第一回 「炎天下!ソ連の秘境」 

 (ウズベキスタン・タジキスタン・カザフスタン・トルクメニスタン編)


Uzbekistan

Tajikistan

Kazakhstan

Turkmenistan


ウズベキスタン旅の期間:1988年8月5日~11日 6日間

訪問地:タシケント、サマルカンド、シャフリサブズ、ブハラ、

ウルゲンチ、ヒワ、フェルガナ、コーカンド

 

タジキスタン旅の期間:1988年8月12日~13日 2日間

訪問地:ペンジケント、ドゥシャンベ

 

カザフスタン旅の期間:1988年8月14日 1日

訪問地:アルマアタ

 

トルクメニスタン旅の期間:1988年8月15日~16日 2日間

訪問地:マリ、アシハバード




サマルカンド: ちょっと悲しい体験

  翌日サマルカンド市内観光へ。バスは早速レギスタン広場に着いた。そこには三つの立派なイスラム建築がある。サマルカンド・ブルーと呼ばれる鮮やかなブルーで彩られたドーム状の屋根。一見モスクにも見えるが、これらはかつての中央アジアの征服者、チムールが建てたシル・ドルという回教学校だった。もちろんこの建物は建立されてから何百年も経っているし、1966年の大地震もあったので、本来の回教学校はほとんど崩れて残っていないはずなのだが、ここ数年前に修復工事を行い、昔の面影を再び取り戻したわけだ。三つの建物の中で、向かって右にある建物は入口に人の顔と虎の絵が描いてある。先程述べたようにイスラム教では動物を絵に描くことは禁じられている。ではどうしてこのような絵が回教学校の入口に描かれているのか? 現在のウズベクのイスラム教はスンニー派だが、チムール帝国時代はシーア派が強かった。当時シーア派は動物等の絵を描くことに割と寛容だったため、シーア派系の建築にはこうした異例のケースもあるのだそうだ。 

 僕達はシル・ドル回教学校の外に出て広場を歩き回った。Kさんは相変わらず積極的で、カウボーイハットのロシア兵士達やら、10人位のウズベク人の女子学生やらと一緒に写真に写っては、日本に帰って写真ができたら送るからと、住所も書いてもらっている。見ていてやっぱり羨ましさを隠せない僕であった。実を言うと、僕はぜひ地元の人とちょっとでも交流してみたいと思っていた。もちろん言葉ができないから、せめて一緒に写真に写るぐらいの交流でいいからしたいと思っていた。そのためわざわざ「一緒に写真に入ってもらえますか?」にあたるロシア語を覚えてきたのである。広場の奥の方に行くと、民族衣装を着たおばさん達が楽器の演奏に合わせて踊っていた。その近くに何やら行列があった。僕は勇気を出し、思い切って行列の中にいた男に覚えたロシア語で尋ねてみた。男は何も言わず、ただあっちへ行けという手振りをした。長い行列で退屈そうな人を選んで声をかけたのが、かえって冷たくあしらわれてしまった。でもやはり外国へ来て景色の写真だけ撮り、遺跡の説明ばかり聞いているのは面白くない。少しでもいいから地元の人と接してみたい。回教学校の前に戻ると、Kさんはまだ女学生達と身振り手振りで話していた。ウズベクの女学生はみんな派手な民族衣装を着、暑いせいか頭はスポーツ刈りである。なので一見男か女かわからない。だが髪の毛をのばしているきれいな子が一人いたので、その子に話しかけようとした。まずロシア語で「こんにちは」と言ったが、その子は聞こえているくせに顔を向けない。行列の男の一件は忘れて同じことを尋ねてみた。彼女はしばらく無視し、冷たく「ニエット」。持っているだけの勇気を出して下手なロシア語で話しかけただけに、その冷たい反応には正直傷ついた。ま、考えてもみれば無理はない。目的あって行列に並んでいる人が、なぜいきなり現れた無関係の外国人と一緒に写真に収まらないといけないのか。Kさんみたいに始めからあれこれ交流していたわけでもない男がいきなり割って入って来て、しかもその中の一人とツーショットをお願いなんてされたら、何だこいつ、と思うに決まっている。明らかに基本的なコミュニケーション方法を知らなさ過ぎた結果である。だがそれにしてもさすが外国。さすがソ連。日本人とは違う彼等のストレートに冷たい対応はやっぱり出鼻をくじかれた思いであった。「写真に入ってもらえますか?」。僕はこのロシア語を二度と口にしなくなるほど凹んでしまった。

