険が効かないのでちょっと困っている。
(完)