 

  ちょっと苦い思いでサマルカンドを出た。これからバスは国境を越え、タジク共和国のペンジケントへ向かう。20分程でさしかかった国境には、サマルカンドというロシア文字とウズベクの国旗が描かれ、その隣にあるのはペンジケントという文字とタジクの国旗だ。そしてその後ろには、二つの手が握手している絵の記念碑が立っている。もちろんのことながら二つの共和国の団結を意味する。

 ペンジケントに入った途端、人々の顔つきの微妙な変化に気付く。青いターバンを頭に巻き、暑いのに青いオーバーをはおっているタジク人達。ぽっちゃり顔で日本人によく似ていたウズベク人と違い、彫りが深い。タジク人はイラン系の民族であり、この共和国にはシーア派イスラム教徒も多い。バスを降り、ペンジケント郷土博物館にやって来た。入口の前では小さい子供達が遊んでいた。カメラを向けると子供はくもの子を散らすように、建物の裏やベンチの下に隠れてしまう。今考えてみればただ恥ずかしくて隠れたに過ぎないのだが、その時はさっきのレギスタン広場での出来事もあったので、一層悲しかった。 

 館内は撮影禁止。だが監視が緩いので、父など数人はこっそりと隠し撮りをしていた。そこには古代ソグド人の使っていた剣等が展示してある。ソグド人というのはB.C.7世紀にいたペルシャ系遊牧民族で、この地に定着して農耕を始めた。現在のタジク人はこのソグド人の末裔だと言われる。彼等はゾロアスター教徒でソグディアナと呼ばれる王国を築いたが、アラブ人によるサラセン帝国の襲撃を受け、40日間の抵抗の末、ソグド軍は全滅し、当時の王ディワシティチは山奥へ逃亡した。ディワシティチは山の洞窟の中でアラブ侵入までの歴史をソグド語とアラビア語の文章で書き残して死んでいったのだが、その書物も展示されていた。 

 博物館を出てペンジケント遺跡へ行った。かつてソグド人が作った文明の跡だというが、僕達にはただの穴ぼこにしか見えなかった。専門家にしかわからないような遺跡だった。関係のない話だが、山のことをロシア語で「アナ」と言うそうだ。  

 再び国境を越えてサマルカンドに戻った。これから見に行くのはチムールの墓、グル・エミル廟とシャーヒ・ジンダ廟群である。チムールという人物は、先程述べた中央アジアの支配者である。かつてユーラシア大陸に史上最大の帝国を作り上げたチンギス・ハンの死後、息子や孫が帝国を分割し、それぞれ国を建ててしまった。中国に元、モンゴルにオゴタイ汗国、ヨーロッパにキプチャク汗国、イランにイル汗国、そして中央アジアのチャガタイ汗国。しかもそのうちチャガタイ汗国は内戦により東西に分裂したのである。チムールは当時の西チャガタイ汗国に生まれ、歳月の末、汗国の王に即位した。その時彼は強大な軍備を持ち、一気に東チャガタイ汗国を攻め落とす。その勢いにのって北はオゴタイ汗国、キプチャク汗国の一部、南はイル汗国を併合し、さらには現在のアフガニスタンやパキスタンにまで領土を広げた大王である。 

 しかしそんな歴史の覇者の最期はあっけないものだった。中央アジアでは、百年に一度、冬に-25度という信じられない寒さが来る。1405年冬、その記録的な寒さがチムールを襲った。彼は体を少しでも暖めようと、何杯もの酒をあおって中毒死したという。 

 チムールの死後、誰が後を継ぐか? チムールにはシャー・ルフとムハメット・スルタンという二人の息子がいたが、シャー・ルフは急死し、ムハメット・スルタンも小アジア(今のトルコ)遠征の指導者として先頭に立ち、戦死している。従ってシャー・ルフの長男、つまりチムールの孫にあたるウルグ・ペグがチムール帝国の後継者に即位した。ウルグ・ペグは政治家としてだけでなく、天文学者としても有名だった。サマルカンドにもウルグ・ペグの作った天文台がまだ残っているが、その説明は省略しておく。 

 かくして英雄が眠るグル・エミル廟に入ってみた。棺は全部で六つ。チムールの棺は真ん中にある。その前後にはシャー・ルフとウルグ・ペグの棺、左側にムハメット・スルタン、右側にチムールの恩師だったイスラム聖職者の棺がある。ここまでは本人と身内が一緒に埋葬されているということがわかるが、棺はもう一つある。それも他の五つの棺よりも大きく、高い位置に置いてある。その前方には一本の長い棒が立ち、先には馬の尾が垂れ下がっている。この中にいる人物は今の所よくわかっていないが、おそらくチムール帝国時代、国内にある回教寺院の全てを仕切っていたイスラム教最高実力者ではないかと言われている。尚、この墓を掘り起こすためにモスクワから沢山の研究者達がこの地を訪れ、チムールの遺骨を掘り当てたが、それが完了した翌日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まったという。神聖な墓を掘り暴かれたチムールの呪いではないかと、地元発掘者達は口々に語っていたそうだ。 

 続いてシャーヒ・ジンダ廟群を見学した。ここにはチムールの妻、妹、親類等の廟がある。またこの廟群の中にはマホメットの従兄にあたるクサム・イブン・アッバースの墓もあり、中央アジア、中東全土から毎年参拝者が来るので「第二のメッカ」とも呼ばれている。そう言われてみれば、沢山並んでいる廟の建物の前でひざまづき、両手を顔にあてて祈っている人が多くいた。シャーヒ・ジンダというのはウズベク語で「生きている王」という意味で、昔クサム・イブン・アッバースが最後の布教を行った後で古井戸に身投げしたが、今もなお井戸の底で生き続けているという伝説がある所に由来している。各廟の真ん中に棺が置かれ、その隣に洗面器のようなものがあり、中にはお金が入っている。イスラムにも賽銭があるようだ。僕はある一つの廟に入った。棺の周りはカペイカの山だ。古いコインを記念に持って行こうと一瞬思ったが、やはり良心が咎めて手を合わせながらペコっと頭を下げてそそくさ出てきたのだった。 

 

 サマルカンド観光を終え、ホテルに戻った。そう、あれは昼食を摂っている時だった。モスクワ・インツーリスト本社からの指令…、つまり二度目の予定変更が起こった。僕達は確かにこのホテルにチェックインしたはずだったが、翌日交代した責任者がいきなり、僕達の二泊目の予約を受けた覚えはない、そして次のツアーが来ているので、早く部屋をあけてくれと急かしているという。前の責任者に連絡を取ってくれとYさんとウラさんは反論したが、前の責任者は昨日の晩に帰ってしまったので、誰だかわからないと言う。全くの人権無視だ。本来ならここでもう一泊し、ブハラへ向かう予定だった。そこでインツーリストは、ここからバスで4時間の所にあるシャフリサブズという都市で一泊し、翌朝そこからバスでブハラに向かうようにとウラさんに指示を出した。シャフリサブズは元々のツアーのコースには入っておらず、僕も今までこの都市名は聞いたことがなく、また地図にも載っていなかったので、どこの共和国にあるのかも知らなかった。 

 結局否応無しに追い出された僕達は、ここから150キロ先シャフリサブズへ向けて出発した。バスが走り出して10分経たないうちに運転手が突然バスを停め、運転席から降りて町の中に消えた。数分後彼はスイカを抱えて戻って来た。バザールへ寄ったのだった。   

 

 町並みがだんだんのどかになっていく。道路脇には日干しレンガの民家が並び、入口の前にはベンチがある。必ずと言っていい程、老人から子供までみんなのんびりと日なたぼっこ。何も考えずにただボーッと座っている。そして僕達外国人の大きなバスが通ると、もの珍しげにじーっと見ている。時々自転車とバイクを一緒にしたような乗り物が走っている。とても心安らぐ風景だ。進むにつれて家は少なくなり、砂漠へと入っていく。地平線の向こうには雄大な山々が見える。どこの子供だろう。二、三人が道路脇で遊んでいた。やがて山が見えなくなり、草がぼうぼうと生えている景色に変わる。そこでは度々羊の群れに遭遇した。その中にはロバに乗った遊牧民もいた。彼等はバスよりどんなに遠く離れた場所にいても、必ず手を振ってくれる。予定変更のおかげで、僕達は知られざるウズベクの素晴らしさを見た。だが彼等と直接接せなかったのが非常に残念だった。 

 後で聞いた話だが、シャフリサブズはチムールの生まれた都市だそうだ。そこまではまだ大分かかるから、この時にウラさんから聞いたウズベクの民話を一つ紹介しよう。  

 

 昔ある草原の家に老人と三人の息子が住んでいた。老人は貧しかったが、素晴らしい知識と観察力を持っていた。ある日老人彼等三人に「家畜の代わりに知識を、金の代わりに観察力を持てばいずれ幸せを手に入れる日が来る」と言い、三人の息子に知識と観察力を伝授した。時が立ち、やがて老人は死んでしまったので、三人はどこかの町で仕事を見つけるべく、山越え谷越えまる40日間歩き続けたのち、ある朝遥か向こうに町が見えた。

 この時、長男がつい先程、ここをラクダが歩いて行ったとつぶやいた。またしばらく行くと、今度は次男がそのラクダは右目がつぶれているとつぶやいた。そしてまたしばらく行くと、三男がそのラクダの背中には、結婚した女の人と、小さな子供が乗っていたとつぶやいた。 

 するとその時、困った表情で辺りをキョロキョロ見回し、何かを探している様子の男がやって来た。三兄弟はその男に、ひょっとして女の人と子供の乗った右目の見えないラクダを探しているのではないか、と聞いた所、あまりに細かい特徴までズバリ言い当てられたため、男はうろたえ、そして彼等三人を疑い始めた。 

 「どうしてあなた方は、まだ私が何も言っていないのに、すべてわかるのだ。さては、お前達が女房と子供とラクダを奪ったんだな。さあ、どこに隠したか言え!」 

私達は、奪ってなんかいないし、そもそもそのラクダすら見ていないと三人は弁解するが、男の猜疑心は収まらず、なぜわかったのかと問い詰めた。私達は何をしていても、周りを観察する癖がついている。この町に入って歩いているうちに自然にそれがわかったと長男が答えたが男は納得できず、しまいには彼等三人を兵士の所に泥棒だと言って突き出してしまった。   

 かくして兄弟達は王宮へ連れて行かれた。中には大きな玉座に座った王と先程の男がいた。王は兄弟達に言った。 

 「この男の話によると、お前達は男の妻と子と家畜のラクダを盗んだそうじゃないか。この国でそのような悪質な行いは許されない。今すぐ盗んだものを返せ。さもなくば一生地下牢に閉じ込める。」 

観察しただけでそこまで細かい事柄がわかるというこの兄弟達に少し興味をもった王は、根拠を説明しろと三人に命じた。 

 「道を歩いていると、路上に大きなラクダの足跡と糞があり、それらはかなり新しいものだったからです。」 

長男は答えた。 

 「道の左側には家畜に食べられた草の形跡があったが、右側の草はぼうぼうと茂っていた。普通ラクダはそんな食べ方はしません。明らかに右側が見えないということです。」 

次男が答えた。 

 「あれから道をどんどん歩いて行くと、ラクダがつながれて休んでいたものと思われる、縄のかかった木を見つけました。その木の周りには、結婚の際女性が身に付ける指輪や装飾品が散らばっていました。そして子供が履くような小さな草履も見つけました。ですから私達が盗んだのではなく、奥さんと子供があの男から逃げたのです。」 

三男が答えた。王は男の方に向き直って事実を問いただすと、男はしぶしぶ三人の言う通りだと認めた。王は男を追い出したが、三兄弟についてはまだ試してみたいと思い、側近に大きな空の箱を持って来させて言った。 

 「今の話が本当に知識と観察力だけでわかったのかどうかを調べる。もし、これが答えられれば信用しよう。今から二人の側近が城の外にある何かをこの箱に入れる。その中身を当ててみろ。」

箱を持って外に出て行った側近達は5分ぐらい経つと、何かを入れた箱を王の前に運んで来た。 

 「さあ、中身を当ててみろ!」 

王は強気な口調で言った。三兄弟はしばらくじっと箱を見つめると、やがて長男が口を開いた。 

 「恐らく中身は大きな箱に似合わず、小さくて軽い物だと思います。」 

続いて次男が言った。 

 「とても丸い物です。」 

三男はしばらく考えていたが、やがて「わかった! 箱の中の物、それはザクロです」と言ったかと思うと、王も側近も開いた口がふさがらず、箱の中から一個のザクロを取り出した。   

 王はやっと三人の言っていたことが真実だと悟り、彼等を応接間に通し、ご馳走でもてなした。宴会を始めた時、王は三人に聞いた。

 「なぜ、あれがザクロだとわかったのだ?」 

長男は言った。 

 「箱を部屋に運んで来た時、側近達の顔には全く重そうな表情がありませんでした。」 

次男が言った。 

 「その箱を私達の前に置いた時、何か丸い物が転がる音がしました。」 

そして三男が言った。 

 「側近達が部屋を出てから、箱の中に物を入れて戻って来るまでの時間があまりにも短かった。ということは、城門を出ればすぐにあるものと考えますと、ザクロです。このお城へ連れて来られた時、門の前に沢山ザクロの実が生っていました。」 

 王はすっかり感心し、三兄弟を大臣に任命した。三人は金持ちとなり、一生幸せに暮らしたということだ。 

 これが、「観察力を持つ兄弟」という、ウズベクの民話の一編である。次にウズベクの諺をいくつか紹介しよう。   

*友のある者は広き草原のごとし、友の無き者はせまき手の平のごとし。 

*人と呼ばれることは簡単だが、人になることは難しい。 

*健康になりたければあまり食べるな、尊敬されたければあまりしゃべるな。

 

 果てしなく広がっていた草原にも、やがて夕暮れが近付いてきた。僕はこの時、腹に痛みを感じた。昼食を食べ過ぎたからかも知れない。途中バスが停まり、トイレに行きたい人はここに遊牧民のトイレがあるから寄ってくれと言うので、バスを降りた。ロバに乗った二人の遊牧民がこちらを見ていた。トイレは男性用と女性用があったが、男性用は中に誰もいないのにドアが開かない。そのためかドアの前に用を足した跡があった。仕方無く女性用を使用させてもらうと、こちらは逆にドアが閉まりにくい。中に電灯は無いので閉めると中は真っ暗になる。僕はドアの前に石を置いて、少し開けておいた。トイレの中には床に二つの穴があるだけ。それが便器だ。穴と穴の間にはしきりがない。だが乾燥しているため、全く臭いはしない。蝿の飛び交うレストランのトイレよりはずっとましだ。しかしバスに戻っても、痛みは止まらない。